Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, October 28, 2008

*How to live more fruitfully

●密度の濃い人生(2)

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場になっている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも七~八人の老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性たちはいつも、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。私はいつもその前を通って仕事に行くが、いまだかって、男性たちが何かの仕事をしている姿をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも生きている!

 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」と思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思う部分は、「私もそうしていたい」と思う部分だ。しかし「これでいいのかな」と思う部分は、「私は老人になっても、ああはなりたくない」と思う部分だ。私はこう考える。

 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだけなら、それは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。そういう人生だったら、一〇年生きても、二〇年生きても、へたをすれば、たった一日を生きたくらいの価値にしかならない。しかし「濃い人生」を送れば、一日を、ほかの人の何倍も長く生きることができる。仮に密度を一〇倍にすれば、たった一年を、一〇年分にして生きることができる。人生の長さというのは、「時間の長さ」では決まらない。

 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間をムダにしていることか、ということになる。私は今、満五五歳になるところだが、そんな私でも、つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。いわんや、七〇歳や八〇歳の老人たちをや! 私にはまだ知りたいことが山のようにある。いや、本当のところ、その「山」があるのかないのかということもわからない。が、あるらしいということだけはわかる。いつも一つの山を越えると、その向こうにまた別の山があった。今もある。だからこれからもそれが繰り返されるだろう。で、死ぬまでにゴールへたどりつけるという自信はないが、できるだけ先へ進んでみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で考えられなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは思わない。ボケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私はもう真理に近づくことはできない。つまり私の人生は、そこで終わる。

 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今の私がこう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつづけたい。だから空き地に集まって、一日を何かをするでもなし、しないでもなしというふうにして過ごす人生だけは、絶対に、送りたくない」と。
(02-10-5)※

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●よい人・いやな人

 その人のもつやさしさに触れたとき、私の心はなごむ。そしてそういうとき、私は心のどこかで覚悟する。「この人を大切にしよう」と。何かができるわけではない。友情を温めるといっても、もうその時間もない。だから私は、ふと、後悔する。「こういう人と、もっと早く知りあいになっておけばよかった」と。

 先日、T市で講演をしたとき、Mさんという女性に会った。「もうすぐ六〇歳です」と言っていたが、本当に心のおだやかな人だった。「人間関係で悩んでいる人も多いようですが、私は、どういうわけだか悩んだことがないです」と笑っていたが、まったくそのとおりの人だった。短い時間だったが、私は、どうすれば人はMさんのようになれるのか、それを懸命にさぐろうとしていた。

 人の心はカガミのようなものだ。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、あなたを思う』というのがある。もしあなたがAさんならAさんを、よい人だと思っているなら、Aさんもあなたのことをよい人だと思っているもの。反対に、あなたがAさんをいやな人と思っているなら、Aさんもあなたをいやな人だと思っているもの。人間の関係というのはそういうもので、長い時間をかけてそうなる。

 そのMさんだが、他人のために、実に軽やかに動きまわっていた。私は講演のあと、別の講演の打ちあわせで人を待っていたのだが、その世話までしてくれた。さらに待っている間、自分でもサンドイッチを注文し、さかんに私にそれをすすめてくれた。こまやかな気配りをしながら、それでいてよくありがちな押しつけがましさは、どこにもなかった。時間にすれば三〇分ほどの時間だったが、私は、「なるほど」と、思った。

 教師と生徒、さらには親と子の関係も、これによく似ている。短い期間ならたがいにごまかしてつきあうこともできる。が、半年、一年となると、そうはいかない。ここにも書いたように、心はカガミのようなもので、やがて自分の心の中に、相手の心を写すようになる。もしあなたがB先生ならB先生を、「いい先生だ」と思っていると、B先生も、あなたの子どもを介して、あなたのことを、「いい親だ」と思うようになる。そしてそういうたがいの心の相乗効果が、よりよい人間関係をつくる。

 親と子も、例外ではない。あなたが今、「うちの子はすばらしい。どこへ出しても恥ずかしくない」と思っているなら、あなたの子どもも、あなたのことをそう思うようになる。「うちの親はすばらしい親だ」と。そうでなければ、そうでない。そこでもしそうなら、つまり、もしあなたが「うちの子は、何をしても心配」と思っているなら、あなたがすべきことは、ただ一つ。自分の心をつくりなおす。子どもをなおすのではない。自分の心をつくりなおす。

 一つの方法としては、子どもに対する口グセを変える。今日からでも、そしてたった今からでも遅くないから、子どもに向かっては、「あなたはいい子ね」「この前より、ずっとよくなったわ」「あなたはすばらしい子よ。お母さんはうれしいわ」と。最初はウソでもよい。ウソでもよいから、それを繰り返す。こうした口グセというのは不思議なもので、それが自然な形で言えるようになったとき、あなたの子どもも、その「いい子」になっている。

 Mさんのまわりの人に、悪い人はいない。これもまた不思議なもので、よい人のまわりには、よい人しか集まらない。仮に悪い人でも、そのよい人になってしまう。人間が本来的にもっている「善」の力には、そういう作用がある。そしてそういう作用が、その人のまわりを、明るく、過ごしやすいものにする。Mさんが、「私は、どういうわけだか悩んだことがないです」と言った言葉の背景には、そういう環境がある。

