Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, July 31, 2008

*Divorce

●7月31日、木曜日(July 31st, 2008)

●金魚の糞(ふん)

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昨日は、いろいろあって、合計で10キロ
前後、歩いた。
今日も、いろいろあって、合計で、5キロ
前後、歩いた。
歩いていると、頭の中のモヤモヤが消えるから
不思議である。

ワイフは、「そんなことをしていると、倒れる
わよ」と言う。
私はそれに答えて、こう言う。
「一度、ぶっ倒れるまで歩いてみたい」と。
しかし夏の炎天下を歩くのは、危険である。
靴の底が焼けるように熱くなる。
汗も枯れて、意識がぼんやりとしてくる。

そんなわけで、私は徘徊する老人の気持ちが
よくわかる。
私の兄も、グループホームへ入る前、たびたび
自転車に乗って、あちこちを徘徊した。

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●徘徊

痴呆老人の中には、徘徊する人が多い。
M氏もそうだった。
当時、85歳くらいだった。
家の高い塀を乗り越えて、外へ出て行ってしまったりした。

M氏のばあい、その数年前、脳梗塞を起こしている。
そのため方向感覚がなくなり、自宅へ帰る道を忘れてしまったという。
徘徊が始まったのは、そのころだという。
M氏の妻が、「どこへ行きたいの?」と聞いたことがあるという。
M氏は、「群馬の実家に帰りたい」と答えたという。

いくら何でも、浜松市から群馬県のO市までは、歩いては行けない。
行けないが、認知症が始まると、そういう判断もできなくなるらしい。

で、徘徊だが、私も、痴呆老人になれば、まちがいなく徘徊をするようになるだろう。
(歩くことの快感)を知っている。
歩いていると、悲しみやさみしさを、忘れることができる。
身のまわりのわずらわしさから、解放される。
さらに歩いていると、たぶん、脳の中にモルヒネ系のホルモンが分泌されるのだろう。
甘い陶酔感を覚えることもある。

●K氏のケース

たまたま昨日、群馬県に住んでいる、K氏という人から、相談のメールが届いた。
年齢は、私と同じ、60歳だという。
私は最近、ときどき離婚問題について書く。
それについて、「同感です」と。

K氏も(?)、見た目には、仲のよい夫婦で通っているという。
56歳でリストラされ、それ以後は、近くの公的な娯楽施設で、窓口業務をしている。
勤務時間は楽で、午前10時ごろ出勤。
いつも午後5時前には、帰宅している。
(それまでは、セブン・イレブン・・・つまり午前7時出勤、午後11時帰宅。)
つまり妻と過ごす時間が、それまでの「2倍以上」(K氏談)になった。

が、そのころから妻との関係が、おかしくなり始めたという。

「ふだんは、やさしい女性だと思うのですが、何かあると、すかさず私を否定します。
私がすることは、何もかも、気に食わないみたいです。
私がタンスから赤いシャツを取り出すと、『それはダメ!』とか、
あるいは風呂に入ろうとすると、『まだ早いでしょ』とか。

そのときの目つきというか、表情は、私を完全に軽蔑しきっているのですね。
瞬間のことですが、それが私の脳裏にピタリと張りついてしまうのです。
息子の前で、『パパは、金魚の糞よ』と言われたことがあります。
妻が『金魚』で、私は、妻の『糞』というわけです」と。

で、現在、K氏は離婚の準備をしているが、それすらも、妻に見透かされてしまっているという。
「どうせ、あんたなんかに、離婚できないわよ」と。

「先日もそこまで言うなら、アパートを借りて、出て行くと言ってやったのですが、妻は、平然と、『借りらア・・・』と答えました」と。
(以上、M氏からのメールを要約。)

●たがいの欲求不満

妻は結婚と同時に、それまでのキャリアを失う。
それから生まれる欲求不満には、相当なものがある。
一方、夫は、結婚と同時に、家族の犠牲になる。
犠牲になっていると気づかないまま、犠牲になる。

