Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, September 15, 2008

*Sep 15th (1)

【今日、あれこれ】(9月15日)

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今日は、近くの富幕山(とんまくざん)に
登る予定だったが、朝からワイフが胃痛を
訴えて、あえなく断念。

急きょ、いろいろ予定を変更する。

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●立会い演説会

今日、近くの公園であった、立会演説会に出てみた。
今度立候補予定の、X氏の立会い演説会である。
前もって知らされていた時刻より、やや遅れて、X氏がやってきた。
私とワイフは、子ども用の鉄棒の上に座り、話を聞いた。

演説の途中で、「あとで質問を受けます」というようなことを言ったが、
結局、時間がないということで、そのまま終わってしまった。
X氏は、そそくさと、つぎの会場へと、行ってしまった。

その講演で、3~4年ぶりに、大学の先輩に会った。
元気そうだった。
「どうしてここに?」と聞くと、「Xさんを応援しています」と。

で、この話はここで終わったが、昼寝をしているとき、そのつづきを見た(?)。
X氏だったかどうかは、よく覚えていないが、夢の中で、だれかが立会い演説をしていた。
どこか、見慣れない、美しい風景の丘の上だった。
遠くに、インディアンが住むような洞窟がいくつか見えた。
私は演説を聴きながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。

記憶力が悪くなったせいか、公園での立会演説会でも、また夢の中でも、X氏がどんな
話をしたか、よく覚えていない。
「まじめにやります」「日本を変えます」「現在の姨捨(おばすて)政策を改めます」とか、
そんなようなことを言っていたような気がする。

今まで、X氏に投票してきたが、今回は、そのX氏に投票するのは、やめた。
昼寝から覚めたとき、ワイフとそんな会話をした。

(選挙だけは、我が家はみな、自由投票ということにしている。
当然のことだが……。)


●金xxの重病説

今日の朝刊(中日新聞)によると、K国の金xxが、(拉致に対する抗議の念をこめて、
「xx」としている)、いくつかの病気に苦しんでいるという。

腎臓病に肝臓病。
糖尿病もあって、心臓も悪いらしい。
そして今回、脳内出血と脳梗塞を同時に起こしたという(韓国系新聞)。
が、驚いたことに認知症も起こしているという。
別の情報(韓国系新聞)によれば、アルツハイマー病だという。
それも去年の春ごろ発症したという。

道理で、おかしなことばかり。
「金xxはまともではない」とは思っていたが、認知症とは、知らなかった。

が、それについて、中日新聞は、「金xxも、やはりふつうの人間だった」と書いている。

ふつうの人間?
とんでもない!
中日新聞は、「金xxといえども、スーパーマンではなかった」と言いたいのだろうが、
残念ながら金xxは、ふつうの人間ではない。
ふつうの人間なら、20万人とも40万人とも言われる人を、処刑したり、強制
収容所などに、送らない。
罪もない女子中学生を日本から、拉致したりしない。
金xxは、「中国の裏門に立つ、狂った犬」(韓国・某大学教授弁、韓国紙報道)。
彼の悪政のもとで、数百万人が餓死している。

……ということで、K国は、今、崩壊の危機に立たされている。
全体の動きとしては、強硬派の軍部が実権を握りつつあるようだ。
日本にとっては、たいへん危険な状態になりつつあると言ってもよい。

だいじょうぶなのかなあ……?
何でも数日前、どこかの国の潜水艦が、堂々と日本の領海内と通り過ぎていったという。
こんなことで、日本の自衛隊は、本当に日本を守ることができるのだろうか。


●ミニ・パソコン

今、最近買った、ミニ・パソコンがたいへん気に入っている。
いつも持ち歩いている。
昼寝をするときも、しばらく胸の上に置いて、文字を打ってみた。
キーボードは小さいが、指がそれに慣れてきた。

いつもならデスクトップに向かって、原稿を書いている。
が、今はちがう。
もっぱら、ミニ・パソコン。

どうしてだろう?
どうして、こんな小さなパソコンに魅力を感ずるのだろう?
そのこともあって、10年ほど前に買った、TOSHIBAの
ダイナブック・3010も、最近使い始めた。

ほかの仕事はできないが、文章を打つことだけはできる。
ボロボロで、塗装もはげている。
ワイフは何度か、処分したらと言ったが、私にはできない。
私にとってパソコンというのは、私の心を映す鏡のようなもの。
画面の向こうには、無限の世界が広がっている。


