Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, June 10, 2008

*A Case of an Aipplane Crash in New Delih in India

【ニューデリー・飛行機墜落事故】(2)

●山本Yさん

山本Yさんの話をつづけたい。
山本Yさんは、あのニューデリーでの飛行機事故で亡くなっている。
「あの」といっても、「そういう事故もあったような気がする」という程度の記憶でしかない。
おぼろげというか、事件全体が、濃いモヤに包まれている。
が、確かに、あの事件は、あった。

1972年6月14日。

そのとき私は、今のワイフと知りあった。
ワイフも、そう言っている。

J航空会社が、海外で起こした、戦後はじめての事故という。
それだけに当時は、大きな事故として扱われたという。
現在、同じJ航空会社で働く息子に、電話でそのことを話すと、息子は、こう言った。
「あの事故は、J社の中でも有名な事故だよ」と。

パイロットの卵たちは、座学というスクーリング(授業)を通して、過去の事故についても学習する。
その学習のテーマにも、なっているらしい。
息子は、それを言った。

私「記録によると、副操縦士の操縦ミスが原因となっている。ぼくには、そんなことが、信じられない」
息「あの山本Yさんだったとは、知らなかった。ぼくのほうでも、調べてみるよ」と。

●「やってみろ!」

もしあなたの息子が、パイロットになりたいと言ったら、あなたはそれに、どう反応するだろうか。
たいていの親は、それに反対するだろう。
賛成するにしても、「両手をあげて」というわけにはいかない。
危険な職業であることには、ちがいない。
大きな不安が残る。
「やってみろ!」と、ハッパをかける親は、さらに少ない。
が、私は、その(さらに少ない親)の一人だった。

いや、当初は、内心では反対した。
しかし航空大学校の倍率が、60倍と聞いて、どこか安心した。
「どうせ、受からないだろう」と。

が、息子は、本気だった。
毎日、横浜から羽田まで、サイクリングをして、体を鍛えた。
毎日、大学での講義が終わると、予備校にも通った。
そしてある日、私にこう言った。
そのとき私は、パソコンでフライト・シムレーターのゲームをしていた。

「パパ、ぼくの夢はね、いつか、パパに本物の操縦桿を握らせてあげることだよ」と。

その一言で、ホロリときた。と、同時に、こう言った。
「どうせ受験するなら、ぜったいに、合格しろ!」と。

そのとき私は、あの山本Yさんのことを頭に思い浮かべた。
山本Yさんが、私に与えた衝撃は、大きかった。
山本Yさんが、大学を中退して、航空大学校に入学すると聞いたとき、私は地面にたたきつけられるような衝撃を受けた。

だから私は、息子にこう言った。
「お前が飛行機で死んでも、ぼくは涙を流さない。いいか?」と。

●山本Yさん

息子が航空大学校を受験すると決まった日から、私は、山本Yさんの消息を求めた。
今では、インターネットで検索するという方法がある。
が、いくら調べても、山本Yさんの名前は出てこなかった。

また息子が航空大学校に入学するとすぐ、息子に、山本Yさんと連絡を取るよう、指示した。
しかし息子からの返事は、いつも同じだった。

「パパ、そんな人はいないよ」「OBにもいないよ」「どこにもいないよ」と。

が、そんなはずはない。
山本Yさんが宮崎へ向かう日、みなで、送別会まで開いた。

●空が好き

一方、息子は、私の心配など、どこ吹く風。
今は、カルフォルニア州にあるNAPAで、操縦訓練を受けている。
「空を飛ぶのが、メシより好き」という男である。

休みのときは、仲間と、カナダやアラスカまで飛び、そこで軽飛行機を借りて、そのあたりを飛び回っている。
また訓練の合間をぬって、近くの飛行操縦学校で、水上飛行機の免許を取るための訓練も受けている。

そういう話を聞くたびに、私は、心のどこかでこう思う。

「あいつが死んでも、ぼくは泣かない」と。
息子は息子で、果てしない夢を追いかけている。
好き勝手なことをしている。
仮に飛行機事故で死んだとしても、息子の死を悲しむ暇など、ない。

そういう私の気持ちを察してか、いつだったか、私にこう言ったことがある。
私が、「最後の最後まで飛行機に残る覚悟はあるか」と聞くと、息子は、迷わず、こう言った。
「ある!」と。
私の息子は、昔から、そういう息子である。

●夢

ここにも書いたが、その事故で亡くなった遺族の方には申し訳ないが、山本Yさんは、自分の夢を果たした。
夢を果たしながら、死んだ。
そんなわけで、少なくとも山本Yさんの遺族は、山本Yさんの死を悔やまなかったはず。
むしろ、事故でなくなった乗客の人たちに対しての、謝罪の気持ちのほうが、強かったはず。
それを思ったら、自分の息子の死など、何でもない。
現在の自分の心境を、当時の事故に投影させてみると、そうなる。

ウィキペディア百科事典によると、当時の事故で亡くなった人の中には、インドでのハンセンシ病と闘っていた日本人も含まれている。
そういうたいへん貴重な人も、亡くなっている。
私が山本Yさんの親なら、申し訳ない気持ちで、いっぱいになるだろう。

「空を飛ぶのが、メシより好き」と思うのは、パイロット自身の勝手。
しかし事故で命を落とす人のことを考えたら、安易に、飛行機の操縦桿など、握ってほしくない。

そう言えば、息子は、こう言っていた。

「教官は、いつもこう言っている。『お前たちの背中には、何百人という乗客が乗っている。それを片時も忘れるな』とね」と。

とても残念なことだが、報道に書いてあるように、その前の晩、機長以下、パイロットたちが酒を飲んで、マージャンをしていたという。
もしこれが事実とするなら、言語道断。
他人の命を預かる職業の人が、すべき行為ではない。

●調査

なお当時の事故についての報道は、現在、NHKの各センターで、視聴することができるという。
私なりに、一度、当時の事故をもう一度、検証してみたい。
それは一義的には、山本Yさんの名誉回復のため。
二義的には、私が今、感じている不安を、解消するため。

そう、私が自分の息子に、「やってみろ!」とハッパをかけたとき、第一に頭の中に思い浮かべたのは、山本Yさんのことだった。
そしてあのとき受けた、地面にたたきつけられるような衝撃のためだった。

私ができなかったことを、息子がしようとしている。
だから、「やってみろ!」と。

それがよかったのか、悪かったのか?
今、少なからず、迷っている。
その不安を払拭するため。

ここで私が、山本Yさんの冥福を祈らなかったら、それこそ、山本Yさんの死は、無駄死で終わってしまう。
息子には、そんな思いをさせたくない。
そのために、もう一度、自分なりの方法で検証してみたい。