が、子育てが終わり、ほっとしたところへ、突然、(老後)がやってくる。
そのとき、良好な夫婦関係、親子関係ができあがっていればよし。
が、そうでないとき、「犠牲」という言葉が、重く、自分にのしかかってくる。
「私は、今まで、何をしてきたのだろう?」と。

実は、この私とて、ワイフとの関係を支え、家族を維持するのに、精一杯。
たとえて言うなら、波打ち際に作った、砂上の楼閣のようなもの。
繰りかえしやってくる波で、楼閣が削られるたびに、懸命にそれを修復する。
手を抜いたとたん、楼閣は、根底から崩れさっていく。
あとはその繰りかえし。
その恐怖との闘い。
「家族」「家庭」と言いながら、心の休まる日は、ほとんどない。

だから私は、歩く?
歩きながら、わずらわしいことを忘れる?

恐らく徘徊する老人も、自分を追いかけてくる何かから逃れるため、歩きつづける?
その証拠に、徘徊する老人は、そのあたりをぐるぐる回るというよりは、前へ前へと、歩きつづける。

幼児にも似たような現象が見られることがある。
同じ「家出」でも、目的が感じられる家出は、それほど心配しなくてもよい。
しかし一方向に、どんどんと歩いていく家出は、警戒したほうがよい。
かばんの中に、ありとあらゆるものを、手当たり次第、詰めて、家出する。
(これに対して、目的のある家出は、その目的に合わせたものをかばんに詰めて、家出する。)
こうした家出を繰りかえす子どもは、家庭のあり方を猛省する。

私はワイフに、どこか冗談ぽく、「ぶっ倒れるまで歩いてみたい」と言うが、それは本心かもしれない。
「死んでもかまわない」という思いが、そこにある。
徘徊する老人がそこまで考えているかどうかはわからない。
しかし動物の中には、どんどんと歩きつづけて、最後には海の中へ集団で入っていくのもいる。
人間にも、そういう原始的な習性があるのかもしれない。
認知症になると、管理能力が極端に低下する。
それで原始的な習性が、表に出てくる(?)。

つまりそこまで理解できるようになったということは、私も、その(仲間)に入りつつあるということか。

なお離婚について言えば、何も民法に書き並べてある離婚事由だけが、離婚理由ではない。
K氏のようなケースもある。
ただK氏のことはメール以上のことについては、わからないが、私の印象では、K氏は、離婚しないと思う。

(離婚したい)という思いと、(実際に離婚する)ということの間には、大きな距離がある。
ものすごいエネルギーが必要である。
そのエネルギーがまだ足りない。
K氏が言っている程度では、離婚できない。
だから離婚しない。

K氏へ、

また何かあれば、メールをください。
書くことで、自分の胸のうちがスッキリすることもあります。
私はいつもそうしています。

●付記

家庭内別居をするようになったら、あぶない?
心が通い合わなくなる。
とたん夫婦関係は冷却化する。
顔を合わせても、あいさつだけ。

口論もなければ、喧嘩もない。
一見、平和な家庭になる。

しかし人はこういう状態に、それほど長くは耐えられない。
そのうち相手の息をかぐだけでも、不愉快になる。
そばにいると思うだけで、うさん臭くなる。

本来なら、そうなる前に、たがいに修復すればよい。
しかしそこに至るまで、たがいに、つっぱってしまう。
意地を張る。
がんこになる。
「私はあやまらない」
「ぼくは悪くない」と。

で、一気に、家庭内別居となる。

が、この段階で、「それでもいい」と、同居をつづける夫婦も少なくない。
たがいに、それを割り切る。
中には、「子どもが大学を卒業するまで」とか何とか、何かの目標を
作って、がんばっている人もいる。
しかし人間関係は、目標どおりには、いかない。
何かのきっかけで、夫婦関係は、そのまま崩壊する。

……あとは、お決まりのコースをたどって、離婚。

夫婦といっても、所詮、他人と他人。
その(他人)を感じたら、夫婦も、おしまい。