Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, November 09, 2008

*Essays , on Nov. 9th, 2008

●2本の映画

先週、『P.S.アイラブユー』と、『X-File、真実を求めて』の2本の映画を見た。
私の評価は、『P.S. アイラブユー』は、星1つの、★。
『X-File、真実を求めて』も、星1つの、★。
ともに駄作(失礼!)
期待はずれ。
がっかり!

まず『P.S. アイラブユー』だが、どこか男を知りつくしたような女優が、純愛を
演ずるところに、そもそもの無理がある。
そのため私は映画の中に、感情移入ができなかった。

加えてストーリー全体にも、無理がある。
最後のシーンで、元夫の母親が……(このオチの部分は映画を見てのお楽しみ)
……ということだが、「母親がそんなことまでするだろうか?」と疑問を感じた。
映画のままだとするなら、母親が、実の娘の心をもてあそんだことになる。

つぎに『X-File、真実を求めて』。
最初からモルダーとスカリーの不協和音ばかりが目立った。
スカリーがモルダーを事件に誘い込んでおきながら、途中から、「私は医師だ」
「もうFBI職員ではない」と。
スカリーはモルダーから逃げてしまう。
スカリーは、重病の子どもの治療に専念するが、映画の伏線にもなっていない。

「何が、真実を求めてだ!」と、心の中で叫んで、おしまい。
映画全体は、ロシア人の臓器売買業者を追いつめる、ただの追跡映画。
また超能力者なる男も、できすぎ。
いかにも超能力者でございます……という雰囲気が気になった。
彼は本当に超能力者だったのか、それとも、ただの仲間だったのか。
モルダーは、超能力者だったと信じた。
スカリーは、それを信じなかった。
最後の最後まで、不協和音ばかり。

スカリーも歳をとった。
モルダーは、太った。
そんな映画だった。


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●まずい店(失礼!)

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先日、ワイフとドライブしながら、こんな話を
した。

あちこちで外食をしてきたが、「おいしい店」というのは、ある。
話題にもなる。
が、それはそれ。
一般論としては、値段が高い店の料理は、おいしい。
ホテルや旅館の料理などが、それ。

そんな話をしながら、「まずかった店」が話題に
なった。

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おいしかった店は印象に残る。
しかしそれ以上に、まずかった店も印象に残る。
(たいへん失礼な話題とは思うが……。)
もちろん実名を公表するわけにはいかない。
公表したとたん、この世界では、訴訟沙汰になる。
私の友人などは、そのため損害賠償まで請求されている。

ワースト(5)

浜松から電車で1時間ほどのところにある、M町で食べた、ラーメン。
市販の醤油(しょうゆ)に麺を入れただけのラーメンだった。
具にゆで卵が載っていたが、あまりにもまずくて、それも食べられなかった。
3分の1ほどを食べて、ギブ・アップ!

ワースト(4)

地元のBツアーで行った先で食べた、バイキング料理(?)。
鮎の塩焼きを売り物にしていたが、生臭くて食べられなかった。
中には、同行のガイドさんに食ってかかる客もいた。
鮎を、網の上で、ほかの牛肉といっしょにして焼くという料理の仕方だった。
鮎と牛肉をいっしょにして焼くところが、おそろしい。
……というより、無茶苦茶!

ワースト(3)

N町で食べたトンカツ。
カスカスの豚肉で、不気味だった。
おまけに給仕のオバチャンが、横で、鼻の脂を指でこすっていた。
そんなオバチャンが、用もないのに、あれこれと話しかけてきた。
トンカツを一口、口へ運ぶたびに、ゲーッ!

