*What is Me? *Shovnists
●自分さがし
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私は何のために生まれたのか。
何のために生きているのか。
私はこの先、どう生きていくべきなのか。
それを「自分さがし」と、いう。
しかし一朝一夕に、できるものではない。
またそれがわかったとしても、現実の
自分をそれに一致させていくことは、
並たいていの努力ではできない。
エリクソンという学者は、40歳を、
「人生の正午」と呼んだ。
そのころ「自分さがし」を始めたとしても、
遅いかもしれない。
できれば30代……。
そのころから始める。
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(自分がすべきこと)を発見し、(現実にそれをする)。
それを「自我の統合性」という。
が、(自分がすべきこと)を知るのは、容易なことではない。
それこそ10年単位の努力と積み重ねが必要。
「定年退職になりました。明日から、ゴビの砂漠で、柳の木を
植えてきます」というわけには、いかない。
いわんや死の宣告をされてから、自分さがしをしても、遅い。
大切なことは、今日1日を、常に最後と思い、真剣に生きる。
あとは、ない。
明日も、ない。
そういう真剣さの中から、やがて私という人間の輪郭(りんかく)が見えてくる。
(何をすべきか)、それが見えてくる。
は、たいていのばあい、(すべきこと)には、ある種の苦痛がともなう。
できれば、避けたいと思う。
それに(すべきこと)は、常に「無」でなければならない。
損得を考えたとたん、(すべきこと)は、煙のように消える。
Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司
●男尊社会(Shoubnists)
兄の葬儀でのこと。
そのつど、大きな会食を3回、した。
が、驚いたことに、男たちは、テーブルの前に、デンと座って、
何もしようとしない。
何もしない。
何という男尊社会!
お茶を作ったり、味噌汁を椀にそそいでいる男は、この私だけ!
そういう私を見て、ほかの女の人たちは、「浩司さんは、いいから
あっちで座っていて」と。
しかし私は、弁当を並べ、お茶を出し、味噌汁を並べた。
改めて、岐阜の田舎の後進性を見せつけられた。
一方、都会地域では、家事を分担する男たちが、ふえている。
若い夫婦はとくにそうで、半々という家庭も多い。
9年ほど前に私がした調査では、約30%の夫婦がそうしている(2000年)。
で、私の家でも、料理はワイフがすることが多いが、洗いものなどは、
私もしている。
山荘やレストランでは、私が、ワイフにサービスをすることにしている。
そういう姿を、岐阜の人たちが見たら、どう感ずるだろうか。
私が葬儀で受けたショックと同じショックを、反対の立場で覚えるに
ちがいない。
しかしそれにしても、遅れている!
今どき、こういう世界があること自体、信じられない。
……という思いで、兄の葬儀をながめていた。
男たちよ、いいかげんに『ダカラ論』を捨てろ!
「男ダカラ……」「女ダカラ……」と言っていると、そのうち、自分の
子どもにさえ、相手にされなくなるぞ!
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