*What are good students for scholls?
●服装の乱れ
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H市の県立K高校が、入試で、選考基準を逸脱し(ニュース記事)、
本来なら合格していた22人の生徒について、服装の乱れなどを
理由に、不合格にしていたことがわかった。
(ヤフー・ニュース・カナロコ・11月6日配信)は、以下、つぎの
ように伝える。
『H市の県立K高校が入試で選考基準を逸脱し、本来なら合格していた22人の生徒を服装の乱れなどを理由に不合格にしていた問題で、校内外に波紋が広がっている。不合格判断を支持する意見が県教育委員会に多数寄せられ、在校生やその保護者からは解任された前校長が「荒れた学校」を立て直したとして擁護する声が上がっている。一方、入試制度の根幹に触れる事態に直面した県教委は、「ルール違反行為」とのスタンスを変えていない。
同校の不適正入試問題をめぐり、県教委には五日までに電話や電子メールで約1110件の意見が寄せられた。9割以上が「服装や態度で選考して何が悪いのか。選考基準になくても当然の判断だ」などと学校側を支持する内容。「子供の学ぶ機会を奪った」などと問題視した意見は15件ほどという』(以下、略)と。
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この記事を読んで、ふと思い浮かんだのが、隣のK国での事件。
先月(08年10月)、あの金xxが、サッカー観戦をしたという。
そのときのこと。
選手たちの長髪が不潔ぽいという理由で、金xxは、選手たちの
長髪を切らせてしまったという。
「長髪が不潔ぽい」という発想そのものが、時代錯誤。
それを切らせてしまうというのも、どうかと思う。
……というより、まさに独裁的。
それはさておき、「服装の乱れ」について。
まず誤解してはいけないのは、(自由な服装)と(乱れた服装)とは、別。
さらに(清潔な服装)と(不潔な服装)とは、別。
また(制服)というのは、ある一定の着方を前提としている。
記事をていねいに読むと、「入試選抜で……」とある。
不合格になった22人は、その入試会場で、乱れた服装(?)をしていたらしい。
それで不合格になったわけだが、どういう服装をしていたかについては、
だいたい察しがつく。
詳しくはかけないが、「ああ、ああいう服装だったんだな」と思っている人も、
多いことと思う。
で、もうひとつ誤解してはいけないことがある。
「乱れた服装」というとき、それがたまたまそのとき「乱れていた」というのも
あるだろう。
たとえばたまたま学生服のボタンがはずれていた程度では、「乱れた服装」とは、
言わない。
実際には、「乱れた服装」というときは、「乱れた学習態度」の象徴としての
服装をいう。
もう20~30年も前から、とくに公立高校では、このタイプの学生が問題に
なっている。
ふつうの(乱れ方)を想像してはいけない。
ある高校の教師(東京都内の公立高校)はこう言った。
「うちでは、授業中に運動場でバイクを乗り回しているのがいる」と。
それを聞いて、別の教師がこう言った。
「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下で乗り回しているのがいる」と。
それから20~30年。
中身こそ異なるが、こうした傾向は、今もつづいている。
しかも低年齢化している。
最近では、小学生の茶髪も珍しくない。
それについて小学校の教師が、「茶髪はやめさせてほしい」と親に頼んだところ、
その親は、こう答えたという。
「どんなかっこうをしようが、それは個人の自由だ」(浜松市内B小学校)と。
学校教育に幻想をもっている人は、「そういう子どもこそ、教育の対象になるべき」
と思うかもしれない。
頭のどこかであの金八先生のような教師を連想する。
しかし幻想は、幻想。
私の教室のような小さな教室ですら、こんな事件があった。
