Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Friday, August 08, 2008

*Declararion for Peace by Children

●子どもによる平和宣言(Declaration for Peace by Children)

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今年も、広島、長崎で、子どもを使った
平和宣言がなされた。

それについて、私はかねてより、「子どもに
そんなことをさせてはいけない」と書いて
きた。

平和を守るのは、おとなである私たちの
責任。
子どもたちの未来を守るのも、おとなで
ある私たちの責任。

子どもを使うのは、卑怯だ!

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8月8日、韓国で奇妙な事件が起きている。
どこかに立てこもった一群の中の子どもたちが、韓国の大統領である、イ大統領を
口汚く、ののしっているという。

文章を簡潔にして、紹介させてもらう。

+++++++++以下、朝鮮N報++++++++++++

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」

 先月23日、体験学習のためソウルにやってきた地方の小学生たちが、曹渓寺(ソウル市鍾路区)に立てこもっている、「狂牛病(BSE)の危険のある米国産牛肉の全面輸入に反対する国民対策会議」(以下、対策会議)の芳名録に書いた、文や動画が公開され、韓国社会は衝撃を受けた。

この小学生たちは10歳前後、小学3~5年生の子どもたちだった。「立てこもっている人たちがけしかけた」という学校側の主張と、「自発的に書いた」という対策会議側の主張は食い違っている。

これについては警察の捜査で明らかになるだろう。

+++++++++以上、朝鮮N報++++++++++++

少しわかりにくい話なので、解説してみる。

現在、ソウルの曹渓寺というところに、アメリカ産の牛肉の輸入に反対する団体が、立てこもって、それに反対しているという。
その寺の芳名録に、その小学校を訪れた子どもたちが、芳名録に書き込みをした。
それが冒頭にあげた、文章である。

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」と。

これについて、(1)立てこもっている人たちが、子どもたちにけしかけた。(2)子どもたちが自主的に書いたと、意見が分かれているという。

が、どちらであるにせよ、つまりけしかけられたにせよ、自主的に書いたにせよ、その背後には、(おとなたちの意思)が、感じられる。
少なくとも、こうした言葉は、子どもたちだけの発想では生まれない。

そこで日本の子どもたちによる、平和宣言。
私は、平和宣言がまちがっているというのではない。
それ自体は尊いものであり、世界に向かって宣言して、当然である。

しかし、子どもを使って、それをしてはいけない。

5年前(03年)に、こんな原稿を書いたことがある。

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●子どもによる平和宣言

 よくどこかの会場で、小学生くらいの子どもが、平和宣言をすることがある。「私たちは、平和を守り……。戦争に反対し……。核兵器を廃絶し……」とか。たいていは、……というより、ほとんどは、おとなたちが用意した原稿を、子どもが読みあげているだけ。たまたま、この原稿を書いている今日も、「地雷をなくそう、全国子どもサミット」(03年2月8日)があった。疑問がないわけでもないが、しかしそういうのなら、私も、まだ理解できる。

 しかし子どもを使って、平和宣言など、子どもに言わせてはいけない。子どもをそういうふうに利用してはいけない。それはあまりにも酷というもの。だいたいそんな子どもに、戦争だとか、平和がわかるわけがない。だれだって、戦争より平和のほうがよいと思っているに決まっている。

しかし平和というのは、それを求めて積極的に戦ってこそ、得られるもの。皮肉なことに、戦争のない平和はない。ただ「殺しあいは、いやだから」という理由だけで、逃げまわっている人には、平和など、ぜったいにやってこない。世界は、そして人間が本来的にもつ性(さが)は、そんな甘いものではない。

 たとえば戦後、つまりこの58年間、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、日本人がそれだけの努力をしてきたからではない。日本人が平和を愛したからでもない。日本が、戦後、58年間という長きにわたって平和を保つことができたのは、アメリカという強大な軍事力をもった国に、保護されていたからにほかならない。

もし日本がアメリカの保護下になかったら、60年代には、中国に。70年代には、韓国や北朝鮮に、そのつど侵略されていただろう。台湾やマレーシアだって、だまっていなかった。フィリッピンに袋叩きにされていたとしても、おかしくはない。日本は、そういうことをされても文句は言えないようなことを、ほかの国に対して、してしまった。

しかももっと悪いことに、いまだに、公式には、日本はその戦争責任を認めていない。中には、今でも「あの侵略戦争は正しかった」と言う日本人すら、いる。今の北朝鮮を容認するわけではないが、彼らが日本を憎む理由には、そういう時代的背景がある。

 わかりやすく言えば、子どもが平和宣言をして、それで平和な国がやってくるというのは、まったくの幻想。平和というのは、それ自体は、薄いガラスでできた箱のように、もろく、こわれやすい。ときには、戦争そのもののように、毒々しく、醜い。仮に今、平和であるとしても、その底流では、つぎの戦争を求めて、人間のどす黒い欲望が渦巻いている。つまり、平和を口にするものは、一方で、そういうものと戦わねばならない。その戦う意思、その戦う勇気のあるものだけが、平和を口にすることができる。

子どもを使って平和宣言をさせるというのは、子どもを使って宣戦布告するのと同じくらい、バカげている。それがわからなければ、子どもに、援助交際反対宣言をさせてみればよい。子どもに、政治家の汚職追放宣言をさせてみればよい。あるいは覚せい剤禁止宣言でもよい。環境保護宣言でもよい。

