Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, July 30, 2008

*Short Essays

●身辺整理

どこかの旧家のように、代々、子孫がその家を引き継ぐということであれば、私が今、考えているような問題は、起きない。
(だからといって、それがうらやましいわけではないが……。誤解のないように!)

しかし私の家のばあい、私の代で、すべてが終わる。
息子たちは息子たちで、勝手に生きていけばよい。
私は私で、それまで勝手に生きる。

となると、現在住んでいる家や、財産は、どうなるのか?
どうしたらよいのか?
(処理の仕方をまちがえると、息子たちの関係がバラバラになってしまうし……。)

先日、私の知人が他界した。
彼は巨億の遺産とともに、6畳間いっぱいの書籍を残した。
自費出版だが、その知人が書き残した本も、10冊近く、ある。
原稿となると、その数十倍以上は、ある。

土地や建物、証券や現金などの遺産はともかくも、私は、「あの本や原稿はどうなったのだろう?」とときどき、考える。
(とくに諸橋先生が書いた、大辞典はどうなったのだろう?)
それにその知人は、晩年になってからは、世界中を旅していた。
あちこちで買い集めたみやげものが、棚に、無数に並んでいた。
(その知人は、細工のこまかい、小物を買い集めるのが趣味のようだった。)
「あのみやげ類も、どうなったのだろう?」と。

先日、盆供養に行ってきたが、奥さんとは、そんな話はしなかった。
しなかったが、気になった。

というのも、この問題は、「では、私はどうすればいいか」という問題と重なる。
数ではその知人には及ばないが、私にも、無数の書籍がある。
過去の思い出とつながる品々も多い。
土地も家も、自分名義のものがある。
書いた原稿は、この10年間だけでも、2万枚を楽に超える。
「そういうものは、どうなるのだろう?」と。

……というわけでもないが、このところ、どこへ行っても、みやげと言えば、食べ物ばかり。
知人の趣味をよく知っていたので、何かの小物を買うということは、まず、ない。
「ああいうものは、買っても、結局は無駄になるだけ」と。
問題は、原稿である。

私は、「私の墓は、原稿」と思っている。
野原の石に、私の魂は、ない。
またそんなところに、私の魂を置いても、意味はない。
少し前まで、「私の墓は、私の本」と思っていたが、そのあとインターネットという、とんでもない怪物が現れた。
「やがて第二の産業革命と呼ばれるようになるだろう」と言われているが、私は100%、その意見に同意する。

書いたものは、インターネット上に、どんどんと公開していく。
読んでくれる人がいても、いなくても、私には関係ない。
読んでくれる人がいればうれしいが、読んでくれなくても、かまわない。
で、「私の魂とは何か」と聞かれれば、それは(私の思い)ということになる。
骨や灰などに、自分の思いをこめることはできない。

……ということで、このところ自分の身辺整理を考えることが、多くなった。
「まだ先のことではないか」と思う人もいるかもしれないが、身辺整理といっても、まだ10年や20年はかかるかもしれない。
そのうち頭のほうが、ボケてしまうかもしれない。
そうなれば、そこで身辺整理は、おしまい。
だから時間との勝負。

手始めに、子どもたち(生徒たち)に、自分が集めた小物類を、渡している。
(先日、タイで買ってきた、純金の仏像を渡しそうになったこともあるが、これは直前でやめた。これは余談!)

あとは、息子たちや孫たちに、いろいろな機会を通して、そのつど渡そうと考えているが、それはもう少し先になりそう。

そうそう、そのうち、「ネット墓地」というサービスも始まるかもしれない。
生前に、その人の記録や業績、作品などを、すべて「墓地」として収録しておく。
遺族たちは、そのつどその墓地を訪れて、故人を偲ぶ。

しかしこういうサービスは、半永久的なものが望ましいという点で、公的な機関が管理するのがよい。
どこかの寺や教会がしてもよい。
もしそういうサービスが始まれば、私はまっさきに加入うるだろう。

これも余談。

(補記)
もうひとつ真剣に考えていることが、ある。
いつか自分が死ぬとき、(死ぬ前でもよいが)、私は自分の生涯のすべてを、たとえば、USBメモリーのようなものに残し、それをほしい人に、渡したい。
今は、USBメモリーにしても、2GBのもので、2000~3000円はするが、そのうち、10GBのもので、500円以下になるかもしれない。

10年後には、100GB~1TBのものもできるようになるかもしれない。
そうなれば、原稿はもちろん、過去の写真すべてを収録することができる。
が、大きさは、神社でもらうお守り程度。
あるいはもっと小さくなるだろう。
「何かあったら、このUSBメモリーを開いて見てください」と。
つまりそれが私の遺品ということになる。
位牌でもよい。

想像するだけでも、楽しい!