ある日、双子の兄弟が私の教室へ入ってきた。
小学3年生だった。
すでにそのとき、かなり強い免疫性をもっていて、私の静かな指導になじむような
子どもではなかった。
「免疫性」というのは、学校でも、また家庭でも、かなりきびしいしつけを受けて
いたということ。
ほどほどにまじめに(?)椅子に座っていたのは、数週間程度。
それ以後は、教室内で平気でボール投げをしたり、気分がのらないと、
寝ころんでゲームをして遊んだりしていた。
そこでクラスの人数を4~5人にまで減らし、かつワイフに手伝ってもらうようにした。
が、いっこうに学習態度は、改まらなかった。
叱っても、励ましても、無駄だった。
で、ある日母親にそのことを告げようとしたが、母親のほうが、怒ってやめてしまった。
子どものほうが先手を打って、私の悪口を家で言いつづけていたためらしい。
小学生でもむずかしい。
中学生ともなると、さらにむずかしい。
そういう現実を知っているから、あるいは経験しているから、学校側としては、
「乱れた服装」にどうしても、神経質になる。
その学校がそう判断したかどうかは知らないが、「最初から学ぶ姿勢のない学生は、
入学、お断り」と判断したところで、私は無理からぬことではないか。
『入試制度の根幹に触れる事態に直面した県教委は、「ルール違反行為」とのスタンスを変
えていない』(同)ということだが、見方を変えると、「その程度の判断すらしてはいけな
い」というのであれば、では「校長とは何か」という問題にまで、いってしまう。
さらに言えば、「入試とは何か」という問題にまで、いってしまう。
同報道によれば、校長を支持する書き込みが90%以上もあったという。
「荒れた服装」というのが、どういうものであり、何を意味するか知っている人ほど、
校長を支持するのではないか。
教育は理想だけではできない。
学校だけでもできない。
「子供の学ぶ機会を奪った」という意見も理解できなくはないが、中には、
ほかの子どもたちが学ぶ機会そのものを破壊してしまう子どもさえいる。
入学後、「退学」「停学」という処分方法もあるが、そこまでに至る過程が、
たいへん。
たいていそれまでにクラスはメチャメチャ、教師たちは疲労困ぱい。
親たちとは、怒鳴りあい。
あるいは泣きつかれる。
手続きも、複雑。
さらに言えば、「乱れた服装」の子どもは、弱者でも何でもない。
かわいそうな子どもたちとは思うが、弱者ではない。
たとえば貧困や障害が原因で、教育を受けられないというのであれば、みなが
力を合わせて、そういう子どもは守らなければならない。
また「ルール違反」とはいうが、学力だけをみて入学の許可、不許可を出す現行の
ルールのほうが、現実離れしている。
(付記)
ただし法律的には、校長を解雇処分にした教育委員会も、やむをえなかった。
何をもって「乱れた服装」というか、その基準もない。
さらに「乱れた服装」イコール、「乱れた学習態度」ということでもない。
反対に、校長だけの独断と偏見だけで、入試選抜が行われるようになったら、
その(ゆがみ)が、これまた思わぬところで、出てくるようになるかもしれない。
一方、私立中学校や高校では、こうした学生を排除するのが、入試選抜の
基準のひとつになっている。
となるとその受け皿となるべき公立中学校や高校までもが、そうした学生を排除
してしまったら、そうした学生はどこへ行けばよいのかということにもなる。
現実にこの日本では、学歴がひとつの人物評価の基準になっている。
だれしも「高校ぐらいは出ていないと……」と考えている。
中卒ということになれば、選べる職種も、きわめてかぎられてくる。
つまりもろもろの矛盾が、こうした問題として集約されている。
「校長を支持する」「しない」という単純な採決で、解決できるような問題ではない。
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ここまで書いて、私は私の考えが
揺れ動いているのを知った。
