Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, June 14, 2008

*Where can we find our "Hope"?

●希望

人は、どんなばあいも、身の回りから、希望をさがしだし、
それが、どんなに小さなものであっても、
その希望に、身を託して生きていくものなのか。

何ごともない人生。
平凡な人生。
とくに変わりばえのしない人生。
ふと、ぼんやりと、空(くう)を見つめる。

外の雑踏とは別に、動くものはない、
静まりかえった部屋。
乱雑に並んだ本。
壁にかかる絵。

いや、扇風機だけが、かすかに音をたて、
やさしい風を、なびかせている。
時計を見る。
テーブルの上に積まれた、おもちゃを見る。

生きているという実感は、あまりない。
見えるから、見ている。
聞こえるから、聞いている。
生きているから、生きている。

今日、この教室へ来るとき、自転車をこぎながら、
「私の希望とは何か」、それを考えた。
だれかに、「あなたの希望は何か?」と聞かれたら、
何と答えればよいのか、と。

あえて言うなら、息子の操縦する飛行機に、
いつか、ワイフと2人で、乗ること。
あとは・・・。
ほかに思いつかない。

ぼんやりと、雑念だけが、頭の中を、かけめぐる。
パソコン用の外付け電源のこと?
先日、亡くなった友人のこと?
今夜の過ごし方?
家の改築のこと?
山荘を手放す話?

こうして今日も始まり、気がついたときには、
その今日が終わっている・・・。

あとはその繰りかえし。
そうであってはいけないと思いつつ、
いつもそのまま空回り。

が、ふと、我にかえる。
かえって、「明日は何か、あるだろう」と、
希望をそこに、つなぐ。
小さな、小さな希望かもしれないが、
それだけが、今の私を生かしている。


●前向きに生きる

「死ぬときは、死ぬとき。それまで生きる」。
電話で、S君は、そう言った。

「林君、転移がみつかったら、それを治せばいい。
それからまだ4、5年は生きられる」と。

こうも言った。

「60歳からの人生は、もうけものだよ。
織田信長は、『人生、50年』と言った。
だからそれ以上は、もうけものだよ」と。

S君は、6年前に、十二指腸のガンで、
一度、手術している。
このところ、転移も疑われている。
「今週中に、再検査だ」と。
そんな彼が、そう言う。

前向きに生きるということは、そういうことか。

私「君は、明るく振る舞っているが、無理を
しているのではないのか?」
S「無理? とんでもない! あのなあ、林君、
ガンだからといって、めげることはない。
どうしてめげなければ、いけないんだ?
そりゃ、はじめてガンを宣告されたときは、
ショックだったよ。
半日、呆然としていたよ。
しかし半日だけだった。
ほかに症状はないし、ぼくは『治してやる』と
覚悟したね」と。

S君には、身辺整理などという、ジジ臭い考えは、
みじんも、ないようだ。
死ぬときまで、ただひたすら、前に向かって、
生きる。

「ぼくは、クラシック音楽が好きだ。
いつも、一束のチケットを、もっている」と。

毎週、病院へ通いながら、月に一度は、精密検査を
受けている。

「体なんてものはね、治しながら、使えばいい。
精神まで、犠牲にしてはいけないよ。
あのね、林君、ストレスがいちばん、いけない。
ストレスだけには、気をつけたほうがいい」とも。

学生時代、同じ法学部にいながら、S君とは、
ほとんど話したことがない。
つきあうグループがちがった。
そんなS君だが、40年を経た今、いろいろ
教えてくれる。

友のありがたさを、しみじみと感じた。


●GYさんからの

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D市にお住まいの、GYさんから、
メールが届いています。

(あとで転載許可をいただいてから、
掲載するつもりです。)

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もう6年ほど前に、D保育園の講演会でお話を聞かせてもらい、何度かご相談のメールをさせてもらったGYです。

