*Mother Complex Songs in Japan
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【日本社会・母系社会?】
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日本は、概して言えば、奈良時代の昔から
母系社会。
母親の存在が、大きい。
その代表的なものが、「母さんの歌」。
それに森Sが歌う、「おふくろさん」など。
どうして父親を賛歌した歌がないのか?
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子どもの心をつかむ法(恩を着せるな!)
子どもの心が離れるとき
●フリーハンドの人生
「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。子どもを「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、いけない。もちろん子どもがそのあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするというのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。
●本当にすばらしい母親?
日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまう。
以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育てられました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ私は、I氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI氏の母親が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれない。
●子離れできない親、親離れできない子
日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととして、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさんは、夜なべをして……」という、あの歌である。戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しかしこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさんの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。
「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」
しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたはどう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまうに違いない。
●「今夜も居間で俳句づくり」
親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきである。
つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と織り込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。自分のことを言うのに、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞いた。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。
●うしろ姿の押し売りはしない
子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならない。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」というが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。
……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期にきているとみるべきではないのか。
●親も前向きに生きる
繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のものでもない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え方ではない。あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。
※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成6年)は、次のようになっている。
フィリッピン ……81%(11か国中、最高)
韓国 ……67%
タイ ……59%
ドイツ ……38%
スウェーデン ……37%
日本の若者のうち、66%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●日本の常識、世界の非常識
● 「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度という(巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19歳の舞妓を、「仕事のこやし」(人間国宝と言われる人物の言葉。不倫が発覚したとき、そう言って居直った)と称して、手玉にして遊ぶこともできる。
● 「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。
● 「森S一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向が強い。
●「かあさんの歌」論……窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(3行目と4行目)は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。
● 「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いられた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約23%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。
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要するに、いまだに、日本人は、あの封建時代の亡霊を、ひきずっているということ。身分制度という亡霊である。世の中には、その封建時代を美化し、たたえる人も少なくないが、本当にそんな世界が理想の世界なのか、またあるべき世界なのか、もう一度、冷静に考えなおしてみてほしい。
(はやし浩司 権威主義 権威主義者 親子の亀裂 断絶)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●依存心をつける子育て
森Sの歌う歌に、『おふくろさん』がある。よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし……。
「溺愛児」というときには、二つのタイプを考える。親が子どもを溺愛して生まれる溺愛児。それはよく知られているが、もう一つのタイプがある。
親を溺愛する溺愛児というのが、それ。簡単に言えば、親離れできない子どもということになるが、その根は深い。
Nさん(女性)は、60歳を過ぎても、「お母さん、お母さん」と言って、実家に入りびたりになっている。親のめんどうをあれこれみている。親から見れば、孝行娘ということになる。Nさん自身も、そう言われるのを喜んでいる。いわく、「年老いた母の姿を見ると、つらくてなりません。もし魔法の力が私にあるなら、母を50歳若くしてあげたい」と。
話は飛ぶが、日本人ほど子どもに依存心をつけさせることに、無関心な民族はないとよく言われる。欧米人の子育てとどこがどう違うかを書くと、それだけで1冊の本になってしまう。
が、あえて言えば、日本人は昔から無意識のうちにも、子どもを自分に手なずけるようにして子どもを育てる。それは野生の鳥をカゴの中に飼い、手なずける方法に似ている。「親は一番大切な存在だ」とか、あるいは「親がいるから、あなたは生きていかれるのだ」とかいうようなことを、繰り返し繰り返し子どもに教える。教えるというより、子どもの体に染み込ませる。
そして反対に、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。あるいは親不孝者として、排斥する。こうして日本では、親に対してベタベタの依存心をもった子どもが生まれる。が、それは多分に原始的でもある。少なくとも欧米的ではない。あるいはあなたはよい歳をして、「♪おふくろさんよ、おふくろさんよ……」と涙を流している欧米人が想像できるだろうか。
むしろ現実は反対で、欧米人、特にアングロサクソン系のアメリカ人は、子どもを自立させることを、子育ての最大の目標にしている。生後まもなくから、寝室そのものまで別にするのがふつうだ。親子という上下意識がないのはもちろんのこと、子どもが赤ん坊のときから、「私は私、あなたはあなた」というものの考え方を徹底する。たとえ親子でも、「私の人生は私のものだから、子どもにじゃまされたくない」と考える。
こうした親子関係がよいか悪いかについては、議論もあろうかと思う。日本人は日本人だし、欧米人は欧米人だ。「♪いつかは世のため、人のため……」と歌う日本人のほうが、実は私も心情的には、親近感を覚える。しかしこれだけはここに書いておきたい。
親思いのあなた。親は絶対だと思うあなた。親の恩に報いることを、人生の最大の目標にしているあなた。そういうあなたの「思い」は、乳幼児期に親によって作られたものだということ。しかもそれを作ったのは、あなたの親自身であり、その親も、日本という風土の中で作られた子育て法に従っただけに過ぎないということ。
言いかえると、あなたの「思い」の中には、日本というこの国の、子育て観が脈々と流れている。それを知るのも、子育てのおもしろさの一つかもしれない。さて、もう一度、『おふくろさん』を歌ってみてほしい。歌の感じが前とは少し違うはずだ。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●子育ての原点
スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来ると、一斉に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っているのか。それは本能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。
スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、子育てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親スズメに習って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。
モズが来ると、親スズメがまず逃げる。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメも逃げる。スズメたちがモズから逃げるのは、本能によるものではなく、学習によるものだ。本能によるものなら、親スズメと同時か、場合によっては、親スズメより先に逃げるはずである。
実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てながら、まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きていくために必要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、そういう知識や経験を武器として、自分たちの世代を生きる。
そして親になったとき、自分たちが教えられたようにして、次の世代に知識や経験を伝える。
が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところに、子育てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。その第一。
たとえば今の日本の子どもたちは、家事をほとんど手伝わない。すべき家事すら、ない。洗濯は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子レンジで温めればすんでしまう。水は水道、ガスはガス管から運ばれる。掃除も、掃除機ですんでしまう。幼稚園児に、「水はどこから来ますか」と質問すると、「蛇口!」と答える。
同じように野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、その便利さに慣れるあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、必要でもないような知識を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方程式だ。二次方程式だ。私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから今にいたるまで、二次方程式はおろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただの一度もない。
さらに高校二年で微分や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。もうこうなると、教えている私のほうがバカバカしくなる。こんな知識が一体、何の役にたつというのか。こうした事実をとらえて、私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と錯覚が満々ている」(学外研・I氏)と。
教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、私たちが得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ効率よく、かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだってそうだ。
将来、子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子育てができるようにするのが、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッキリする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子どもの自立 自立 自立する子供)
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