Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, June 09, 2008

*My Friend died in the airplane clash in 1972

●ニューデリー航空機墜落事件

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J社の南回りヨーロッパ線である、471便、DC―8型 がニューデリーのパラム空港への着陸進入中に、空港の約24キロ手前のジャムナ河畔に墜落し、搭乗員89名中86名と、地上の工事作業員4名が死亡した。

1972年6月14日のことだった。

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●山本Yさん

私はいつも、山本Yさんのことを、「山本さん」と、「さん」付けで
呼んでいた。

私の1年先輩で、理学部に在籍していた。
そのYさんが、2年から3年に進級するとき、突然、退学、
そのまま、宮崎県にある航空大学校へと入学していった。

私はその生きざまというか、パイロットになるという彼の野望に、
感動した。

私は、大学の合唱団に属していた。

●合唱団

私は今でも、山本さんの美声を忘れない。
合唱団のコンサートでは、いつも独唱をしていた。
今でも忘れないのは、学生会館で、ロシア民謡の「カリンカ」を
独唱したときのこと。
「♪……庭には苺の実……」と。

背が高く、スラリとした人で、どういうわけか、私と気が合った。
私は山本さんを、先輩として慕い、山本さんは、「林君……」「林君……」と、
よく声をかけてくれた。

●消息

私が山本Yさんの消息を、本気で求めるようになったのは、
私の息子が、同じ航空大学校に入学すると決まったときからだった。
私は息子に、いちばんに、こう言った。

「先輩に、山本Yさんという人がいるから、さがしてほしい。
今ごろは、パイロットとして活躍しているはずだから、
何かと知恵を授けてもらえるかもしれない」と。

しかし何度息子に問い合わせても、返事は、同じだった。

「パパ、そんな人はいないよ」と。

私は、そのつど、「そんなはずはない。しっかり調べろ」と叱った。

●同窓生からの連絡

はからずも今日、6月10日、私は、同窓生のSK君から、
山本Yさんの消息を聞いた。

息子の話になり、ついで、山本Yさんの話になったときのこと。
SK君も、同じ合唱団に属していた。

SK「知らなかったのか? 山本さんは、ニューデリー空港の
飛行機事故で亡くなっているよ」
私「ちょっと、待ってよ、それ本当?」
SK「そのとき、副操縦士をしていてね、何でも副操縦士のミスとかで……。
知らなかったのか? 当時は、大ニュースだった……」と。

●ニューデリー空港事件

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

+++++++++以下、ウィキペディア百科事典より抜粋++++++++

ニューデリー空港の着陸誘導装置の不調と、操縦士が通常の3倍の降下率で降下し、計器(高度)確認を怠ったことが原因と言われているが、機長以下乗員が前夜宿泊していたバンコクのホテルで遅くまで飲酒しながら徹夜で麻雀していたとの目撃証言があり、これが事故の遠因となったとの指摘もある。

コックピットボイスレコーダーを解析した結果、墜落数秒前まで3人のパイロットはまったく異常に気づいておらず、操縦を担当していた副操縦士は目視したジャムナ河の護岸工事の照明を、滑走路の照明だと思い込んでいた(当日は砂塵により視界はあまりよくなかった)。

外の気温が45℃であったため機長は「どんどん冷してくれ」、航空機関士は「All freon on (冷却装置全開)」と普通の会話で客室乗務員に伝えている。一方、規程で行わなければならないはずの、降下1000フィート毎の高度確認をする声はなく、高度が異常に低下していることに全く気づいていなかったと推測されている。

このような状況のため、着陸復航を決意する高度である「デシジョン・ハイト」を過ぎても誰もそれを言わず(本来は声を出して知らせるべき高度である)、もう地上まで35メートルの高さになってから航空機関士が声をかけるような状態だった。墜落5秒前、機長は滑走路が無いことに気付いて「パワー、パワー」と叫び、エンジンを加速させたがもはや遅かった。

事故発生の翌日、J社が救援機をニューデリーに飛ばしている。この便には当時NHK記者の木村太郎も同乗し、現場から事故の状況をレポートしているが、あまりの砂嵐で喋ることもままならず、J社もマスコミも大量の目薬と粉塵用の眼鏡を緊急輸送するように要請している。

この救援機のパイロットは、パラム空港へ着陸進入する際、墜落機同様高度確認を怠っていたこともありILSのアウターマーカーでの高度設定が間違っていることに気づかず、そのまま着陸しようとして危うく墜落現場と同じ場所に着陸しそうになり、慌てて着陸をやり直している(目視による夜間の着陸であれば確実に墜落していた)。

他にも、J社機が墜落する30分前に同じような現象を経験して、危うく墜落を免れたインディアン航空のパイロットや、別便のJ社のパイロットもいたため、ILSの誤誘導が事故原因ではないかと言われており、J社のパイロットの間では現在でも「幽霊電波」と呼ばれている。

これらは、柳田邦男の『続・マッハの恐怖』に詳しい。

+++++++++以上、ウィキペディア百科事典より抜粋++++++++

●沈黙

私は知らなかった。
1972年というと、私がこの浜松市に移り住んで、2年目ということになる。
「あのころ、何をしていたのだろう?」と懸命に、頭の中をさがしてみるが、どうもはっきりしない。

1972年の6月14日……?

そのころ、山本Yさんは、ニューデリー沖で、亡くなっている。

本当に私は知らなかった。
航空機事故のことは、どこかで聞いたような記憶はある。
しかしそのときの副操縦士が、あの山本Yさんだったとは、
まったく気がつかなかった。

●息子に電話

現在、息子は、そのJ社に入社し、アメリカのNAPAで、操縦訓練を
受けている。
今年10月ごろまで、そこにいて、それがすむと、石垣島で、大型機の
操縦訓練に入る。

その息子に電話をする。
しかし不在。
伝言に、こう残す。

「今日は、ママの誕生日だよ。あの山本Yさんだけど、今日、消息がわかった。
山本Yさんは、J社のニューデリー沖墜落事故で、亡くなっていた。当時、
副操縦士をしていたそうだ。1972年の6月14日。わかるか、6月14日だよ。
お前の誕生日だよ」と。

そこまで言うのが精一杯だった。

山本Yさん、心からご冥福をお祈り申し上げます。
ちょうど、36年目の今日、6月10日に!


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司