長女も中学生になりました。長男は、小6です。
講演会のお話や先生の本を読んだり、子育ての大事な事をいっぱい感じることができました。

知らなかった頃より落ち着いた気持ちで、子供を見ることができました。(でもまだ心配性は心配性です。)

私は3年前に会社を退職し、(きっかけは義母の病気のため、ただ今は介護支援1で、元気に、ひとりで暮らしてます。)
今は私は、家庭菜園を楽しみながら主婦をしています。

去年の夏、色々考えながら畑をやっているときのこと、
(車無しの生活になり、いつも平日は1人きり)
自分の中でしっかりと、「ああそうなんだ」って感じたことがありました。

考えていたことは 自分の幸せって何なんだろう?
「子供や主人が幸せだなあって感じてくれたら、幸せって感じることだー!」

同じことを 私の親もきっと思っているのかなあ?
「私も幸せなら 私の親も幸せ 主人も幸せなら主人の親も幸せ」と。

主人の幸せには
「きっと私が義母と仲良くやって、子供が幸せって感じることかな」と。

子供も夫婦仲良くしていたいし~、健康も大事だし

先生のお話にも、孫を育てるような感覚で子供を育てるって、ありましたね。(意味のとり方が違ったらすみません。)

自分の子供が親になった時に、です。

私が感じた、
この気持ちが次の世代にも続いていくようにとか、
(子供や伴侶が幸せって感じる事も大事な幸せの1つ)、自分の子供のその先に続くものを感じながら接する事と思いました。

私自身両親が好きで、あんな夫婦になりたいなあと思っていたことに気付き、 
子供を見ていて、この頃こんなことして遊んでた、こんな失敗したっけと感じたり 
お母さんと自転車で桜見に行ったことを思い出し、
春娘と自転車で行ったり 
子育てしながら癒しを感じる自分は幸せで、
両親にあらためてありがとう私は幸せなんだねーって、
電話してしまいました。

もし二人の子供が例えば子供を二人ずつ増えて
またそんな感覚が次の世代に続いていったら、
4倍でまたその先に8倍とかどんどん広がって行くんだー。なんても、思ってしまいました。
理想ばっかりだけですが、

高校を卒業したときからずっと勤めていて、
子供が生まれても保育園、学童保育と、
お金が必要だから働く事が当たり前。
そんな生活をしていたのが嘘みたいです。
もちろん働く事も大切だし必要です。
(本当にぎりぎり生活です!)

少々の畑を耕しながら子供達の帰りを待つ。
手作りができるときは手作りおやつ。
(結構作りすぎて飽きたと言われていますが。)

晴耕雨読(ちょっと意味合いは違いますねえ)の生活で、
色々な本を読んで気がついたことたくさんありました。

でも私にとって大事なことに気が付くには、
とことんひとりで考える時間が必要でした。

知っていたのに、簡単なことなんだけど、色々な意味で気付くって嬉しいです。

今自分で出来ることで幸せに感じるかも?
と思ってやっていること

家族が気持ちよく家に居られるようにする。
今は家に居る事を賛成してくれる夫に感謝する。
夫婦喧嘩は私が先に折れる。
(子供が居なくなったらネチネチ言っちゃうかも。)
私たちが楽しく働いている姿(畑、家事、パパの仕事もね!)を、子供たちに見せる。
仕事の見送りは外まで! お帰りは大きな声でね!
今のところはこれくらいです。

自分で作った野菜は、
野菜達や虫の命を頂くってことも気がつきました。
虫も生きいてるけど、「ごめん、プチって」つぶすことも。
だから大事に食べる。
太陽の光、空気、水、土、
生きるには大事なんだなあと感じたり
緑、花、鳥、月、星綺麗だなあーって感じたり。
 