ワースト(2)

市内にある、T寿司屋。
土曜日の夜というのに、客は、私たち夫婦、2人だけだった。
そこでの寿司。
どれも魚臭くて、食べられなかった。
わさびをたっぷりつけて、臭いを消そうとしたが、それでも臭かった。
2、3個食べて、そのまま店を出た。

ワースト(1)

昔、近くにオープンしたお好み焼き屋の焼きソバ。
開店当日ということで、みな、持ち帰り用になっていた。
で、私たちも3人前を頼んで、家に持って帰ってきた。
が、ふたをあけてギョーッ!
焼きソバが、そのまま四角い直方体に固まっていた。
やはり市販のウースター・ソースだけを、そのままかけて焼いたような焼きソバだった。
とても食べられるような代物ではなかった。
だから、そのまま生ゴミとして、ポイ。
あとで聞いたら、その店はそのあと、2~3週間で閉店したとか。

こうして並べてみると、「ワースト」と言われるものは、麺類を出す店が
多いのがわかる。
簡単にできる分だけ、つまりだれでも簡単に店を開ける分だけ、まずい店も多いと
いうこと。

一方、本物を出す店は、それなりの歴史がある。
支持者がいる。
それに店の主人も、本気で料理している。
その(本気さ)が、食べる客に伝わってくる。

もちろん値段が安ければ、安いほど、よい。
が、中には、気取った店もある。
値段だけは一人前で、中身がない。
こういう店は、つまり私たちに嫌われた店は、寿命が短い。
こんな店もあった。

これも昔、事務所の近くにカレーライス専門の店ができた。
「一度は……」と思って入ってみたが、「まずい!」。

店長は若い男だった。
そこでそれとなく、つまり食べながら、「どこで修行しましたか?」と聞くと、
「インドへ行ってきました」と。
フ~~ンとだけ答えたが、「カレーはインド」という発想そのものが、「?」。
私は信じなかった。

これは料理にかぎらない。
個人で仕事をするときは、いつも本気。
本気でなければならない。
真剣勝負。
大型店が出す以上の味を出さなければ、勝ち目はない。
生き残ることはできない。

宣伝力がない分だけ、リピーターが大切。
そのリピーターが、ほかの客を連れてきてくれる。

ただし、あのテレビで紹介される店のほとんどは、「?」だから、
注意したほうがよい。
その直後には、客がどっと入ったりして、けっこう繁盛したりする。
が、本当の評価は、たとえばその1年後くらいになってみないとわからない。

たとえばこの浜松市は、「ギョーザの町」としても、知られている。
ギョーザの消費量が宇都宮市と並んで、全国1らしい。
それでよくギョーザの店が紹介される。
で、私も店の名前だけは頭の中に記憶した。

が、1年後などに行ってみると、客は閑散としていて、ほとんどいない。
テレビで紹介されたことをよいことに、あるいはそのあと客が
ふえたことをよいことに、値段をあげたらしい(?)。
言うなれば初心を忘れてしまっている。
こういう店も、寿命は短い。

(しかしテレビ局は、どういう基準で、ああした店を選んでいるのだろう?)

一般的に飲食店は、開店するのは楽だが、その分だけ、競争がはげしい。
本気で勉強し、本気で修行した人だけが、本物の味を出すことができる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司

● 仏壇屋の親父

実家にある仏壇を、今度、私の家に移すことにした。
しかし古い仏壇で、仏壇そのものが、ガタガタ。

そこで買い換えることにした。
……という思いをもって、今、あちこちの仏壇屋をのぞいている。
が、値段を見てびっくり。

中型の普通クラスでも、100~120万円。
ハーフサイズのもので、50~70万円。

私の実家は、J宗O派。
「金仏壇」といって、キンキラキンの仏壇でなければならない。
どれでもよいというわけにはいかない。

その仏壇屋の親父ですら、こう言った。
「これからは大きな仏壇は、不要ですね。つぎの世代の子どもたちが困るだけです」と。

またその夜(昨夜)、長野に住む学生時代の友人と電話で話をした。
その友人も、同じようなことを言っていた。
「自宅に昔からの大きな仏壇があるんだが、ああいうのは、困るんだよな」と。

