Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, August 16, 2008

*Modernazation of Japan

●世界を欺いている日本(?)

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日本は近代国家なのか?
日本は民主主義国家なのか?

一応、世界では、そう通っている。

しかし本当に日本は、近代国家なのか?
本当に日本は、民主主義国家なのか?

いまだに封建時代をそのまま引きずったような
土着性は、いたるところに残っている。
権威主義、身分意識、家制度、古典的な夫婦観、
「女・子ども」意識、上下意識などなど。
どれをとっても、封建時代、そのまま。

さらに日本が民主主義国家と思っているのは、
日本人だけ。
日本は、世界に名だたる官僚主義国家。
君主(=天皇)官僚主義国家と言う人もいる。
政治そのものが、官僚たちによって、牛耳られて
いる。

部屋の中に、電子製品がゴロゴロと散らかっている
から、近代国家と言うのではない。
高層ビルが立ち並び、性能のよい車が走り回るから、
近代国家と言うのではない。

もしこんな論理がまかり通るなら、金持ちほど、
近代化が進んでいることになってしまう。

近代国家というのは、あくまでも「意識」の問題。
意識が集合されて、「近代性」が決まる。

先日も、G県の山間部に住む知人が、こう言った。
「田舎へ移住してくるのはいいが、田舎には田舎の
しきたりというものがある。そのしきたりには従って
ほしい」と。

「しきたりに従わない者は、追い出される」とも。

知人は知人としての、常識を言ったまで。
その知人が、特殊というわけではない。
特別な考え方をしているというわけでもない。

21世紀にもなり、戦後60年以上にもなると
いうのに、こういう言葉が、堂々と口から出て
くるところが恐ろしい。

しきたり?

残念ながら、いとこには、その(恐ろしさ)が、
まるでわかっていない。

つまり私たちがいう、(選挙)にしても、その
延長線上にある。
私たちがいう、(民主主義)にしても、その
延長線上にある。

どうしてこういう国を、近代国家と言うのか。
言えるのか。

私たちは子どものころから、「日本は近代国家であり、
民主主義国家である」と教えられてきた。
日本人の私たちが、そうだまされたところで、
それはそれで、しかたない。

しかしいまだに、日本は、世界をだましつづけている。

あの北朝鮮は、自分たちの国は、民主主義国家であると、
世界をだましている。
北朝鮮の正式国名は、「朝鮮民主主義人民共和国」である。
そういう北朝鮮を見ながら、「私たちの国、日本はちがう」と
思っている人は多い。

が、世界から見れば、同じ……とまではいかないが、
似たようなもの。
いつになったら、日本人は、それに気づくのか・

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朝鮮N報に、たいへん気になる記事が載っていた(8月17日)。
それをそのまま転載させてもらう。

*****以下、朝鮮N報より(文の体裁は、改めた)*****

 西洋人は日本を、西洋流に想定した「東洋」あるいは「日本」のイメージで考える場合が多い。『日本の再構成』は、西洋人が日本を見る際のこうした枠組みに対し、反旗を翻す。

著者のパトリック・スミスは、1987年から91年まで「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」紙の東京支局長を務めたのをはじめ、20年以上アジアで活動してきた米国人。これまで西洋に日本を知らせてきた学者としてはエドウィン・ライシャワー、エズラ・ボーゲルなどが挙げられるが、これらの研究者は実際には日本を歪曲(わいきょく)してきた、とパトリック・スミスは毒舌を浴びせかける。

 パトリック・スミスは、西洋人は日本に見いだす日本的な伝統の強みというものを認めない。逆に彼は、日本は十分な近代性を備えていない国で、これは米国の責任によるところが大きい、という趣旨の主張を展開している。

 パトリック・スミスの主張は、敗戦以後の日本は国民の選択を通じ自ら進むべき方向を決定すべきだったが、冷戦構造下で共産主義を防ぐという名目を掲げた米国が、第2次世界大戦に責任がある旧体制の関係者を登用したため、これが挫折した、というものだ。

著者は「日本は独立国家のふりをしているものの、実質的には米国の軍事保護国だ」「米国は、日本が民主主義国家だと信じるよう世の中をあざむいた」と語る。

パトリック・スミスは、ライシャワー教授の著書『日本の今日』を、「事実無根の話ばかりで、歴史の仮面をかぶった宣伝文句にあふれた本だ」と批判し、安倍晋三前首相の母方の祖父・岸信介元首相を「戦犯にしてならず者」と容赦なく表現した。

*****以上、朝鮮N報より(文の体裁は、改めた)*****

私自身は、まだ『日本の再構成』を読んでいない。
パトリック・スミスという人物についても、まったく知らない。
本の名前も、著者の名前も、はじめて聞いた。

また内容的には、韓国の人たちが飛びつきそうな本である。
韓国の人たちは、日本の悪口(?)を書いた本には、すぐ飛びつく。

それはそれとして、つまりそういう偏見は別として、パトリック・スミスは、
かなり鋭いことを言っている。
たとえば「日本は独立国家のふりをしているものの、実質的には米国の軍事保護国だ」
という部分。