 さて、最後に私のこと。私はまちがいなく、いやな人間だ。自分でもそれがわかっている。心はゆがんでいるし、性格も悪い。全体的にみれば、平均的な人間かもしれないが、とてもMさんのようにはなれない。私と会った人は、どの人も、私にあきれて去っていく。「何だ、はやし浩司って、こんな程度の男だったのか」と。実際に、そう言った人はいないが、私にはそれがわかる。過去を悔やむわけではないが、私はそれに気がつくのが、あまりにも遅すぎた。もっと早く、つまりもっと若いときにそれに気がついていれば、今、これほどまでに後悔することはないだろうと思う。私のまわりにも、すばらしい人はたくさんいたはずだ。しかし私は、それに気づかなかった。そういう人たちを、あまりにも粗末にしすぎた。それが今、心底、悔やまれる。
(02-10-6)※

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●こんな事件

 ビデオのレンタルショップの前でのこと。一台の車が、通路をふさぐように駐車してあった。その横の駐車場には、まだ空いているところがたくさんある。ほかの車が通れない。そこで私はそのときふと、つまりそれほど深く考えないで、ワイフにこう言った。「あんなところに、車を止めているバカがいる」と。ワイフがその方向を見たその瞬間、ななめうしろに立っていた女性(五〇歳くらい)が、私たちをものすごい目つきでにらみながら、その車のほうに走っていった。そこに車を止めていたのは、その女性だった。

 私は瞬間、なぜ私たちがにらまれるのか、その理由がわからなかった。しかし再度、にらまれたとき、理由がわかった。わかったとたん、何とも言えない気まずさが心をふさいだ。まさか私たちのうしろに立っていた人が、その人だったとは! 私はたしかに、「バカ」という言葉を使った。……使ってしまった。

 口は災(わざわ)いのもととは、よくいう。私はその女性とはショップの中で、できるだけ顔を合わせないようにしていた。が、それでも数度、視線が合ってしまった。いやな気分だった。その女性は、駐車場でないところに車を止めた。それはささいなことだが、ルール違反はルール違反だ。しかしそれと同じくらい、「バカ」という言葉を使った、私も悪い。それはちょうど、泥棒に入ったコソ泥を、棒でたたいてケガをさせたようなものだ。相手が悪いからといって、こちらが何をしてもよいというわけではない。私にしてみれば、私の「地」が、思わず出てしまったということになる。

 私はもともと、生まれも育ちも、よくない。子どものころは、喧嘩(けんか)ばかりしていた。かなりの問題児だったようだ。いつも通知表に、「落ち着きがない」と書かれていた。それもそのはず。私が生まれ育った家庭は、「家庭」としての機能を果たしていなかった。私がここでいう「地」というのは、そういう素性をいう。

 で、こういう状態になると、ゆっくりとビデオを選ぶという気分には、とてもなれない。早くその場を離れたかった。そういう思いはあったが、ではなぜ私が「バカ」という言葉を使ったか、それには理由がある。弁解がましく聞こえるかもしれないが、まあ、話だけは聞いてほしい。

 今、この地球は、たいへんな危機的状況にある。あと一〇〇年で、地球の平均気温は、三~四度ほどあがるという。まだ零点何度かあがっただけで、この地球上では、無数の異変が起きている。こういう異変を見ただけでも、三~四度あがるということがどういうことだか、わかるはず。しかし、だ。その一〇〇年で、気温上昇が止まるわけではない。つぎの一〇〇年では、もっとあがる。このまま上昇しつづければ、二〇〇年後には、一〇度、二〇度と上昇するかもしれない。そうなればなったで、人類どころか、あらゆる生物は死滅する。

 で、こうした異変がなぜ起き始めたかだが、私は、その責任は、それぞれの人すべてにあると思う。必要なことを、必要な範囲でしていて、それで地球の気温があがるというのであれば、これはやむをえない。まだ救われる。しかし人間自身の愚かさが原因だとするなら、悔やんでも悔やみきれない。

●小型ジーゼル車のマフラーを改造して、燃費をよくする人がいる。そういう人の車は、モクモクと黒煙をあげて走る。私はそのたびに、ハンカチで口を押さえて、自転車をこぐ。

●信号が赤になっても、しかも一呼吸おいたあと、その信号を無視して、走り抜けようとする人がいる。私も先日、あやうくそういう車にはねられそうになった。

●私の家の塀の内側は、かっこうのゴミ捨て場になっている。ポリ袋、弁当の食べかす、タバコの空箱、ペットボトルなどが、いつも投げ込まれる。そのたびに、しなくてもよい掃除をする。

●小さな車やバイクだが、やはりマフラーを改造し、ものすごい音をたてて走る若者がいる。そういう車やバイクが走りすぎるたびに、恐怖感を覚える、などなど。

 そういう無数の「ルール違反」が重なって、結局は、この地球の環境を破壊する。それもここに書いたように、生きるために必要なことをしていてそうなったのなら、まだ救われる。しかし人間の愚かな行為が積み重なってそうなったとしたら、それはもう、弁解の余地はない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母親は、こう言っている。「バカなことをする人をバカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。

 私は駐車場でもないところに平気で駐車している人は、そのバカな人ということになる。こういう人たちの「ルール違反」が、積もりに積もって、この地球の環境を破壊する。むすかしいことではない。その破壊は、私たちの、ごく日常的な、何でもない行為から始まる。だから私は「バカ」という言葉を使ってしまった。心のどこかで、地球温暖化の問題と、その車が結びついてしまったからだ。が、しかし、あまりよい言葉ではないこともたしかだ。これからは外の世界では使わないようにする。もう少し別の方法で、こうしたルール違反と戦いたい。
(02-10-6)※