Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Friday, February 13, 2009

*Fe. 154th, Ass-Hoxx Prime Minister of Japan

●ねたみのメカニズム

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たいへん興味深い記事を見つけた。
まず、その一部を紹介する。

『自分が妬みを持つ相手が不幸になったとき快感を得る、いわば「他人の不幸は蜜の味」と感じる脳の働きが日本の研究グループの実験で初めて明らかになりました。

 これは、千葉市にある放射線医学総合研究所などのグループが明らかにしたものです。

 大学生19人を対象に、「妬み」を感じるときや「人の不幸を喜ぶ」ときの脳内の働きを画像診断装置で解析しました。

 研究は、「自分は希望通りにならなかった就職や恋愛が同級生は希望通りになっている」という文章を読ませて、妬みの感情を持たせる手法で行われました。

 その結果、「妬み」の感情が強いときには、体の痛みなどを処理する前頭葉の一部が活発になっていることがわかりました。また、「妬んだ相手に事故など不幸が起こった」という文章を読むと、快感を感じるときの脳の部位が活発になりました。

 「文字どおり『他人の不幸は密の味』というように、密の味をあたかも味わっているかのような脳活動が認められました」(放射線医学総合研究所 高橋英彦 主任研究員)

 研究グループは、「妬み」に関する脳内の活動が強い人ほど、「不幸を喜ぶ」領域の活動が活発で、「他人の不幸は蜜の味」と感じやすいことが脳科学的に初めて証明されたとしています』(13日11:09・ヤフー・ニュース)と。

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「やはり他人の不幸話はおもしろい……」と考えてはいけない。
たとえ脳の中の反応がそうであっても、それと闘うのが人間。
人間の理性であり、知性ということになる。
脳の命ずるまま行動していたら、人間はそのまま原始人にまで退化してしまう。

しかし今後こうしたメカニズムは、ますます解明されていくだろう。
ほとんどの人は、脳が命ずるまま、つまり(私であって私でない部分)に
命じられるまま、ものを考え、行動している。
が、自分では、「私は私」と思いこんでいる。
ここでいう「ねたみ」についても、そうだ。
人をねたむこと自体、「私はそう思う」と、「私は」と言う。
しかしそれはけっして、(私であって、私)ではない。

では、「私」とは何か?

むしろ「私」というのは、「私」を否定したところにある。
たとえば腹が減った。
そのとき、「何かを食べたい」と思うのは、(私であって私でない部分)という
ことになる。
が、そのとき、「腹は減っているが、この食べ物をもっと減っている人にあげよう」と
考えて行動したら、それが(私であって、私である部分)ということになる。

そういう意味でも、この記事は、おもしろい。
最近になく、頭の中で火花が飛ぶのを感じた。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
他人の不幸 他人の不幸話)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●雑感・あれこれ

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●眠った置き物

あれこれと置き物が並べてある家がある。
代々とつづいた旧家と言われる家に、そういった家が多い。
鉄製のものであったり、陶器製のものであったりする。
木彫りのものも、多い。

私も若いころは、そういうものを好んで買い求めた。
原石、絵画、彫り物などなど。
外国へ行くたびに、一品豪華主義というか、一品だけ、高価なものを
買い求めるのが、私のやり方だった。
しかしあるときから、パタリと買うのをやめた。
そして今は、「そんなもの、あってもしかたない」というふうに考えるようになった。

どうしてこんなに変わったのだろう?

ひとつには、そういうものは財産にならない、と考えが生まれた。
買うのは簡単だが、売るのはむずかしい。
少なくとも、元の値段では売れない。

つぎにこうした置き物は、見る人がいて、話題になってはじめて価値が出る。
見る人もいない。
価値のわかる人もいない。
であるとするなら、何のための置き物か、ということになる。
もちろんそれなりに意味のあるものなら、価値もある。
それでも、売り先を見つけるのは、むずかしい。

それにこんなこともある。

私は30代のころ、年に2~3度は、パソコンを買い換えた。
今より値段がずっと高かった。
NECのパソコン(98シリーズ)にしても、当時、40~50万円はした。
しかしそんなパソコンでも、1、2年もすると、すぐ使い物に
ならなくなってしまった。
よく覚えているのは、当時、Uシリーズというのが出たときのこと。
やや小型で、使いやすそうだった。
値段はやはり40万円前後だった。
で、私はそれで、当時始まったばかりの、パソコン通信というのを始めた。
パソコン通信というのは、現在のインターネットの先駆けようなもの。
が、送受信できるのは、文字情報のみ。
ひらがなか、カタカナ、あるいは英文字と数字のみだった。
やっと漢字の送受信ができるようになったかな、という時代である。
私はそれに挑戦してみたくなった。
が、何度ショップに足を運んでも、それはできなかった。
Uシリーズでは、それができないと、やがて知った。
で、また新しいパソコンを買うハメに!