●HP 2133

ヒューレッド・パッカード社の、ミニ・パソコンを買って、ちょうど1か月になる。
今のところ、まだ気に入っている。
が、使い勝手はあまりよくない。
英語式キーボードのため、日本語ワードが、たいへん使いにくい。
記号の位置と、キーの表示が一致しない。
「enter」キーが小さく、やや下方にあるため、打ち(打鍵)ミスが多い。
さらにキーがすべすべしていて、しかもピッチが浅く、ソフト。
バンバンとキーを叩くことに慣れている私には、まるでかゆいところを、羽か何かにさわられているような感じ。
つまり、「歯がゆい」。

もう少し、クリック感を強くしてくれないと、キーとキーがくっついている分だけ、叩きミスが多い。

そこで家の中で使うときは、USB接続の外付けキーボードを接続して、使用している。
これは日本語式キーボードだから、通常のデスクトップと同じようにして使える。

が、何と言っても、画面が小さい。
8・5インチしかない。
そこでこのHP2133専用の老眼鏡を用意し、それを使っている。

まあ、近く、このミニ・パソコンは、息子に払い下げるつもり。
そこで今、新しく狙っているのは、MSI社のU100。
白モデルが、M社から8月に発売になる。
ただ残念なのは、バッテリーのもちが、2時間弱程度とか。
実際には、カタログ値の70%ということだから、1時間40分程度しかもたない。

バッテリーを使っている人ならみな知っていると思うが、バッテリーが、残りの10%とか、20分以下になってくると、落ち着いて作業ができなくなる。
実際、 HP2133のばあい、10%以下になると、警告文が出て、そのまま自動終了してしまう。

そんなわけで、U100については、買うとしても、予備のバッテリーを同時に購入するしかない。
(その点、HP2133には、2本のバッテリーが付属していた。
合計で、7時間あまり、連続使用ができる。)

さあ、どうしようか?
目下、あれこれと迷っている。


●バッテリー

そのバッテリーだが、このところどんなカタログにも、「バッテリーは消耗品です」と書いてある。
つまり使えば使うほど、性能が落ちてくるということ。
そこで雑誌などを読むと、こうある。

「バッテリーを長くもたせるには、(1)満タン(=100%充電)にしないこと。(2)長期に渡って使わないときは、10~20%前後の充電にして保存すること。(3)自然放電を防ぐため、サランラップなどでしっかりと密封しておくとよい、(4)使う直前になって、90%前後まで充電するとよい」(某パソコン雑誌)と。

しかし10年前には、私は、それを知らなかった。
ノートパソコンにしても、バッテリーを装着したまま、いつも使っていた。
そのため、数か月もしないうちに、バッテリーとしての機能を果たさなくなってしまった。
無知だった。
で、新しいバッテリーを繰り返し購入したが、値段も、結構高かった。
1個2万円前後はしたかな?

そんなわけで、今は、しっかりとバッテリーを本体からはずして、使っている。
余計なことかもしれないが、ノート型パソコンを使っている人は、この原則を、しっかりと守ったほうがよい。


●帰宅拒否

私は子どものころ、帰宅拒否児だった。
それに気づいたのは、自分が35歳も過ぎたころのことだったが、ともかくも、そうだった。

が、今でもその亡霊が、私の中に残っている。
何か仕事でいやなことがあると、「逃げ出したい」というよりは、「家に帰りたくない」という思いが、顔を出す。
家がいやというのではなく、仕事で何かいやなことがあったりすると、そうなる。

で、そういうときは、街道沿いのパソコンショップや、書店で、1~3時間、過ごして帰る。
義兄たちの家に、寄ることもある。
しかし実際には、そういうときというのは、あまり人にも会いたくない。

で、ワイフが心配するといけないから、一応電話をすることにしている。
ひどいときには、そのままどこかのホテルにでも泊まりたい気分。
が、ひとりで泊まるのも、さみしい。
で、「こういうとき、愛人でもいたらなあ」と思うときがある。
そばにいて、話し相手になってくれるだけでよい。
(そういう点では、私も、かなりマザコン的?
情緒が不安定になると、そうなりやすい?)
が、残念ながら、そういう便利な人はいない。

だからパソコンショップに寄ったり、書店に寄ったりする、となる。

で、数日前も、こんな男性の手記を、何かの本で読んだ。
その男性は、リストラか何かで、職を失ったのだが、そのことを家族には話さず、(=話せず)、毎日、それまでどおり、会社に出勤するフリを繰り返していたという。
その間、公園で時間をつぶしたり、映画を見たりしていたという。


私には、その男性の気持ちがよくわかる。
たいへんよくわかる。
私も仕事をしていて、いやな気分になることは多い。
この仕事は、「教育」とはいうものの、その底流では、おとなたちのどす黒い欲望が渦を巻いている。
そういう渦に、ときとして、こちらが望まなくても、巻き込まれてしまう。

そういうとき、家に帰りたくなくなる。
考えてみれば、これはおもしろい心理ではないか。
どうしてだろう?

単純に考えれば、仕事で不愉快なことがあれば、家に戻って、家族とともに、その疲れを癒せばよいということになる。
が、実際には、それができない。

私自身に自閉傾向があるせいか?
悩みや苦しみがあると、それを内へ内へとためこんでしまう。
つまりその分だけ、自分の心を開放することができない?
だからそれが帰宅拒否へと、つながっていく(?)。

もちろん帰宅拒否をしたからといって、問題が解決するわけではない。
ときには、かえって落ち込んでしまうこともある。
最終的には、ワイフに、「あのなア……」と、話すことで、気分が楽になる。
が、そこまで自分をもっていくのが、たいへん。
何かしら負けを認めるようで、つらい。
自分の無能、無価値ぶりを、さらけ出すようなもの。
おそらく、会社へ行くフリをして家を出る男性も、同じような心理状態ではないか。
私ももし、同じような状況に立たされたら、同じようなことをするだろうと思う。

ワイフといっても、こと今の私がしている仕事については、まったくの部外者。
教育の経験も、ほとんどない。
「あなたの気持ち、よくわかる」とは言ってくれるが、本当のところ、何もわかっていない。
だから一方的に私がグチを言い、ワイフが聞き役に回るということになる。

……実は、昨日も、そういう状態になった。
いやな気分だったから、深夜劇場に足を運んだ。