荒れる学校について、もう一度、考えて
みたい。
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●乱れる服装
1970年ごろ。
私がメルボルン大学のIHカレッジにいたときの話。
どこのカレッジでも、服装には、うるさかった。
学生は、ネクタイをしめた上、スーツの着用が義務づけられていた。
カレッジの内外を行き来するときは、ロウブと呼ばれるガウンを着用
しなければならなかった。
映画『ハリー・ポッター』に出てくるような世界を想像すればよい。
夏の暑い日は、スーツの着用は免除されたが、ネクタイは、しなければならなかった。
ネクタイをしなければ、食堂での食事も許可されなかった。
下着で素足……などという服装は、ことカレッジの中では、許されなかった。
が、そののち、オーストラリア政権は保守党から、労働党へと移り、大幅に
予算が削られた。
同時に、大学教育そのものが、大衆化した。
今では、昔の面影は、どこにもない。
カレッジというより、日本でいう、学生寮のような感じになってしまった。
カレッジの中でも学生たちは、それぞれ自由気ままな服装を楽しんでいる。
そういう変化を頭の中で思い浮かべながら、ここでもう一度、「乱れた服装」
について考えてみたい。
つまりどういう服装を、「乱れた服装」といい、また「乱れていない服装」というのか、と。
ある高校の教師に一度それを確認したことがあるが、その教師はこう教えてくれた。
「腰パンとかラッパズボンとか、女子で言えば、スカートのすそ上げや、ルーズソックスをさげたりすることです」と。
私立学校のばあい、学校独自の判断で、即停学、もしくは退学処分になるので、そうした服装をする子どもは、少ない。
しかし公立学校のばあい、それがままならない(?)。
そこで「服装の乱れ」が、いつも問題となる。
が、先にも書いたように、「自由な服装」と、「乱れた服装」とは、ちがう。
どうちがうかと問われると、言葉につまるが、いくら服装が乱れていても、学習態度がしっかりしている子どももいれば、そうでない子どももいる。
私だって、夏場は、パジャマのまま書斎に入り、朝食がすむころまでその姿で、パソコンで文章をたたいている。
一方、服装が乱れていなくても、学習態度が乱れている子どもも少なくない。
だから一方的に、服装が乱れているからといって、学習態度に問題があるとは言えない。
しかし常識のある人なら、「入試選抜のときぐらい……」と考える。
「入試選抜のときぐらい、服装を整えるのは、常識ではないか」と。
つまりそういう(場)ですら、「乱れる」というのであれば、問題外と考えてよいのでは(?)。
そこで当の校長は、入学を不許可とした。
報道によれば、その校長は荒れた学校の建て直しに尽力していたという。
乱れた服装で入試選抜にやってきた子どもを見て、さらに危機感を覚えたとしても不思議ではない。
インターネットなどへの書き込みで、校長に同情する意見が、90%以上だったというのは、そういう理由によるのでは?
教育委員会の判断はともかくも、(というのも、教育委員会としても、やむをえなかっただろうから)、教師たちの本音を言えば、こうだ。
「もとから勉強したくない学生は、高校へなど、来るな!」。
高校は、現実はどうであれ、日本の学校教育法によれば、義務教育外。
しかも中身はどうであれ、(おとな)である。
それでも「どんな服装でも自由」と主張するなら、もう一度、「自由」の中身を吟味してほしい。
「自由」とは、もともと「自らに由(よ)る」という意味である。
「自分で考え」「自分で行動し」「自分で責任を取る」ことを、自由という。
校長の処分取り消しのために署名活動が始まったという。
「ルール違反」は、「ルール違反」。
だとするなら、今度から入試選抜の募集要領に、一言、こう書き加えればよい。
「服装が常識の範囲を逸脱して乱れている志願者は、入学を不許可とすることもあります」と。
しかしそれもむずかしいかな……?
