Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, August 14, 2008

*Essays(1)

●運動不足+ラジオ番組

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夏休みになって、とたんに運動量が減った。
いつもの3分の1以下。
おととい、長野県の入笠山湿原を歩いたが、あの程度では、「運動した」とは言わない。
おかげで、どうも体の調子が、よくない。
だらけたというか、だるいというか……。

そんなわけで、先ほど、庭の草を、草刈り機で刈った。
一汗かいた。
が、そのあと心地よい眠気。
その眠気を抑えながら、パソコンに向かう。
3時から、温水器の修理をしなければならない。
それまで45分。
今は、HP2133に、外付けキーボードを取り付け、この文章を書いている。
すぐ横には、もっと大画面の、NECのLAVIがあるというのに……。

このあたりが、ふつうの人には理解してもらえないところかもしれない。
私は、どのパソコンも、平等に使うようにしている。
それぞれのパソコンに、女性名をつけている。
このパソコンには、「ヒューちゃん」。
使いにくいからといって、放り出すようなことはしない。
そんな冷たいことはしない。

それにしても運動不足。
体がスタスタと動かないのは、いやだ。

そうそう、来週、どこかのプロダクションが、横浜のスタジオで、私のラジオ番組を制作してくれるという。
その模様を、DVD化して、全国で5万人の人たちに配布してくれるという(予定)。
おもしろそうな企画なので、やってみることにした。
そのためにも、運動をしておかねばならない。
ぼんやりした頭では、話はできない。

今夜あたりから、サイクリング、開始!

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身近な人で、体の調子を悪くしていく人の話を聞くのは、つらい。
若いころは、「私には関係ない」と、一歩離れたところで、そういう話を聞くことができた。
が、今は、ちがう。
どんな話を聞いても、「明日は、我が身」と思う。

たてばワイフの姉のKさんが、このところ兄弟たちの集まりにも出てこない。
「どうしたの?」と聞いたら、「あまりよくない」とのこと。
「血糖値が高すぎて、ときどき目まいがする」とのこと。

もうひとりの姉さんのEさんも、ひざを痛めて、久しい。
義兄のひとりも、前立腺がんで、春に手術をした。
で、話を聞くと、ほかの人たちも、みな、それぞれ何らかの持病をかかえている。
闘っている。
健康な人のほうが、少ない(?)。
見た感じは、どの人も、元気そうなのだが……。

健康というのは、維持するもの。
その健康が下り坂になったら、運動量をふやす。
それしかない。
この努力を怠ったとたん、あとはゴロゴロと、下り坂をくだっていく。


● 「まあ、いいじゃねえか」

昔、Kという、たいへん著名な作家がいた。
そのKが病気になり、私が見舞いに行くと、こう話してくれた。

「オレは、若いころ(18、9歳のとき)から、無精子症でな」と。

驚いて私が、「だって、先生には、息子さんが……」と言いかけると、私の言葉をさえぎりながら、Kは、「まあ、いいじゃねえか」「いいじゃねえか」と言って笑った。

「愛」にも三種類ある。
本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。
「代償的愛」というのは、自分勝手で一方的な愛をいう。
子どもの受験競争に狂奔しているような母親を見れば、それがわかる。
「子どものため……」と言いながら、その実、子どもを利用しているだけ。
自分の感ずる不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。

が、その一方で、「真の愛」ほど、実感しにくい感情もない。
事故とか、大きな病気になったようなとき、姿を現わす。
ふだんの生活の中では、もろもろの茶飯事の中に埋もれてしまい、そこにそれがあることさえ、わからない。

しかし真の愛は、そうした日々の生活の中で、熟成される。
多くの親は、あるときは希望に喜び、またあるときは絶望に苦しむ。
そうした無数の山を越え、谷を越えながら、やがて真の愛にたどりつく。