……というようなことを繰り返してきたので、「何が置き物だ」という
ようになってしまった。

いや、パソコンと置き物は、直接的には関係ない。
しかし置き物も、少しよいものになると、それくらいの値段はした。
が、パソコンは、数年もすると、ガラクタ。
置き物は、ずっとそのまま。
だからパソコンを買うのは無駄と書いているのではない。
私が書きたいのは、その逆。

パソコンは今も昔も、(生きた置き物)。
一方、床の間に飾るような置き物は、(眠った置き物)。
人生も永遠であれば、また私の家も代々とつづくというのであれば、
(眠った置き物)でも、それなりの価値はあるのかもしれない。
しかしだからといって、それがどうなのか?

ここに40万円の現金があるなら、私はそれで(生きた置き物)を買いたい。
何もパソコンにかぎらない。
……とまあ、そういう(思い)が、積もり積もって、冒頭に書いたような
(思い)となっていった。
「そんなもの、あってもしかたない」と。

そうそう、モノの虚しさは、母を通して知った。
私の母は、人一倍というか、あの時代の人の常として、モノにこだわった。
モノ、イコール、財産と考えていた。
猛烈なインフレがつづいていた。
だからあの時代の人たちは、よけいに、モノにこだわった(?)。

そんな母でも、死ぬときは、身の回りには、何枚かの衣類と、コップ類しかなかった。
で、今は、そのあと片づけをしている段階だが、あまりのモノの多さに困っている。
花瓶だけでも、20個前後もある。
掛け軸だけでも、10本以上。
置き物を並べたら、八畳間がいっぱいになってしまった。
それなりに価値のあるものなら、まだよい。
しかしほとんどは、価値のないものばかり。
一部を業者に見てもらったが、「全部で、1~2万円というところですかねエ」と。
そう言われて、私はそのまま引き下がってしまった。

しょせん、(眠った置き物)というのは、そういうもの。

『お金というのは、そのときの自分を生かしてはじめて、生きる』と。
英語で言えば、『Money can be alive when it makes us be alive.』ということか。
今、自分で、それを発見した。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●約束

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今でこそ「約束」という言葉が、ある。
みな、それがどういう意味かも、よく知っている。
しかし戦前には、どうだったか?
明治時代には、どうだったか?
さらに江戸時代には、どうだったか?

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●死語

これはあくまでも私の印象だが、遠い江戸時代の昔には、「約束」などという
言葉はなかったのではないか。
「約束」の概念すら、なかった(?)。
江戸時代には、すべてが(腹芸)で動いていた。
本音を奥に隠しながら、建前で動いていた。
『ダカラ論』『ハズ論』で動いていた。

このことは、古いタイプの村に住む、古いタイプの人たちを観察してみると、わかる。
たとえば私はG県のM町というところで、生まれ、育った。
小さな町だが、それでは人の出入りは、ほとんどない。
さらに山奥へ行くと、明治時代そのまま、江戸時代そのままというような地域がある。
文化や風習は、昔のまま。
さらにものの考え方まで、昔のまま。

そういう世界では、約束などという言葉は、死語に近い。
約束などというものは、あってないようなもの。
「約束は守らねばならないもの」という意識さえ、薄い。

●邑(むら)社会

いわゆる「邑(むら)社会」というのは、たがいに、阿吽(あうん)の呼吸
で成り立っている。
その分だけ、相互依存性が強い。
よく耳にする言葉が、「あの人は、(こちらの事情を)、わかってくれているはず」
というもの。
ものごとをはっきり言うのを、避ける。
遠まわしな言い方で、自分の意思を伝える。
そしてその結果、「わかってくれているはず」と。

そういう世界では、約束などという行為そのものが、なじまない。
へたに「約束を守ってほしい」などと言おうものなら、それだけで、その
世界から、はじき飛ばされてしまう。

こんな例で考えてみよう。
ただ前もって誤解がないように言っておくが、だからといって、私は姉を
責めているわけではない。
その地域では、みな、そういうものの考え方をする。
こういうことがあった。

