*Honesty is the best Policy
●人間vs山猿
今日、山荘へ来てみたら、テレビのアンテナが、またまた折られていた。
雨どいも一か所、途中で、大きく横へゆがんでいた。
それに電話の電線を伝って移動しているらしく、途中の釘を刺した
ビニールが、横に垂れていた。
猿のしわざである。
このところの雨で、猿の足跡というか、手跡がベタベタとあちこちに
ついていた。
それをたどってみると、猿の動きは、こうだ。
まず裏山の方向からやってくる。
土手に積んだブロックの上から、一本の雨どいに飛びつく。
その雨どいを伝って、一度、屋根に上る。
その屋根からアンテナに飛び降り、そこから栗の木に登る。
「猿は頭がいいから、釘のあるところを避けて歩いている」と私。
「どうしようもないわね」とワイフ。
来年になったら、栗の木は切るつもり。
梨の木も切るつもり。
ビワもあぶないが、季節がちがうから、どうか?
それにビワの木は、山荘から、離れている。
人間vs山猿の戦いは、今日もつづく。
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【正直こそ、最善】
●小ずるい人たち
大きな悪さはできない。
ふつうは善人として、通用する。
しかし小ずるい人は、小ずるい。
私は息子たちには、いつもこう言ってきた。
「ウソはつくな。ウソをつきたいときは、黙っていればいい」と。
いつだったか、昔、オーストラリアの友人が教えてくれた言葉である。
もう少し踏み込んで言えば、こうなる。
これもそのオーストラリアの友人が教えてくれた言葉である。
「聞かれるまで、本当のことは言わなくていい。
聞かれても、自分に都合の悪いことは、だまっていればいい」と。
で、こんなことがあった。
何かのことで、その友人が、私にとってつごうの悪いことをした。
そこで私が、「どうして君は、そのことをぼくに話してくれなかったのだ?」と
聞くと、その友人は、こう言った。
「君が聞かなかったから」と。
“Because you didn’t ask me that”(君がそれを聞かなかったから)という英語が、
今でも耳の中にしっかりと残っている。
欧米人というのは、「ウソ」に対して、たいへん敏感に反応する。
一度のウソが、そのまま人間関係に終止符を打つこともある。
しかしこの日本では、ウソに寛大というか、さらに『ウソも方便』という
言葉さえある。
ときと場合によっては、ウソも許される、と。
そういうウソを積み重ねていると、やがてウソをウソとも思わなくなる。
以前、こんな人(男性)がいた。
何でも車をバックさせているとき、カーブミラーに車をぶつけてしまったらしい。
そこでその男性は、急いで、その場を逃げたという。
「林君、警察に見つかると、120万円だよ、120万円!」と。
カーブミラーの修理代(=罰金)は、120万円いう。
その男性は、そういう話を、あたかも自分の手柄のようにして話してくれた。
もちろん「悪いことをした」という意識はない。
私自身も、子どものころは、小ずるい子どもだった。
自分でも、それをよく覚えている。
たとえば道に、お金や財布が落ちていたら、すかさず、自分のものにしていた。
一度だけだが、隣の家から、小さな金属製のライターを盗んだこともある。
私が小学5年生くらいのときのことではなかったか。
が、そのライターはすぐ母に見つかってしまい、母がそれを返しに行った。
しかしウソはあまりつかなかった。
まわりの人たちが、みなウソつきだったから、かえってウソについて、嫌悪感を
覚えていたせいかもしれない。
前後の混乱期ということもあった。
ただ私の父は、場違いなほど、実直な人で、今にして思うと、父には感謝している。
バカ正直というか、ウソがつけない分だけ、商売は下手だったが、正直さの大切さは、
私は父から学んだ。
で、結婚してからまもなくのこと。
ワイフ自身も、こう言ったことがある。
「あなたの町では、何が本当で、何がウソか、よくわからないわね」と。
小ずるい人のウソには、つぎのような特徴がある。
(1) 小悪を告白して、大悪を隠す。
(2) とぼけて、その場をごまかす。
(3) 忙しいフリをして、話題をそらす。
(4) すかさず作り話をする。