生きる(生かされている)意味ってなんだろう?
わからない事いっぱいです。

でもまた簡単なことに感動して
気がついたらメールさせて下さい。

話をする人があまり居なくって
今まで人と話す事が仕事だったせいか、
どうも大人の人と話す事が無性にしたくなります。

(家族以外は、子供の友達ばっかりで、アハハ)
今は知り合いのほとんどの人が働いていて、ちょっと孤独を感じます。

先生の講演会をまた聞きたいのですが
開催の予定はありますか?
また一般参加ができるような講演会があれば教えて下さい。
それではお身体を大切にしながら、
お仕事は益々張りきっちゃって下さいね。
応援しています。

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【GYさんへ、はやし浩司より】

GYさんからの転載許可がいただけるという前提で(?)、先にエッセーを書いています。
勝手な判断で、ごめんなさい。
つごうが悪ければ、折り返し、お知らせください。
削除します。

で、GYさんの生き方で、共感する部分が、多いです。

とくに、『でも私にとって大事なことに気が付くには、とことんひとりで考える時間が必要でした』という部分を読んだときに、そう感じました。

何か考えていると、その先に、ふと、光り輝くものを発見するときがあります。
宝石のようなものです。
そのときは、「やったー!」と、思わず、声をあげます。
それがあるから、考えることを、やめられません。

ほら、よくこんなことを言う人がいますね。
「どうせ考えても、どうにもならない」
「人生、気楽に生きるにかぎる」と。

さらには、「考えすぎると、病気になる」「とか、うつ病になる」とか言う人さえいます。

しかしそういう人は、かわいそうですね。
(考える)ということと、(悩む)ということを、取り違えています。

人生をパズルにたとえるのもどうかと思いますが、
人生は、巨大なパズルのようなものです。
ジグソー・パズルのようでもあるし、クロスワード・パズルのようでもある。
そんな思いで、生きていく……。

つまりね、生きる楽しみは、そんなところにあると思います。
他人の知らないこと、他人の気づいていないこと、それを知ることは、本当に、楽しいです。

たとえばAさんなら、Aさんと話をしているとしますね。
ときに、私から見ると、Aさんの心の動きが、手に取るようにわかるときがあります。

「ああ、この人は今、自分を、懸命にごまかそうとしているな」とか、
「この人は、やがてこんなふうに考えるようになるだろうな」とか、など。
が、同時に、「こんな人に、私の考えを説明しても、理解できないだろうな」と思うこともあります。

そんなとき私は、とぼけて、バカなふりをします。
ちょうど幼稚園児を相手に、「3足す5は、いくつだったかなア?」と、助けを求めるようにです。
幼稚園児は、ムキになって、あれこれ説明してくれますが、私は内心では、それを笑っています。

また、こんなことを再確認しました。

私たちが求める幸福というのは、そんなに遠くにあるのではない。
私たちのすぐそばにあって、私たちに見つけられるのを、そっと静かに、待っている。
GYさんのメールを読んで、そんなことを感じました。

賢明な人は、それをなくす前に気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。
私たちは、いつも賢明でありたいと思います。

メール、ありがとうございました。

実のところ、ここ1、2年は、講演活動も、ひかえています。
「低調」というよりも、「マガジン発行」に力を入れています。
体力の衰えも、強く感ずるようになりました。

そういえば、GYさんが住んでおられるD市での講演も、近く、ひとつあるはずです。
またマガジンを通して、連絡します。

(講演の日時を書くのは、この世界では、危険なことなのだそうです。
空き巣に『おいで』と言っているようなものなのだそうです。
ある読者の方が、そう教えてくれました。
以後、講演の日時は、書かないようにしました。
物騒な世の中ですね?)

で、今。

みんな、がんばっているのだなあと知ることは、本当に、励みになります。
メール、ありがとうございました。
このまま、一度、GYさんのほうへ、エッセーを送っておきます。
どうか、転載について、了解してください。
(いつも、そうさせていただいていますので、今回も、だいじょうぶだろうという思いで、勝手に、先に転載してしまいました。
すみません。)

はやし浩司より