●なし崩し

私の実兄の奇行が目立つようになったときのこと。
まず姉が、実兄を引き取った。
実母が骨折で入院したのが、きっかけだった。
12月も終わりごろのことである。

で、私が正月早々、実母を見舞いに行くと、「正月の間だけでも、兄をみて
ほしい」と姉は言った。
姉は「一週間だけでいい」と言った。
そこで私はそのまま実兄を浜松へ連れてきた。
が、実母の入院が長引いた。

「約束」では、「正月だけ」ということになっていた。
しかし姉には、その意識はなかった。
最初は、(母が入院したから、兄のめんどうはあなたがみるべき)と、姉は考えた(?)。
つぎに、(その母の入院が長引いたから、兄のめんどうを、つづけてみるべき)と、
姉は考えた(?)。
が、やがて、(私は嫁いだ身分だから、林家の問題は、あなた(=はやし浩司)が、
みるべき)と(?)。

こうして、なし崩し的に、最初の約束は、反故(ほご)にされた。

で、私の方はどうかというと、そのつど、「事情が変わったのだから、しかたない」
というふうに考えて、それに納得した。

●ナーナー社会

こうした行動パターンは、生活のありとあらゆる場面で、観察される。
つまり邑社会では、何ごとにつけ、白黒を明確にするのをいやがる。
あいまいなまま、つまり灰色のまま、その場その場で、うまくやり過ごすことを、
よしとする。
約束にしても、そのときだけのもの。
事情が変われば、約束の内容も変わる。

先の姉とのケースでも、私が、「正月だけと言ったではないか」と主張すれば、
そのまま大喧嘩になっていただろう。
姉にも、最初から約束を守ろうという意識はなかった(?)。
約束という概念を理解した上で、そう言ったのではない。
で、私は私で、そういう風習というか、風土的な慣習をよく知っている。
だからそのときも、姉が「約束した」とは、思っていなかった。
思っていなかったから、途中でそれが破られたところで、それほど気にしなかった。

●義理・人情の世界

では何が邑社会の秩序を保っているか、ということになる。
そこでは、約束というものが、成り立たない。
常識で考えれば、社会そのものが、バラバラになってしまう。

そこで登場するのが、「義理」「人情」ということになる。
「義理を通す」とか、「義理を欠いた」とかいうような言い方をする。
たとえば先のようなケースで、私が、「一週間の約束だったから」と言って、
実兄を姉のところに送り返したら、「義理を欠いた」ということになる。
(たとえそういう約束であっても、事情が変わった)、(だから事情に合わせて、
約束の内容も変わるのが当然)(それに異議を唱えるとは、何ごとか)と。

●村八分

だから約束を破られたほうも、何も言わない。
約束を破ったほうも、何も言わない。
(もともと約束したという意識すら、もっていない。)
たがいに何も言わないまま、ナーナーでその場をやり過ごしてしまう。

が、これは兄弟の間で起きたこと。
もし同じようなことが、他人との間で起きたら、どうなるか。
こんなケースで考えてみよう。

村の人たちが、それぞれ土地を供出しあって、道を作った。
それに対して、村が補助金を出してくれることになった。
が、このとき意見が二つに分かれた。

「出した土地の大きさに応じて、補助金を分配すべき」という考え方。
「道の奥のほうに住む人は、それだけ利益を受けているのだから、補助金は
あきらめるべき」と。

結果的に、その中でも長老格の人が、補助金の大半を受け取ってしまった。
「村長と話をつけたのは、私だから」と。

こういうケースのばあい、邑社会では、道理が引っ込んでしまう。
道理を前面に出せば、たがいの関係が気まずくなってしまう。
そこで村の人たちは、どうしたか?
しかしここからが、邑社会の怖ろしいところでもある。

補助金の分け前に与(あずか)れなかった人たちは、陰で結束をした。
そしてことあるごとに、その長老格の人に、意地悪をするようになった。
会っても、形だけのあいさつ。
何か頼まれても、やんわりとそれを断る。
重要な連絡事項を、わざと伝えない、など。

「村八分」という言葉があるが、村八分の怖ろしさは、それを経験した
ものでないとわからない。
いつしかその長老の格の人は、村八分になってしまった。

●独特の論理

邑社会では、独特の論理が働く。
その論理に従って、人々は、行動する。
そこでは、いわゆる(約束)という概念は通用しない。
(合理)という概念も通用しない。
都会に住む人なら、こう考えるにちがいない。
「どういう事情であるにせよ、約束は守るべき」とか、
「言いたいことは、はっきりと言ったほうがいい」と。