(5) 他人のウソには、おおげさに怒ってみせる。
(6) 口がうまく、ウソと真実を適当に混ぜて話す。
(7) ことさら「自分は善良な人間である」という演技をする。
(8) 自分の正体を知っている人を、悪人に仕立てる。
「小悪を告白して、大悪を隠す」というのは、どうでもよいようなささいな失敗を
告白して、「自分は正直な人間である」ということを強調する。
たとえば大きな花瓶を割っておきながら、別のところで、「ごめんなさいね、不注意で、
テーブルのお茶をこぼしてしまいました」などと言う。
「とぼけて、その場をごまかす」というのは、小ずるい人間の常套手段。
年齢が高くなると、ボケたふりをすることもある。
「忙しいフリをして、話題をそらす」というのは、その話題になりかけると、
動物的な勘で、その場から逃げる。
「あっ、お湯をわかしたままにしておいた。ちょっとごめん!」とか、など。
「すかさず作り話をする」というのは、このタイプの人は、実にうまい。
長い時間をかけて訓練しているから、ふつうの人にはマネできない。
もちろん自分を正当化するために、である。
「他人のウソには、おおげさに怒ってみせる」というのは、『泥棒の家ほど、戸締り
が厳重』ということわざに、相通ずるところがある。
自分は平気でウソをつくくせに、(つまり、それだけ相手のウソを見抜く目が肥えて
いる)、相手がウソをつくと、大げさに、それを怒ってみせたりする。
「口がうまく、ウソと真実を適当に混ぜて話す」というのは、ウソつきというのは、
ウソだけを言うのではない。
適当にウソに本当の話を混ぜ、相手を自分のペースに引き込んでいく。
その仕方が、うまい。
「ことさら自分は善良な人間であるという演技をする」というのは、自分の正体を
見破られないため。
「先日も、あることから人助けをさせられましてね……」とか何とか。
そういう話を大げさに誇張してみせたりする。
あるいは1、2度しかしていないにもかかわらず、毎週のようにボランティア活動を
しているような話し方をする。
「自分の正体を知っている人を、悪人に仕立てる」というのも、やはり自分の正体を
見破られないため。
日ごろからその相手の悪口を、それとなく言いふらし、その相手を悪人に仕立てる。
あるいは「自分は善良な人間だが、その相手には、ひどいめにあっている」などと、
大げさに言いふらしたりする。
で、先にも書いたように、私も、もともとは小ずるい人間だった。
だからこそ、今、他人の小ずるさが、よくわかる。
子どもでも、いつもカンニングしている子どもほど、ほかの子どものカンニングに
敏感。
それを私に告げ口したりする。
だから私は、そういうときは、すかさず、こう言い返すことにしている。
「ぼくはね、告げ口は、もっと嫌いだよ」と。……これは余談。
こうした小ずるさは、一度身につくと、それを消すことは容易なことではない。
年齢とともに、ますます小ずるさに磨き(?)がかかってくる。
さらにある年齢以上になると、それがそのままその人の人格の基盤になってしまう。
若いときには、気力で自分の小ずるさを隠すことができるが、その気力が弱く
なると、中身がそのまま表に出てきてしまう。
そして小ずるいことをしながら、それが小ずるいこととさえ思わなくなってしまう。
これがこわい。
第一に、小ずるいことを重ねていると、周囲の人たちが去っていく。
第二に、人生観に一貫性がなくなり、自分の生き様を定められなくなってしまう。
日常的にウソをついていると、そのつど、相手に応じて、つじつま合わせをしなければ
ならなくなる。
『記憶力がよくなければ、ウソをつくな』ともいう。
ウソをつくたびに、その内容を記憶していかねばならない。
でないと、やがてこんな会話をすることになる。
私「あなた、先日、自分でこう言ったでしょ」
相手「……?」
私「自分で、そう言ったではないですか?」
相手「そんなこと言ったかなア」と。
わかりやすく生きるためには、『正直こそ、最善(Honesty is the best Policy.)』。
最近、この格言のもつ意味が、ますます深くわかるようになった。
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