●島田
今日、島田市のK小学校で講演をさせてもらった。
体育館での講演だったが、みなさん、真剣に聞いてくれ、話すほうも力が入った。
時間はちょうど1時間40分。
私としては、いちばん話しやすい時間の長さである。
帰りにミカンを一箱もらった。
駅で電車を待つ間に、一個、皮をむいて食べた。
おいしかった。
K地域は、お茶とミカンの産地だそうだ。
途中、川が美しく流れていた。
「いいところだなあ」と、何度も、そう思った。
●再び、服装の乱れ
島田駅のプラットフォームの椅子に座っていると、ちょうど学校帰りの高校生の一団といっしょになった。
ぞろぞろと並んでやってきた。
「服装の乱れ」とはいうが、どの高校生も、一様に乱れて(?)いた。
今では、学生服にしても、きちんと(?)着ている学生など、ほとんどいない。
それに静岡市から乗り込んだのだろう。
大学生らしき学生たちも座席に並んでいた。
だらしないと言えば、だらしない。
しかし学校の教師だって、今ではほとんどがトレーナー姿である。
スーツを着て授業に臨んでいる教師など、ほとんどいない。
(これは公立の小中学校についてだが……。)
子どもの側からすれば、「先生だって……」ということになる。
となると、「服装の乱れ」とは何か、ますますわからなくなる。
あるいはアメリカの中高校のように、服装は自由化してしまってもよいのではないか。
へたに制服を押しつけるから、「乱れ」が問題になる。
それに今は、そういう時代ではない。
子どもたちに制服を押しつけ、画一教育をするような時代ではない。
……ということを書くと、「ますます服装が乱れるのでは?」と心配する人もいる
かもしれない。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
大切なのは、子ども自身の(学ぶ姿勢)である。
それがあれば、どんな服装でもかまわないということになる。
それがなければ、どんなに服装がきちんとしていても(?)、問題ということになる。
ただ現在のように、(乱れた服装)が、(学ぶ姿勢のない子ども)の象徴のように
なっているのを見ると、乱れた服装をそのまま容認するわけにはいかない。
先日もある高校の前を通ったら、乱れた服装の学生たちが、校門前で、座り込んで
何やら話をしていた。
校門のところには、「○○文化祭」という看板が立てられていた。
かわいそうな学生たちである。
考えようによっては、孤独な学生たちである。
そういう学生たちが、仲間に入ることを自ら拒否して、その外の世界で、つっぱっている。
精一杯、自分たちのやり方で、自己主張を繰り返している。
彼らにしてみれば、それしか自分を主張する方法がない。
「学ぶ姿勢」といっても、その多くは、その基礎力さえない。
またその多くは、不幸にして不幸な家庭環境で育った子どもたちと考えてよい。
フ~~~ン……。
「服装の乱れ」の問題は、思ったより「根」が深い。
どんどんと考えていくと、「教育とは何か」という部分にまで、入り込んでいってしまう。
こうして私なりの意見を書きながらも、気持ちが右に揺れたり、左に揺れたりする。
では、どうしたらよいか?
今のように、「学校を離れて道はない」という世界のほうが、異常だということ。
子どもが成長していく過程は、けっしてひとつであってはいけない。
もっと多様性のある、別の道を用意するのも、教育のあり方ではないだろうか。
つまり「服装の乱れ」の問題は、日本の教育制度の矛盾そのものを問う問題と考えて
よい。
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以前、尾崎豊の「卒業」について書いた
原稿を添付します。
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若者たちが社会に反抗するとき
●尾崎豊の「卒業」論
学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中でこう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコースがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。
宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえることができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。
●若者たちの声なき反抗
日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。
実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。
●CDとシングル盤だけで二〇〇万枚以上!
この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CBSソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。
(付記)
●日本は超管理型社会
最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず1人の中学生(中2女子)がこう言った。「ない」と。「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。「どうして?」と聞くと、「どうせ実現しないから」と。
もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。そこで私が、「では、今ここに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と聞くと、こう言った。「毎日、机の上に置いてながめている」と。ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だった。今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。このことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。
15~17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、41・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。
●超の上に「超」がつく管理社会
日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(2001年4月)。タクシーにはメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転してくれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られないから……」と。
社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけならまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に対する、若者の抗議の歌と考えてよい。
(参考)
●新聞の投書より
ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日新聞が、「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、一一人の人からいろいろな投書が寄せられていた(2001年8月静岡県版)。それをまとめると、次のようであった。
女子学生の服装の乱れに猛反発 ……8人
やや理解を示しつつも大反発 ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人 ……0人
投書の内容は次のようなものであった。
☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締まってほしい。(65歳主婦)
☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛情をもって、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)
☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(16歳女子高校生)
☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)
●学校教育法の改正
校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。
次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められるときは、その児童に出席停止を命ずることができる。
一、 他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
二、 職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
三、 施設または設備を損壊する行為。
四、 授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。
文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつある。
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