Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, September 27, 2008

*Children grow up to be Men of their own Parents

【親のシャドウ】

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親を反面教師とする子どもは多い。
親そのものを、否定する子どもも多い。
「私の親は、インチキだ」
「私の親は、最悪だ」
「私の親は、親の資格はない」と。

そして最後には、決まって、こう言う。
「私は、私の親のような親にはならない」と。

しかし、そうはいかない。
親を反面教師とするのは、それはそれで結構なことだが、
反面教師とするならするで、それに代わる(親像)を、
自分の中に創りあげなければならない。
そうでないと、結局は、その子ども自身が、
いつか、親そっくりの(親)になる。
最悪の場合には、親のもつ陰湿な部分(シャドウ)を、
そっくりそのまま引き継いでしまう。

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●高校時代のK教師

私は高校時代、英語の授業を受けながら、いつもこう思っていた。
「ぼくが英語の教師になっても、あんなK教師のような教師にはならないぞ」と。

K教師の授業は、古典的な暗記第一主義の教え方だった。
「わかったか?」「覚えたか?」「では、つぎ!」と。

が、それから5年後。
私はアルバイトで、ある予備校で英語を教えることになった。
相手は中学生だった。
そのときのこと。
私の教え方は、あのK教師の教え方そのものだった。
「わかったか?」「覚えたか?」「では、つぎ!」と。

それもそのはず。
私はいつもK教師を批判していたが、K教師以外の教師の教え方を知らなかった。
「あんなK教師のような教師にはならないぞ」とは思いつつも、それに代わる
(教師像)を自分の中に創る機会がなかった。
だからそうなった。

●親像

親子の関係も、これに似ている。
「私は、私の親のような親にはならない」と思うのは、その人の勝手だが、一方で、
それに代わる(親像)を創りあげなければならない。
(批判)しているだけは、代わりになる(親像)はできない。

が、それですむわけではない。

仮にあなたの親が、小ずるくて、世間体ばかり気にする人だったとしよう。
悪人ではないが、いつも人前では仮面をかぶり、善人ぶっていたとしよう。
あなたに対しては親風を吹かし、あなたの意思は無視。
頭ごなしに命令ばかりしている。

あなたはそういう親を見ながら、「あそこが悪い」「ここが悪い」と批判する。
そしてこう思う。
「私は親になっても、ああいう親にはならない」と。
「軽蔑」という言葉を使うこともあるかもしれない。
「私は、親を軽蔑している」と。

●Fさんの例

ワイフの知人にFさんという女性がいる。
高校時代からの知人である。
そのFさんは、学生時代、いつもワイフにこう言っていたという。

「私の母は、ずるい女性だ。頭の弱い叔母がいるが、その叔母をだまして、
高価な壺を、取りあげてしまった。代わりに安物の壺を叔母に与えた。
母は、それを手柄話のように、自慢にしている」と。

Fさんは、自分の母親を相当嫌っていたようだ。
高校を卒業すると家を出て、そのまま東京へ。
以来、帰郷するのは、数年に1度あるかないかという状態がつづいたという。

高校時代、ワイフはFさんの家に、毎週のように遊びに言っていた。
そして毎回のように、Fさんの母親の悪口を聞かされていた。

が、それから40年。
ちょうど1世代(=30年)が過ぎ、Fさん自身が、当時のFさんの
母親の年齢になった。

で、ワイフがFさんに久しぶりに会って驚いた。
そのFさん自身が、あの当時のFさんの母親そっくりの人になっていたという。
顔も似ていたが、しぐさ、様子、話し方まで、そっくりだったという。
「歳を取れば取るほど、遺伝子の影響が強く出るというけど、本当ね」と
ワイフは笑っていたが、これは遺伝子だけの問題ではない。

Fさんは、現在、親子関係に苦しんでいるという。
2人の息子と娘がいるが、2人も、高校を卒業すると同時に、家には寄りつかなく
なってしまったという。

●ちがい

それでもFさんは、ワイフにこう言っているという。
「私は、私の母とはちがう」と。
(Fさんの母親は、3年前に脳梗塞で他界。それを機に、Fさんは夫の転職もかねて
帰郷。現在は、同じ浜松市に住んでいる。)

が、ワイフから見ると、そっくり!

つまり(ちがい)というのは、どこまでも主観的なものでしかない。
FさんはFさんで、「私は母とは大きくちがう」と思っているかもしれない。
が、少し離れたところで、他人が客観的に見ると、「そっくり」ということになる。

言いかえると、その人が思っている(ちがい)ほど、いいかげんなものは、ない。

「私は、ほかの人とはちがう」と思っていても、ときには、その(ちがい)は、
わずかなものでしかない。
そのことは、たとえばアメリカなどの国際空港のロビーに座ってみると、よくわかる。