つまり自分の世代はともかくも、「(それを引き継ぐ)、息子たちがかわいそう」と。

ところでその友人から、こんなよい話を聞いた。
友人の家は、昔から、J真宗に属しているのだが、何でも戒名がひとつに統一された
という。

どんな人でも、戒名は、名前の一字の上に、「妙」をつけるだけ。
たとえば、「浩司」は、「妙浩」。
「晃子」は、「妙晃」。
「死者に上下の身分関係があるのはおかしい」という考え方によるものだそうだ。
しかも戒名料は、一律、3万円のみ。

そういう宗派もある。

今、日本の冠婚葬祭のあり方が、きびしく問われている。
大きく変化しつつある。
先の葬儀屋の親父の話では、「こうした矛盾は、江戸時代からあったようだが、最近に
なって、みなが、急に声をあげ始めた」と。
だからみなさん、おかしいものは、おかしいと声をあげよう。
その声がひとつに集まったとき、こういう奇習は、日本から消える。

長野の友人は、現在、年老いた父親がいるが、その父親がなくなったら、寺に、
絶縁状を渡すつもりでいるという。
私が「そんなことできるのか?」と聞くと、「檀家やめますと、言えば、それですむ」
とのこと。

……とは書きつつも、こと私の「家」に関しては、私の代では、無理だろう。
伯父や叔母たちが、まだ健在。
姉もいる。
そういう人たちの気持ちを無視するわけにはいかない。
それぞれの人には、それぞれの人の思いというものがある。
説得するという方法もあるが、70歳を過ぎた人たちにそれをするのも、難儀なこと。
簡単に妥協できるようなことは、妥協して、すませばよい。
むずかしく考える必要はない。
言うなれば、町の祭りのようなもの。
みなが仲良く暮らすことこそ、大切。

しかしそれも私の代まで。
私もワイフも、戒名は不要。
病院からそのまま火葬場へ。
家族だけでお別れ会をして、そのまま骨は、どこかへ散骨してくれればよい。
葬儀(?)は、近親者だけの密葬。
他人に知らせる必要はないし、また知らせてはいけない。
そのあとのことは、息子たちが勝手に決めればよい。
檀徒として、その寺に残るか。
それとも去るか。
それも息子たちが勝手に決めればよい。


●筑紫某氏の死亡

数日前、テレビキャスターで名を知られた、筑紫某氏が、肺がんでなくなった。
享年73歳だったという。
静かで、穏やかな語り口が、売り物だった。
私も好きだった。

が、そのニュースを聞いたとき、まっさきに頭に浮かんだのは、その筑紫某氏が、
このH市へ来たときのこと。
あれほどまでの人物になると、H市へ来たというだけで、
地方テレビ局のニュースにもなる。
どこかで講演をしたあと、中田島の砂丘のほうへやってきて、市民と対話をしたらしい。

で、そのとき司会役を務めたのが、知人のF氏だった。
そのF氏が、こう教えてくれた。
「プロモーターに渡したお金は、300万円だった」と。
つまり筑紫某氏級の講師になると、講演でも、ワン・ステージ、300万円!

もちろんその金額がそのまま筑紫某氏の収入になったというわけではない。
プロモーターが筑紫某氏との間で、どういう契約をしているか、私は知らない。
100万円かもしれない。
あるいはそれ以下かもしれない。

ともかくも、桁外れ!
「いいなあ……」と思う前に、私は、浜松の人たちがもつ(田舎根性)にあきれた。
このあたりでは、「東京から来た」「テレビに出ている」というだけで、みな、
ありがたがる。
ハハーと、頭をさげる。
それで、300万円!

