*When we know the truth in the morning, we are ready to die.
●朝に道を聞かば……
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論語といえば、『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』。
それについて以前書いた原稿を添付します。
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『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』
●密度の濃い人生
時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い方によっては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。
濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をいう。薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きているだけという人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実感を与える。
そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生きる目的も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と生きている人は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。
先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまった。同じように三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞くと、仕事から帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚釣りかランニング。「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。
一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あなたをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑いながら、こう言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そういう女性は美しい。輝いている。
前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを同じように繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」の著者、一八三五~一九一〇)も、こう書いている。「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。
ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一歩、話を進める。
●どうすればよいのか
ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。私は「無我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。しかし何も残っていない。
それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口三〇〇万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけという時代だった。そんなある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。
となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はまだ結論出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。
(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、広い世界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。
とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度が濃いということにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世界の問題。他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、落胆することもないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。あくまでも「私は私」。そういう生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることになる。
ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これから先、ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02-10-5)
(追記)
もしあなたが今の人生の密度を、二倍にすれば、あなたはほかの人より、ニ倍の人生を生きることができる。一〇倍にすれば、一〇倍の人生を生きることができる。仮にあと一年の人生と宣告されても、その密度を一〇〇倍にすれば、ほかのひとの一〇〇年分を生きることができる。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはないということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。
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