作家のKは、「いいじゃねえか」「いいじゃねえか」と言って笑った。
無論、そうした心境に至る過程の中で、Kは、もがき、苦しんだにちがいない。
しかし最終的には、Kは、彼の妻を、許し、忘れた。
真の愛にたどりついた。
だからこそ今に名を残す、大作家になった。……なることができた。

あなたも子育てをしていて、何か大きな問題にぶつかったら、こうつぶやいてみるとよい。
『許して、忘れる』と。
その先に、あのKの言葉が待っている。
「いいじゃねえか」「いいじゃねえか」と。

そこは実におおらかで、心地よい世界である。


●母

母の下痢で汚れた尻をふいてやったとき、それまでのわだかまりや、こだわりが、ウソのように消えた。
私の母は、他人にはともかくも、子どもの私には、過酷なまでにきびしい親だった。
長男が生まれたときでさえ、私の家にやってきて、私に貯金を全額おろさせ、それをすべてもって帰っていった。
母に預けておいた土地の権利書を、勝手に転売してしまったこともある。
私がそれに泣いて抗議すると、母は、こう言って、逆に私を叱った。
「親が、先祖を守るために、子の財産を使って、何が悪い!」と。

「親のめんどうは、子がみろ」という。
しかしその言葉から受ける、社会的重圧感には、相当なものがある。
私はある時期、毎晩寝る前になると、体中が怒りでほてり、なかなか寝つかれなかった。
毎晩、ワイフが介抱してくれた。

うらんだ。
憎んだ。

それでも事情を知らないノー天気な親類は、実家へ帰らないという理由だけで、私を責めた。
「親捨て」というレッテルを貼られたこともある。

で、母を私の家に引き取ることについても、私は悶絶した。
「いやだ」というような、生易しい感情ではない。
そこには58年に及ぶ、私の人生そのものが凝縮されていた。

が、その思いは一瞬にして消えた。
最初の1日で消えた。
私の家に住むようになって1週間、母は、体調を崩し、下痢を繰り返した。
その始末をしている最中、私は、ふと、こう思った。
「私は、今まで、こんな人を、本気で相手にしていたのか……」と。
そこにいるのは、無力で、孤独で、どうしようもないほど、小さな人間だった。
とたん、あのうらみや、憎しみが、乾いた風のように消えた。
そしてそこに残ったのは、私が子どものころの、あのやさしい、慈愛に満ちた母だった。

「あのなあ、この先、お前が死ぬまでめんどうをみるよ」と言うと、母は、こう言った。
「おまえにこんなこと(=便の始末)をしてもらうようになるとは、思ってもみなかった」と。

母は、私の家にちょうど6か月、いた。
その間、便の世話だけは、私がした。
が、いくつか事故が重なったこともあり、そのあと、センターに入居。
今月で、浜松へ来てから、1年9か月になる。
今は寝たきりに近い状態だが、センターの人たちは。こう言っている。
「林さんは、100歳まで生きそうですね」と。

今の私は、それを笑いながら、聞くことができる。


●どこからが「私」なのか

ワイフが車の中で、こう言った。

「山の緑がきれいね」と。

それもそのはず。
人間は、山の緑がきれいに見えるようにできている。
進化の過程で、人間は、一度、森の中に住んでいる。
そのとき、そういう感覚を取得した(?)。

海の水色がきれいに見えるのも、同じように考えてよい。
人間は、さらに太古の昔、魚のような動物だった。

私「ウンチが臭いのも、同じ理由だよ」
ワ「どうして?」
私「もしウンチが臭くなかったらね、人間は、餌とまちがえて、それを食べたかもしれない」
ワ「そうね。もしそうだったら、人間はその時点で絶滅していたはずよね」
私「そうさ。ウンチというのは、病原菌のかたまりのようものだからね。だから臭いウンチをする動物だけが、生き残ることができた」と。