しかしそれが通らないのが、邑社会。
だから冒頭に書いた結論へとつながっていく。
「これはあくまでも私の印象だが、遠い江戸時代の昔には、「約束」などという
言葉はなかったのではないか」と。

現代社会のように、約束というものが、人間関係をしばる(契約)となったのは、
この日本でも、ごく最近のことと考えてよい。
私が子どものころでさえ、私が住む地域では、本音(ほんね)と建前(たてまえ)が、
いつも複雑に交錯していた。
ときに、何が本当で、何がウソか、わからなくなってしまったこともある。

が、幸運にも(?)、私はそういう世界から飛び出すことができた。
とくにあのオーストラリアでは、ウソは通用しない。
旧約聖書の時代から、契約、つまり約束が人間関係を築く(柱)になっている。
もちろん本音と建前を使い分けるなどということはしない。
そんなことをすれば、その瞬間、信用を失い、彼らの世界からはじき飛ばされてしまう。

さらにこの浜松というところは、昔からの街道宿場町として栄えたところである。
人の出入りもはげしい。
少なくともG県のM町と比べると、ずっとオーストラリアに近い。
(戦後、そうなった可能性はあるが……。)

しかし……。
こうした島国的な発想は、世界では、ぜったいに通用しない。
約束は守る。
どんなことがあっても、守る。
もしそれを守れないような状況が生まれたら、それを説明して、再度、約束を
しなおす。

また陰であれこれ悪口を言ったり、たがいに足を引っ張りあうくらいなら、
衝突を覚悟で、言いたいことは言えばよい。
長い目で見て、そのほうが人間関係を、すっきりとする。
自分のまわりの世界を住みやすくする。

これからはそういう世界をめざす。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
日本人と約束 約束論 邑意識)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●「笑っちゃうくらいあきれる」首相(Ass-Hoxx Prime Minister of Japan)

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歴代の首相の中で、現在のAS首相ほど、「笑っちゃうくらいあきれる」
首相はいない。
本当に、あきれるくらい笑っちゃう(小泉元首相)。

ことの発端は、こうだ。
あのおバカ首相がこう言った。
郵政民営化法案について、「私は賛成していたわけではない」と。
AS首相は、郵政民営化法案を見直しすると言い出した。
郵政族に押されての発言だった。
が、たとえそうであっても、同じ与党の元総理が、一度決めたことを
このような形で否定することは許されない。
政権党首としての一貫性がないばかりか、無責任そのもの。
無責任きわまりない。

しかも当時、AS氏は、閣僚の一人として、小泉政権の一角を担っていた。

「おバカ」「おバカ」と揶揄(やゆ)されているが、私はAS首相の脳みそ、
そのものを疑っている。
冗談ではなく、本気で疑っている。
一国の首相たる人物なのだから、一度脳ドックで検診を受けてみるべきではないのか。

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以前、AS氏が外務大臣に起用されたとき、私はわが耳を疑った。
「どうしてあんな人物が?」と。
そしてそのあと、今度は、総理大臣に!

ほんの少しでも人を見る目があったら、AS氏など、外務大臣なんかに起用しないはず。
いわんや、総理大臣になんかにしない。
が、その見る目がなかった。
AS氏は、主に若者たちの支持を取りつけ、総理大臣の地位に就いた。

そして今が、その結果。
国民にマネーをバラまくという、馬鹿げた法案を通すために躍起になっている。
参院で否決されても、衆院で3分の2の賛成を得て、法案を通すという。
それについても小泉元首相は、「そんなことまでして通さなければならない法案か」と
かみついた。
まさに同感である。

アメリカへ行っては、おべんちゃらを言い、東南アジアへ行っては、金をばらまく。
AS首相は、日本や日本人のイメージを、メチャメチャにしてしまった。
ちなみに、「アソ」という言葉の意味を、英語国から来た外人に聞いてみるとよい。
「アッソァ」というような発音に似せて、「アソ」と言ってみたらよい。
ただし、あなたはその場で、相手の外人に殴り倒されるかもしれない。
聞くとしても、慎重に!

自民党というより、政治家のレベルの低さを、今回ほど見せつけられたことはない。
同じ日本人として、なさけないと思う前に、本当に、本当に、あきれるほど笑っちゃう。