そういうものが何であるかもわからないまま、無知な子どもに、そういうことを言わせてはいけない。そうそう、あのK国では、幼児までもが、「将軍様を、命がけで守ります」などと言っているという。幼児が自分の意思で、自分で考えてそう言うのなら話はわかるが、そんなことはありえない。繰りかえすが、子どもを、そういうふうに利用してはいけない。

 そんなわけで、私は、小学生や中学生が、片手を空に向けて平和宣言をしている姿を見ると、正直言って、ぞっとする。あるいはあなたは、アメリカやヨーロッパや、オーストラリアの子どもたちが、そういうふうに宣言をしている姿を、どこかで見たことがあるとでもいうのだろうか。残念ながら、私はないが、ああいうことを子どもに平気でさせる国というのは、全体主義国家か、あるいはその流れをくむ国と考えてよい。

 「地雷をなくそう、全国子どもサミット」では、ある子ども(滋賀の小学生)は、つぎのように話している。

「地雷でケガをした人を見るのは初めてで、結構びっくりしたからそんなにしゃべったりできなかったけれど、何かちょっとずつだけど、声がかけられるようになったからよかったと思っています」(TBS報道)と。私たちが聞きたいのは、子どもたちのそういう生の声である。

子どもたちのために平和を守るのは、私たちおとなの義務なのだ。どこまでいっても、私たちおとなの義務なのだ。それを忘れてはいけない。
(030209)

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さらに進むと、自爆攻撃がある。
テロリストたちは、まだあどけない子どもを利用して、アメリカ軍などに対して、ゲリラ攻撃をしかけている。
一度、その指導風景がテレビで紹介されていたが、指導者らしき男は、子どもたちに向かってこう説明していた。

「死んでも、この世とまったく同じ世が、向こうの世界にある。だから恐れるな」と。

もしそうなら、テロなどしても意味はないということになるのだが、それはともかくも、子どもを使うということは、そういうことをいう。

平和宣言だからよい。
ゲリラ戦だからよくない。
そういうふうに線引きすること自体、まちがっている。
それぞれのおとなたちは、それぞれの思惑をもって、子どもを利用する。

それがわからなければ、もう一度、最初に引用した、朝鮮N報の記事を読みなおしてみることだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子供による平和宣言 子どもの平和宣言)

(補記)

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 この原稿を書いて、4か月になる(03年)。いろいろな原稿を書いているが、4か月前に書いた原稿という気がしない。遠い昔に書いたような気がする。ただ子どもに平和宣言させることに、全面的に反対というわけではない。子どもに戦争の悲惨さを教え、ついで平和の尊さを確認させるという点では、意味がある。しかしそれでも、私は、「それでいい」とは、どうしても思えない。

 いつだったか、どこかのカルト教団の取材に行ったときのこと。全国大会とかで、全国から数万人の信者が集まっていた。その席でも、やはり小学生代表が、こう叫んでいた。

「私たちは、○○導師様の教えを守り、この信仰を、世界に広めていきます!」と。小学生による平和宣言などというものは、私には、その延長線上にあるとしか思えない。

 繰りかえすが、平和を守り、子どもたちを守るのは、私たちおとなの義務である。しかしその平和というのは、自ら戦って、勝ち得るもの。「殺しあいはいやだ」と逃げてまわっていては、平和は絶対に守れない。

 同じく繰りかえすが、平和主義には、二つある。「殺されても、抵抗しません。文句を言いません」という平和主義。もう一つは、「平和のためなら、命すらおしくない。いざとなったら、戦争も辞さない」という平和主義。ここにも書いたように、「殺しあいはいやだ」と逃げてまわるのは、平和主義でも何でもない。ただの逃避主義でしかない。

 また先の原稿の中で書いたように、戦後の日本がかろうじて平和を保つことができたのは、それだけ日本人が平和を守ったからではない。また日本人が平和を愛したからでもない。日本がかろうじて平和を保つことができたのは、たまたまアメリカという国に占領され、その保護下にあったからである。

 私は60年代に、交換留学生として、韓国に渡ったが、彼らがもつ反日感情というのは、感情というレベルを超えた、「憎悪」そのものだった。今でも基本的には、その構図は、変わっていない。仮に北朝鮮が日本にめがけて核ミサイルを撃ち込んだとしても、それを喜ぶ韓国人はいても、悲しむ韓国人はいない。そういう現実を前にして、小学生を仕立てて平和宣言をする。そのオメデタサは、いったいどこからくるのか。(だからといって、私が戦争を求めているのではない。どうか誤解のないように!)

今朝の報道によれば、あの北朝鮮は、すでに核兵器を数個もち、さらに今後、半年の間に、5~6発の核兵器を製造する能力があるという。さらに今年の終わりには、核実験もするかもしれないという(クリントン政権時代の北朝鮮担当官・ケネス・キノネス氏)。そうなれば日本は、もうおしまい。金XXの影におびえながら、毎日ビクビクしながら、生活をしなければならない。

 小学生による平和宣言の話を書いているうちに、またまた頭が熱くなってしまった。私の悪いクセだ。しかし、これだけは言える。どんな形であるにせよ、おとなたちは自分たちの政治的エゴを追求するために、子どもを利用してはならない。子どもには、子どもの人権がある。その人権だけは守らねばならないということ。決して、子どもたちを、猿まわしのサルのように利用してはいけない。
(030628)