実際、そのとおりだから、反論のしようがない。

たとえば戦後、60数年、日本はかろうじて平和を守ることができた。
が、これは何も、日本人が平和を愛する国民だったからではない。
日本が平和を守ったからでもない。
たまたまアメリカ軍という、最強の軍隊が、日本に駐留していたからにほかならない。
もしアメリカ軍が駐留していなかったら、日本はそのつど、世界中から
袋叩きにあっていたかもしれない。

スターリン・ソ連、毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・朝鮮などなど。
フィリッピンのマルコスだって、だまっていなかっただろう。
今の今でも、北朝鮮は、日本攻撃の夢を捨てきったわけではない。

「米国の軍事保護国」というのは、そういう意味である。

また「第2次世界大戦に責任がある旧体制の関係者を登用したため、これが挫折した」という部分も、気になる。

事実、戦時中から戦後にかけて、軍部はともかく、ほかの行政機関で、クビになった
官僚は、皆無に等しい。
先頭に立って、日本の軍国主義を推し進めていたのが、当時の文部省。
私が調べたところでも、その文部省で、戦後になってクビになった官僚は、ひとりもいない!

日本は、変わるべきときに、何も変えないまま、それを戦後の今に、引きずってしまった。
(だからといって、左翼思想を支持しているわけではない。誤解のないように!)

4年間、ヘラルド・トリビューン紙の支局長をしてきたという。
20年以上アジアにいて、この日本をながめてきたという。

パトリック・スミスの手厳しい批判は、つづく。

ライシャワー教授が書いた、『日本の今日』(日本語訳、「ライシャワーの日本史」のこと?※)について、「事実無根の話ばかりで、歴史の仮面をかぶった宣伝文句にあふれた本だ」と。

たしかに私たちはライシャワー氏の本を読んで、当時、日本を再認識した。
日本が古来よりもつ、伝統と文化のすばらしさ(?)を、それで知った。
「日本もまんざら捨てたものではない」ということを、知った。

それを「歴史の仮面をかぶった宣伝文句にあふれた本だ」と。

ウ~~~ム!

たとえば私自身も、織田信長や豊臣秀吉などの人物が、日本を代表する
すぐれた人物であったかどうかということについては、大きな疑問をもっている。
徳川家康についても、そうである。
私たちは、「上」から教えられるまま、そう信じ込まされているだけかもしれない。
言いかえると、あの封建時代にしても、私たちはそれ以後、一度とて精算したという事実すらない。
先の戦争にしても、そうだ。
「亡き英霊」という言葉にしても、その「亡き英霊」たちが、外国で、(日本国内で、ではない。外国で、だ)、どんなことをしたかについて、ほとんど語られることはない。

そういった事実を総合して、パトリック・スミスは、「歴史の仮面をかぶった宣伝文句にあふれた本だ」と言ったのかもしれない。
私もこの年齢になって、はじめて、彼が言うところの「仮面」の意味がわかるようになった。

たとえばこの静岡県では、徳川家康の悪口を書くことは、タブーに近い。
とくに静岡市においては、そうである。
徳川家康は、すばらしい政治家として、神格化されている。
それもそのはず。

あの300年という長い年月を経て、徳川家康は徹底的に美化された。
その一方で、徳川家康について都合の悪い事実は、繰りかえし抹消されてきた。
その結果が、今である。
「仮面」といえば、「仮面」ということになる。

日本人の私たちにとっては、ザワザワと、耳障りの悪い内容の本である。
しかしそういう声にも、謙虚に耳を傾けてみる必要がある。
でないと、日本は、いつまでたっても、極東の島国で終わってしまう。

なお、今日、同時にこんなニュースも伝えられている(産経新聞・8月17日)。

『韓国各紙が建国60周年を機に、成人1000人を対象に実施した世論調査で、「最も脅威になる国」は日本と答えた人が最多となり、「韓国の国益のために親しくすべき国」は日本よりも、北朝鮮と回答した人が多かったことがわかった』と。

こうした意識のズレは、どこから生まれるのか。
そのヒントが、パトリック・スミスの『日本の再構成』にあるように思う。

一度、読んでみたい。

(注※)ライシャワーの著作より

• Ennin's Travels in T'ang China (Ronald Press Company, 1955/『世界史上の円仁―唐代中国への旅』, 実業之日本社, 1963年/講談社学術文庫, 1999年)
• Wanted: an Asian policy(Knopf, 1955/『転機にたつアジア政策』, 一橋書房, 1957年)
• The United States and Japan(Viking Press, 1965, 3rd ed./『ライシャワーの見た日本』, 徳間書店, 1967年)
• Beyond Vietnam: the United States and Asia(Vintage Books, 1967/『ベトナムを越えて』, 新潮社, 1968年)
• The Japanese(Belknap Press, 1977/『ザ・ジャパニーズ』, 文藝春秋, 1979年)
• 『日本への自叙伝』(NHK取材班構成, 日本放送出版協会, 1982年)
• Japan The Story of a Nation(C.E. Tuttle, 1978, 3rd ed./『ライシャワーの日本史』, 文藝春秋, 1986年/講談社学術文庫, 2001年)
• My Life Between Japan and America (Harper&Row, 1986/『ライシャワー自伝』, 文藝春秋, 1987年)
(以上、ウィキペディア百科事典より)