●9月15日

今日は敬老の日。
祭日。
山登りを中止したため、これといってやることもなし。
ほかに予定もなし。

ワイフの買い物につきあったり、料理をしたりした。
あとは昼寝。
庭掃除。
夕食のあとは、ワイフとDVD。
『希望の翼・最後に帰る場所』。
ホームドラマ風の古い映画。

「老人は古い武器のようなもの。
しばらく野ざらしにすれば、やがて錆びついて、使い物にならなくなる」と。
主演の男優が、そんなセリフを言っていた。

同じような話だが、老人になると、たとえば2週間もベッドに横たわっていたりすると、
そのまま歩けなくなってしまうそうだ。
そこで最近の医師は、相手が老人のばあい、無理をしてでも、できるだけ早く、
退院させるそうだ。

では、脳みそは、どうか?
しばらく野ざらしにしたら、使い物にならなくなるのだろうか。

『希望の翼・最後に帰る場所』は、ざっと言えば、つぎのような映画だった。

戦場に行った息子が帰ってくる。
心に重い後遺症を背負って、帰ってくる。
一度は死んだと思っていた息子である。
が、帰ってきたその日、父親が倒れる。
つまりは家族の絆をテーマにした映画だったが、
その映画を見ていて、こんなことを感じた。

アメリカ人というのは、三世代同居生活というのを、考えないのかなあ、と。
はじめから、そういう発想そのものがない。
日本なら、こういうケースのばあい、両親と、いっしょに生活することを、
まず考える。
が、戦場から帰ってきた息子は、嫁と子どもを連れて、家を出る。

それはともかくも、倒れた父親は、こう言う。

「私は残された時間に、みなと仲直りして、死にたい。私自身とも……」と。

敬老の日に、よいDVDを見た。
「私は老人だ。もうダメだ」と思っている人は、この映画を見たらよい。
それぞれのセリフがすばらしい。
何か生きるヒントを、与えてくれるはず。

「人は皆、さまよえる魂を持ち、
傷つきながら旅をする。
そして冷たい闇の中で、家の灯火(あかり)を見つけていく。
人が学べることなど、限られている。
心が宿る我が家にとどまり、
守っていくことぐらいだろう」(最後のシーンで)と。

ほのぼのとしたホームドラマという点では、星は4つの★★★★。
私のような団塊の世代には、とくにお勧め。


●2012年

このところ書店へ行くと、「2012」という数字が、よく目につく。
2012年に、人類は滅亡の危機に立たされるという。
マヤ暦が、その根拠になっているらしい。
そのマヤ暦を解読していくと、「2012年12月22日前後に、第五の太陽の時代
が終わる」(「2012年地球崩壊の大予言」・日本文芸社)とか。

具体的には、「2012年の9~12月に、巨大隕石が、地球に衝突する」というのも、
ひとつの可能性として、あげられている。

しかし心配は無用。
それらしき隕石(小惑星、「トーチタス」)はあるにはあるが、そのころその隕石は
地球をはるか離れたところを通過する。
それにもし地球に衝突する可能性があるなら、隕石に接近して、それを
爆破することもできる。
人間はすでにそうい技術を身につけた。
マヤ文明の栄えた時期とは、今は、時代がちがう。

マヤ文明……紀元前1300年ごろ栄えた文明と言われているが、研究が進むに
つれて、それよりはるか昔から栄えていた文明であることがわかってきた。
一説によると、紀元前3000年までさかのぼることができるという。
もしそうなら、マヤ文明は、メソポタミヤ文明や黄河文明と肩を並べることになる。


●おろかな奇習vsおろかな民族

ここ数日、日本の冠婚葬祭についての原稿を書いてきた。
それがもつ、原点的なおろかさについて、書いてきた。
しかし、だからといって、日本の冠婚葬祭を責めても意味はない。
それらが奇習であるとするなら、その奇習を支えている、私たち自身こそ、
責められるべきである。

たとえば結婚式にしても葬儀にしても、見栄と虚勢の張りあいのようなところがある。
盛大であればあるほど、また列席者や参列者に、それなりの大物(?)が
いればいるほど、それを喜ぶ人たちがいる。
もてはやす人たちがいる。
しかも最近の傾向としては、昔からの名家の人たちほど質素にすませ、その
下の中堅クラス程度の人たちが、派手にそれをする傾向がある。
中には、なけなしの財布をはたいて、冠婚葬祭だけには金を注ぐという人も珍しくない。
地方の、田舎の人たちの中に、このタイプの人は多い。

なぜか?