進化というのは、同時に、無数の選択肢の中から、つねに自分にとってつごうのよいものを選んでいくことをいう。
中には、臭くないウンチをする動物もいたかもしれない。
しかしそういう動物は、その後、まもなく、絶滅した……。

私「子どもたちが、ピカチューがかわいいというのと、同じ理由だよ」
ワ「どういうこと?」
私「最初から、かわいく思うように、できている。何百枚もの原画を描いて、その中から、いちばんかわいいものを選んだ。多分ね……。だからかわいい」と。

ともかくも、私たちは、山の緑を見て美しいと思い、海の青を見て美しいと思う。
脳みそがそう反応するようにできている。

こうした現象は、生活のあらゆる場面で、観察される。
ほどよい気温についても、そうだ。
私にとっては、22~3度くらいの気温が、もっとも快適である。
おそらく太古の昔、人間は、それくらいの気温のところに住んでいたにちがいない。

食べ物にしても、そうだ。

魚や果物は、いくら食べても、腹がいっぱいにならないかぎり、食べ飽きるということはない。
同じように、太古の昔、人間は、そういうものを食べていたのだろう。

では、性格は、どうか。
性質でもよい。

どういう精神状態のとき、人間は、もっとも心地よく感ずるか。
つまりここで性善説、性悪説が生まれる。

人間はもともと穏やかで、平和を好む、静かな生き物であった。
あるいは闘争的で、攻撃的な生き物であった。

どちらであるにせよ、人間はストレスにさらされたとき、それほど長い時間、それに耐えることはできない。
そういう点から考えると、人間は、もともとストレスのない精神状態を好んでいたことがわかる。
基本的な性質はともかくも、私たちは、常に、穏やかで、平和で、静かに生きることを好む生物と考えてよい。

話が脱線したが、私たち人間も、「私」である前に、(私であって私でない部分)に、大きく左右されているということ。
そこでこうして「私」の中から、(私であって私でない部分)を取り除いていく。
その作業を繰り返しながら、最後の残った部分が、「私」ということになる。

私たちは、山々の木々を見ながら、「美しい」と思う。
あるいは山々の木々を見ながら、ほっとする。
しかしそれが「私」かというと、そうではないということ。
(だからといって、それがまちがっているということではない。誤解のないように!)

まずいのは、こうした進化の過程で生まれた(私であって、私でない部分)のほかに、さらに自ら、(私であって、私でない部分)をつくりあげてしまうこと。
たとえば(マネー)。

前にも書いたが、昔、『おしん』という、テレビ番組があった。
視聴率が50~60%もあったというから、恐ろしい。
あのおしんは、あるときまでは、「生きるために働いた」。
しかしあるときを過ぎると、「働くために生きるようになった」。

その時点から、悪く言えば、「マネーの奴隷」になった。
(私であって私でない部分)に、大きく左右されるようになった。

仮にこうした形で、(私であって私でないもの)を、つぎつぎとつくり出してしまったら、それこそ雪だるまのように体がふくらんでしまい、そのうち、どれが本当の私か、わからなくなってしまう。

地位や名誉にぶらさがって生きる人。
過去の経歴やキャリアにぶらさがって生きる人。
家柄や財産にぶらさがって生きる人。

そういう人たちは、ますます「私」がわからなくなる。
それこそ山の緑を見て「美しい」と思うように、札束を見て「美しい」と思うようになるかもしれない。

私「みなね、『自分さがし』という言葉を安易に使うけど、自分を知るということは、本当はむずかしいことなんだよ」
ワ「自分のことがわかっていると思っているだけなのね」
私「そうさ。自分を知るということは、哲学の最終目標にもなっている」
ワ「たいへんなことなのね」
私「そうさ。一生かかっても、できないかもしれない。それくらいむずかしいことかもしれない」と。

あなたも一度、美しい山を見たら、「どうして美しいのか」「美しく見えるのか」、それを一度考えてみたらおもしろい。

そこにひょっとしたら、「私」が見えてくるかもしれない。