Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, December 28, 2008

*Japan would be isolated more and more

【撤退する外国企業、規制緩和の必要性】

●この現実を、知っているか?

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日本の証券取引所から、外国企業の撤退が
つづいている。
現在、東京証券取引所の上場している外国企業は、
「16社と、ピークだった1991年(127社)の
8分の1減少した」
(時事通信・08・12・27)。

かつては127社あったのが、現在は、たったの16社。
(2002年には36社。3分の1に減った。
さらにそれから2分の1以下に減ったことになる。)

その理由として第一にあげられるのが、
「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないこと」(同)
ということ。

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時事通信(12・27)は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++

外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になった。株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を掛けている。東証上場の外国企業は16社とピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。 
(時事通信・12・27)

++++++++++以上、時事通信より++++++++++

日本から逃げた外資企業は、どこは行ったか?
今さら言うまでもなく、その行き先は、シンガポール。
すでに10年ほど前から、アメリカへ入ってくるアジアの経済ニュースは、
シンガポール経由。
東京ではない。
シンガポール。
東京の経済ニュースすら、シンガポール経由である。
いったい、こうした事実を、日本人はどれほど知っているのか。
深刻にとらえているのか。

言葉の問題だけではない。

シンガポールには、アメリカ本土とそっくりそのまま同じ、アメリカ人向けの
医療機関が整っている。
医療保険も、そのまま使える。

だからアメリカ人ならだれしも、アジアのどこかに拠点を構えるとしたら、
東京ではなく、シンガポールを選ぶ。
逆の立場で、考えてみればわかる。

もしあなたがヨーロッパに、あなたの会社の支店を作ろうと考えたとする。
そのときあなたは、言葉もちがい、医療制度もちがう、A国を選ぶだろうか。
それとも、言葉はそのまま使え、医療制度が同じ、B国を選ぶだろうか。

日本の証券取引所は、投資者保護(?)という名目のため、「経営情報の開示」
も含めて、ほとんどの書類を、日本語に翻訳することを義務づけている。
が、この負担が大きい。
日本における経費の大半が、翻訳にかかるという話を聞いたことがある。

だったら、翻訳を義務づけるのをやめればよいということになるのだが……。

こんなことをしていれば、そのうち日本の証券取引所から、外資系企業は
消えることになる。
(事実、すでに消えかかっているが……。)

日本がアジアの経済の中心地という話は、とうの昔の話。
「国際化」などという言葉は、この日本では、絵に描いた餅(もち)の
ようなもの。
日本のどこを、どのようにとったら、そう言えるのか。

東京へ行くにも、へき地の成田空港で降りなければならない。
どうして羽田空港であっては、いけないのか?

もう一度、私が6年前に書いた原稿を読んでみてほしい。

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●日本から逃げる外資

 今日、1月4日、日本の株価は、戦後最大とも言える、大暴落を経験した。終値で616円安。それについて、東証のS社長は、欧米やアジアの主要株式相場に比べて日本株が出遅れていることに触れ、「(日本株の低迷は東京市場が)投資したい場所としての魅力を失いつつあることを示唆しているようにも映る」と危機感を募らせたという(日本経済新聞)。

 この記事を読んで、数年前に書いた原稿を思い出した。つぎのが、それである。日付は、2002年になっている。

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【みんなで考えよう、日本の教育改革】(Open the door and liberate the market)

More and more foreign enterprises are going out of Japan. In 1990, there used to be 125 enterprises in Tokyo Exchange Market but in 2002 there were only 36 enterprises. The number of enterprises are decreasing. The reason is very simple. It costs a lot of money for translation from their languages to Japanese. We should open the door to the world and liberate the market. Or more and more foreign enterprises will go out of Japan. Here is my article which I wrote 6 years ago in 2002.

●遅れた教育改革

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。この数はピーク時の約3分の1(90年は125社)。さらに2003年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしまつ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績は、165か国中、150位・99年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、1000近い分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には1人もいない。ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。

「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んでいる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。

もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2000年)。98年の調査よりも8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」を作らねばならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに10年以上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語の中から、1科目選択できるようになっている。

もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュータの科目もある。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。

もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減しているという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教えてくれた。「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを閉鎖した学校もあります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っているのだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっとはっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方に任す。せめて県単位に任す。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、これからはそういう時代ではない。

日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」と。

私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校では、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。

近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること」(長野県経営者協会会合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になるには、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわいそうだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、3人称単数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学1年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものなのか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものなのか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営む上で必要な基礎学力だ」と。もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。「なぜ中学1年で一次方程式を学び、3年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第3回学習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもがいる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。早くから教える必要はないという人もいる。

大切なことは、それぞれの自由にすればよい。今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる気をなくしてしまっていることだ。雑務、雑務、その上、また雑務。しつけから家庭教育まで押しつけられて、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。

ある教師(小学5年担任、女性)はこう言った。「授業中だけが、体を休める場所です」と。「子どもの生きるの死ぬのという問題をかかえて、何が教材研究ですか」とはき捨てた教師もいた。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。教師は学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたないという制度が徹底している。教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えない。

だからたとえば親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。するとしばらくすると、教師のほうから親に電話がかかってくる。こういう方法がよいのか悪いのかについては、議論が分かれるところだが、しかし実際には、そういう国のほうが多いことも忘れてはいけない。

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 6年前に書いた原稿だが、この6年の間に、日本の教育も大きく変わった。しかし、それでは不十分。

 同じように、日本の経済構造も、旧態依然のまま。東証のS社長の言葉が、それを如実に表している。