*Funeral Party
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【家庭内宗教戦争】
福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。いわく「妻が、新興宗教のT仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。長い手紙だった。その手紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。
●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。
●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫してしまう。
●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ばれていなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。
●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やしている。布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。
●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判しただけで、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。
●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさまして」と、逆にやり返される。
今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。たいていは夫が知らないうちに妻がどこかの教団に入信するというケース。最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるときを超えると、急に、おおっぴらに信仰するようになる。そして最悪のばあい、夫婦は、「もう一方も入信するか、それとも離婚するか」という状況に追い込まれる。
こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバラバラになった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。すでにその前からバラバラ、つまり危機的な状況であったということ。それに気がつかなかったのは、夫だけということになる。
よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教がある。とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、結果として、自分の勢力を伸ばす。しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み嫌った方法である。釈迦、つまりゴータマ・ブッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の経典)の中で、つぎのように述べている。
『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。
生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダのやり方ではない。ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与えた。死の臨終に際しても、こう言っている。
「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたもって、実践し、盛んにしなさい。それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすものであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐(あわ)れむために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村元訳「原始仏典を読む」岩波書店より)と。
そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。
また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。事実、「あとの書かれた経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。
たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。そしてそれぞれが宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそが、唯一絶対である」と主張している。それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということは別にして、しかしその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ(釈迦)の教えにもっとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、そのうちのひとつであるということは常識。
中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威)も、「原始仏典を読む」の中で、「原典批判研究を行っている諸学者の間では異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書いている。で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ(法句)』である。中国で、法句経として訳されたものがそれである。この一節は、その法句経の一節である。
私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。
●ゴータマ・ブッダは、『スッタニパーダ』の中では、来世とか前世とかいう言葉は、いっさい使っていない。いないばかりか、「今を懸命に生きることこそ、大切」と、随所で教えている。
●こうした新興宗教教団では、「信仰すれば功徳が得られ、信仰から離れればバチがあたる」と教えるところが多い。しかし無量無辺に心が広いから、「仏(ほとけ)」という。(だからといって、仏の心に甘えてはいけないが……。)そういう仏が、自分が批判されたとか、あるいは自分から離れたからといって、バチなど与えない。
とくに絶対真理を求め、世俗を超越したゴータマ・ブッダなら、いちいちそんなこと、気にしない。大学の教授が、幼稚園児に「あなたはまちがっている」とか、「バカ!」と言われて、怒るだろうか。バチなど与えるだろうか。ものごとは常識で考えたらよい。
●こうしたケースで、夫が妻の新興をやめさせようとすればするほど、妻はかたくなに心のドアを閉ざす。「なぜ妻は信仰しているか」ではなく、「なぜ妻は信仰に走ったか」という視点で、夫婦のあり方をもう一度、反省してみる。時間はかかるが、夫の妻に対する愛情こそが、妻の目をさまさせる唯一の方法である。
ゴータマ・ブッダは、「妻は最上の友である」(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一巻三二頁)と言っている。友というのは、いたわりあい、なぐいさめあい、教えあい、助けあい、そして全幅の心を開いて迎えあう関係をいう。夫婦で宗教戦争をするということ自体、その時点で、すでに夫婦関係は崩壊したとみる。
繰りかえすが、妻が信仰に走ったから、夫婦関係が危機的な状況になったのではない。すでにその前から、危機的状況にあったとみる。
ただこういうことだけは言える。
この文を読んだ人で、いつか何らかの機会で、宗教に身を寄せる人がいるかもしれない。あるいは今、身を寄せつつある人もいるかもしれない。そういう人でも、つぎの鉄則だけは守ってほしい。
(1)新興宗教には、夫だけ、あるいは妻だけでは接近しないこと。
(2)入信するにしても、必ず、夫もしくは、妻の理解と了解を求めること。
(3)仏教系の新興宗教に入信するにしても、一度は、『ダンマパダ(法句経)』を読んでからにしてほしいということ。読んで、決して、損はない。
(02-7-24)
【注】
法句経を読んで、まず最初に思うことは、たいへんわかりやすいということ。話し言葉のままと言ってもよい。もともと吟詠する目的で書かれた文章である。それが法句経の特徴でもあるが、今の今でも、パーリ語(聖典語)で読めば、ふつうに理解できる内容だという(中村元氏)。しかしこの日本では、だいぶ事情が違う。
仏教の経典というだけで、一般の人には、意味不明。寺の僧侶が読む経典にしても、ほとんどの人には何がなんだかさっぱりわけがわからない。肝心の中国人が聞いてもわからないのだからどうしようもない。
さらに経典に書かれた漢文にしても、今ではそれを読んで理解できる中国人は、ほとんどいない。そういうものを、まことしやかにというか、もったいぶってというか、祭壇の前で、僧侶がうやうやしく読みあげる。そしてそれを聞いた人は、意味もなくありがたがる……。日本の仏教のおかしさは、すべてこの一点に集約される。
それだけではない。釈迦の言葉といいながら、経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年からそれ以上の年月をおいてから、書かれたものばかり。中村元氏は、生前、何かの本で、「大乗非仏説」(チベット→中国→日本へ入ってきた大乗仏教は、釈迦の説いた仏教ではない)を唱えていたが、それが世界の常識。こうした世界の常識にいまだに背を向けているのが、この日本ということになる。
たとえば法句経をざっと読んでも、「人はどのように生きるべきか」ということは書いてあるが、来世とか前世とか、そんなことは一言も触れていない。むしろ法句経の中には、釈迦が来世を否定しているようなところさえある。法句経の中の一節を紹介しよう。
『あの世があると思えば、ある。ないと思えば、ない』※
来世、前世論をさかんに主張するのは、ヒンズー教であり、チベット密教である。そういう意味では、日本の仏教は、仏教というより、ヒンズー教やチベット密教により近い。「チベット密教そのもの」と主張する学者もいる。
チベット密教では、わけのわからない呪文を唱えて、国を治めたり、人の病気を治したりする。護摩(ごま)をたくのもそのひとつ。みなさんも、どこかの寺で僧侶が祭壇でバチバチと護摩をたいているところを見たことがあると思う。あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、仏教の儀式ではない。釈迦自身は、そうしたヒンズー教の儀式を否定すらしている。
『木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。外のものによって、完全な清浄を得たいと願っても、それによっては清らかな心とはならない。バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、内部の火をともす』(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一巻一六九ページ)と。
仏教は仏教だが、日本の仏教も、一度、原点から見なおしてみる必要があるのではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過去論 前世論 未来論 来世論 はやし浩司 仏教論 日本の仏教 法句教)
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