……が、そういう生臭い話はともかくも、画面で見るかぎり、誠実そうな人だった。
毎日、よく勉強していたと思う。
そういう努力が、言葉のはしばしで光っていた。

ご冥福をお祈り申し上げます。


●こわいもの見たさ

このところ書店へ行くと、いつも経済誌を立ち読みしている。
気になる。
無視できない。
が、こわいもの見たさというか、ハラハラドキドキの連続。
「大不況」「大恐慌」「大恐慌」という文字が並ぶ。

大恐慌はともかくも、今度の大不況は、かなり長期化しそう。
1~2年はつづくのでは……というのが、おおかたの専門家たちの見方である。
日本のトヨタですら、70%以上の減益。
そういうこともあって、09年度は、日米欧そろって、マイナス成長とか。

が、誤解してはいけないのは、マイナス成長といっても、収入が減るというだけでは
すまないということ。
若いころ、世界中を回りながら、こんなことを知った。

失業率が10%を超えると、街角に失業者が立ち並ぶようになる。
20%を超えると、街角に浮浪者が、ズラズラと並ぶようになる。
私はそれによって、その国のおおかたの失業率を知ることができた。
数字にだまされてはいけない。
失業率の出し方、つまり計算方法は、国によって、みなちがう。

で、仮に失業率が20%を超えるようになると、各地で暴動が起きるようになる。
とたん、政情が不安定になる。
経済誌はそこまでは書いていないが、本当にこわいのは、こちら。
長期化すればすするほど、モラルや道徳まで、崩壊する。
窃盗事件や強盗事件も続発するようになる。
1~2年なら、何とかもちこたえるかもしれないが、10年となると、そうはいかない。
長ければ長いほど、人の心そのものがゆがむ。

日本のばあい、戦後のあの混乱期は、幸いにも数年で終わったが、中国はそうでは
なかった。
それが20年近くもつづいた。
長すぎた。
その(結果)が今である。

読めば読むほど、暗い気分になる。
なるが、やめられない。
こういうのを「こわいもの見たさ」という。
好奇心半分、恐怖心半分。

まっ、ここは静かに嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
ジタバタしても、はじまらない。
それが私の結論ということになる。


●ピン・ポク

その前日くらいまでピンピンしていて、死ぬときは、ポックリ死ぬ。
称して「ピン・ポク」。
それが理想的な人生。
生き方、死に方。

長野県に住む友人が教えてくれた言葉である。

要するに、家族に迷惑をかけない死に方ということになる。
が、現実には、そうはいかない。
死ぬといっても、簡単なことではない。
いくら迷惑をかけないと願っても、どうしても迷惑をかけてしまう。
私の母も先日亡くなったが、仮に母が安楽死を望んだとしても、
私にはできなかっただろうと思う。
「思う」というより、「ありえない」。
「浩司、迷惑をかけるから、殺してくれ」と言っても、私はぜったい、
それには応じなかっただろう。

その母は、この2月に脳梗塞を起こしてからは、ほとんど寝たきりの状態だった。

私「いやあ、現実には、そうはいかないよ。君が、息子さんに、殺してくれと
頼んでも、息子さんは応じないと思うよ」
友「そうかなあ……」
私「やっぱり、最期の最期まで、生きていてほしいと願うよ」
友「……」

私「それにね、自分の過失で死んでもらっても困る。後味が悪いから……。多分ね」
友「後味って?」
私「自分が原因で、親でなくても、人が死んだと思うのは、いやな気分だと思うよ」
友「そうだなあ」と。

この世の中、生きるのもたいへん。
死ぬのも、たいへん。
が、終わってみると、あっけないもの。
あれほどドタバタしていた母の介護も、今は終わり、すべてが静寂の過去の中に消えた。
この浜松に、母は、2年弱いたことになるが、私には、瞬間にしか思えない。
あれこれと思い出そうとするが、思い出そのものが、ない。
だからあわてて生きる必要はない。
同じように、あわてて死ぬ必要もない。
どんな生き方をしたところで、またどんな死に方をしたところで、結局は、みな、
ピン・ポク。

おもしろい言い方だとは思うが、どこか現実的でない。
たとえ死にそうな状態がつづいたとしても、私はともかくも、人は、できるだけ
長く生きていてほしい。