それぞれ個性的な服装をしている日本人にしても、そういうところでは、日本人はみな、
同じに見える。
少し離れたところからでも、すぐ日本人とわかる。

●シャドウの恐ろしさ

こうして子どもは親のシャドウを引き継ぐ。
こんなケースもある。

私はある時期、ある男性からその男性の父親についての相談をよく受けた。
名前をT氏(当時40歳くらい)としておく。

T氏は父親と、同居はしていたが、うまくいっていなかった。
よくあるケースである。

で、それから数年後。
別の機会に、私はT氏の弟氏と話しあう機会があった。
そのときそのこと、つまりT氏とT氏の父親との関係が話題になった。
が、T氏の弟氏がこう言ったのには、驚いた。

「あのね、林さん、兄貴だって親父そっくりなくせに、ね」と。

つまりT氏はよく父親を批判するが、弟氏から見ると、T氏とT氏の父親は
そっくりと言うのだ。
私はこれには驚いた。

T氏はT氏の父親を批判していたが、それはT氏の父親の一部でしかない。
その一部を、針小棒大に批判していた。
しかし大半の、そのほかの部分については、T氏は、T氏の父親を、そっくり
そのまま引き継いでしまっていた。

私もそのとき、うすうす、それを感じていたので、一度ならず、二度、三度、T氏に
こう忠告したことがある。
「気をつけなさいよ。でないと、あなたも、あなたの父親そっくりの人間に
なってしまいますよ」と。

が、結局、こうした忠告は、急流に竹竿を立てる程度の意味しかない。
T氏は現在、20~30年前のT氏の父親そっくりの人間になりつつある。
20~30年前のT氏の父親そのままと言ってもよい。

●妻の役割

こういうケースでは、妻の役割が、たいへん重要である。
(あるいは反対のケースもあるが……。)

妻はつねに夫の人間関係を、客観的に見なければならない。
またその努力を怠ってはいけない。
それを怠ると、妻自身も、その毒気というか、シャドウに、そのまま引き込まれてしまう。
こんなケースもある。

ある男性(60歳くらい)が、こう言った。

「うちの家内は駆け引きがうまくてね、露天などでも、いつも値段の半額以下でものを
買いますよ」と。

つまり口がうまく、小ずるい駆け引きが平気でできるということらしい。

が、本来なら、こういう駆け引きをたしなめるのは、夫の役目。
夫であるその男性が、それを制止しなければならない。
が、その男性は、むしろ自分の妻がそうであることを喜んでいるといったふうだった。
長くいっしょに住んでいると、そういう現象も現われる。

●関係の整理

親子、親類、師弟、友人関係などなど。
そのつど人間関係は、複雑に交錯する。
が、それが良質なものであればよし。
そうでないときは、避けるのがいちばんよい。

若いときは、いろいろな人とつきあって、そういう人たちからいろいろなものを
学ぶ。
『悪友もまた教師なり』と。

しかし50歳も過ぎると、今度は人生に天井が見えてくるようになる。
わかりやすく言えば、無駄にできる時間が、ぐんと少なくなる。
とたん、人間関係を整理し始める。
また整理しなければならない。
さらに言えば、愚劣な人たちとつきあっていると、自分まで愚劣になってしまう。
しかしそれこそ、時間の無駄。
人生の無駄。

よき友を求めて、その関係をより濃密にすることこそ、肝要。
これは私の言葉ではない。
古今東西、世の賢人たちは、みな、そう書き残している。
というのも、(シャドウ)には、ものすごいパワーがある。
仮にあなたが、邪悪な人と半年も交際すれば、(数週間でもよい)、
あなた自身も、そのシャドウを引き継いでしまう。
日本語的に言えば、「染まってしまう」。

これには、兄弟、親類も、ない。
「縁を切る」などと大げさに構えることはないにしても、たとえ相手が兄弟、
親類であっても、血縁にしばられて愚劣な人間関係を維持する必要はない。
適当に交際して、またその範囲ですます。
けっして深入りしない。
ここでいう「整理」には、そういう意味も含まれる。

●問題は、あなた自身

最後に、実は、これは、親である、あなた自身の問題であるということ。
つまり現在、あなたは親である。
そういうあなたという親は、どういうシャドウを、どこにもっているだろうか。
それをほんの少しだけ、自分に問いかけてみてほしい。

子どもの視点の中に自分を置いてみると、それがよくわかる。
つまり子どもの目から見た、あなたは、どういう親か。
一度、鏡に映すようにして、自分を見てみるとよい。

好かれているとか、嫌われているとか、そういうことは関係ない。
(嫌われていても、一向に構わない。)
1人の人間として、気高く、崇高なものを、あなたは子どもに残すための
努力をしているだろうか。
もしそうであれば、それでよし。
そうでなければ、結局はあなたの子どもも、あなたと同じレベルになってしまう。

私たちがなぜこの世界に生きているかといえば、たとえ数ミリでもよいから、
真・善・美に近づき、それをつぎの世代に伝えていくことである。
「数ミリ」というが、その数ミリがたいへん。
へたをすれば、つまりほんの少し油断すれば、後退することだって、ありえる。
が、もしそうなれば、それこそ、「何のために生きているのか」ということに
なってしまう。
そこらに住む動物と同じということになってしまう。
が、それこそ、人生の悲劇というもの。

(シャドウ)には、そういう問題も含まれる。