結局は、生き様(ざま)の問題ということになる。
冠婚葬祭を派手にする人というのは、それだけ生き様と言えるような
生き様をもっていないことを示す。
「私はこう生きる」「私はこう生きてきた」「だから私はこうする」という
生き様がない。
ないまま、世俗の慣習に流され、それを「絶対的な善」として、信じきって
しまっている。

さらに悪いことに、人もある年齢を超えると、思考そのものがループ状態に
入る。
毎日、毎月、毎年、同じようなことを考え、その考えの中で、グルグルと
回るようになる。
過去をそのまま踏襲するようになる。
一度、こういう状態になると、「進歩」など、求めようもない。
が、さらにそこへ、脳の退化が加わる。
認知症にでもなれば、さらに退化する。
そういう人たちが、「老害」となって、若い人たちの生き様をしばる。

つまりこうしておろかな奇習が、おろかな人たちによって、つぎの世代に
伝承されていく。
みな、心のどこかでは、「おかしい?」と思いつつも、それを変えることが
できない。

そのひとつが、「戒名」ということになる。

私は、仏教界の人たちがどう考えているか知らないが、日本の仏教は、
戒名を突破口にして崩壊すると確信している。
和式仏教の矛盾が、すべてこの戒名という制度に集約されている。
が、それに対してあるBLOGに、僧侶の言葉として、こんなことが書いてあった。

「一般の人たちは、死者が出たときだけ、寺に泣きついてくる。
寺としては、そういうときだけでも、布施(=収入)を得なければ、
寺を維持することすらできない。(高額であって、何が悪い!)」と。

この記事を裏から読むと、すでに日本の仏教は、死滅していることになる。
「死滅」という言葉がきついなら、「形骸化」と言い換えてもよい。
私たちが子どものころは、寺というのは、子どもの遊び場でもあった。
それぞれの季節には、寺が子どもたちを呼んで、何かを食べさせてくれたり、
映写会を開いたりしてくれた。
紙芝居も、好んで寺の境内へやってきた。
当時は、まだそういう(つながり)が寺との間にあった。

しかし今は、もうない。
消えた。
どこの寺も、立派になり、立派になったことをよいことに、寺によっては、
門のところに背丈を越える鉄格子がはめてあるところもある(浜松市内)。
どこかの寺が率先して、慈善事業をしているという話は、私の近くでは、ここ
30~40年、耳にしたことがない。

だから「葬儀のときだけ……」ということになる。

しかしこの傾向は、今後加速することはあっても、もとに戻ることはない。
日本の仏教そのものが、葬式仏教から、ビジネス仏教へと変身してしまった。
そのためますます多くの日本人が、日本の「寺」を通してみる「仏教」に、疑問を
もち始めている。
嘘だと思うなら、あなたも近くのだれかに聞いてみればよい。
戒名の話をしてみればよい。
100人中、100人が、「おかしい」と答える。

私自身も葬儀の席などでは、一応しおらしい様子で接してはいるが、その一方で、
「こんなことをして何になるのか」と、自分の心を押し殺さなければならない。
そういう現実を、今の僧侶たちは、いったい、どこまで気づいているだろうか。

(補記)
あなた以外の人の死について、葬儀のあり方を変えることは不可能と考えてよい。
実の親の葬儀にしても、仮にあなた流のやり方を押し通すと、思わぬ波風が立つ。
が、あなた自身の葬儀については、あなた流のやり方を、押し通せばよい。
そのために今、あなたが生きているうちに、遺言という形でよいから、
その意思を明確にしていおく。
「私の葬儀は、こうしてください」と。
そういう一人ひとりの生き様が、積み重なって、この日本の奇習を打ち砕いていく。

僧侶は不要。
読経など、もっと不要。
葬儀は内々で、静かに、と。

もしそれでだれかが、「地獄へ落ちる」とか、「三代に渡ってたたる」などと
言ったとする。
「それでは成仏できない」と言う人も、いるかもしれない。
それに対して、あなたはこう言って笑ってやればよい。

「あなたも少しは仏教を勉強したら?」と。