Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, February 12, 2009

*Feb. 13th *Ithink, therefore I am.

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   13日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●アメリカの教育現場では、今……?(Now in USA!)

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Bulletin Board for EDSPC 753
Board Postingsへの投稿記事より

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1st Grader defiant, uncooperative & violent
by Beth Fregoe, posted on 5/13/2008 at 16:29.
(朝鮮的で非協力的、暴力的な1年生)

I am a Paraprofessional who works with a 1st grader who is very difficult to work with.
He never participates in classroom activities and even eats lunch separate (I eat lunch
with him every day).
私は1年生の専門教員です。1年生の子供ですが、クラスの活動には参加せず、みなと離
れて昼食をとります。(私が毎日、彼と昼食をとっています。)
It takes a great effort on my part to get him to do ANY school work. He regularly walks
out of the classroom when he doesn't want to do something. He seems to pay no
attention to what's going on in the classroom, it's like he's in his own world.
彼に学校の活動に参加させることに、教師としてたいへん苦労しています。したくないこ
とがあると、教室から出て行ってしまいます。教室で起きていることに、ほとんど注意を
払いません。彼だけの世界に閉じこもっているようです。
When he becomes disruptive and I try to calm him down, he ignores me like I'm not
even there. He will lay on the floor, kicking the wall or walk over to the door and open &
shut it. He will bang his head against the wall. Things like that go on daily.
彼が破滅的になるときは、彼をなだめすかしますが、彼はあたかも私がそこにいないかの
ように無視します。彼は床の上に寝転び、壁をたたいたり、ドアを開けたり閉めたりしま
す。自分の頭を壁にぶつけることもあります。そんなことが毎日あります。
Last week we were working on a project and suddenly he asked me to leave the room
and when I didn't he started kicking and punching me. From what I've been told, there
has been no cooperation from his mother in regards to finding out if there is any medical
reason for this behavior. If anyone has any advice on how I can better handle this child,
it would be greatly appreciated.
先週、ひとつのプロジェクトに取り組んでいました。そのとき彼が突然、私に部屋を出る
ように頼みました。で私がそれをしないでいると、私を蹴ったり、殴ったりしました。私
が知る限り、彼の行動について、何か医学的な理由があるのではないかということを知る
ために、彼の母親の協力があったということはありません。このような子どもの扱い方に
ついて、だれか、よいアドバイスをくだされば、たいへんうれしく思います。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

Time-out room
by Sarah, posted on 10/5/2006 at 6:43.
(特別学級について)
Hi,
I am a teacher working in a special school. My school is going to build few time-out
rooms (they also called them 'cool-down rooms') to deal with challeging children. I am
feeling very uncomfortable with this idea, can someone share with me your thought
about this idea.
私は特別な学校で働いています。私の学校は、問題のある生徒を扱うための、いくつかの
特別学級をもうけようとしています。(ここでは、「冷却教室」と呼んでいます。)私はこの
考えにどうも賛成しません。私の考えに同調してくれる人はいませんか。
Personally, I think that it is a 'coping strategy'for teachers. Will students learn how to
behave appropriately after being put into these rooms to 'cool down'. In the past, I have
seen time-out rooms been used very frequently by few teachers. Students learn that we
have the 'power' to put them in these time-out rooms to 'cool down'when we cannot
handle their behaviour.
個人的には、それは教師のための(対処教室)だと思います。生徒たちは、こういう教室
へ入れられたあと、適切に対処する方法を学ぶでしょうか。過去において、何人かの教師
が、特別学級をしばしば使うのを見てきました。生徒たちは、私たちが手に負えなくなる
と、特別学級に入れる「権限」があると学びます。
I do feel that when this option is available, people tend to use it as a solution rather
than think of other alternative ways to deal with a student's behaviour. Moreover, I
treat my students the way I would like my own children to be treated at school. I would
never want them to be lock up in a room, no matter what pretty names are given to
these rooms.
この学校の方針が実施されると、人々は、生徒たちの行動について、ほかの選択的な方法
を考えるよりも、それを問題解決のための方法として使うと思います。さらに言えば、私
は自分の子どもが学校でそう扱ってほしいと思うような方法で、生徒たちを扱いたいです。
私は、いかに美しい名前がそうした教室に与えられようとも、そういう生徒を部屋に閉じ
込めたくはありません。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【われ、考える。故にわれ、あり】(I think, therefore I am.)

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思考力を失ったとき、人類はほんとうに
滅亡する。

思考するから人間は人間である。
もし思考をしなければ、人間は、
ただのサルになってしまう。

+++++++++++++++++

●科学と哲学

科学が進歩したからといって、哲学が進歩するとはかぎらない。
科学の進歩と、哲学の進歩は、まったく別のもの。
しかし影響がないとは、言えない。
科学的な見方が、哲学に影響を与えるということは、ある。
たとえば最近の脳科学の進歩には、驚くべきものがある。
人間の(心の作用)まで、科学的に説明しようとしている。

では、哲学そのものは、どうだろうか?
たとえば紀元前5世紀ごろ、中国に2人の思想家がいた。
まっ先に思いついたのが、老子(紀元前5世紀)と、荘子(370~286頃BC)
である。

無為自然(むいしぜん)を説いた老子、安心立命(あんじんりつめい)を
説いた荘子。
いわば現在の自然主義の先駆け的な思想家ということになるが、では、
その後の科学の進歩ほどに、私たちが、彼らの思想を受け継ぎ、進化
させたかというと、それは疑わしい。
2500年もたった今ですら、老子や荘子の思想は、斬新で先駆性がある。
その先駆性があること自体、思想が進歩していないことを示す。

一方、科学はどうか。
科学は確かに進歩しているが、そのつど感動は、一時的なものにすぎない。
ひとつの科学が進歩するたびに、私たちは驚く。
しかししばらくすると、それが当たり前になってしまう。
あとはこの繰り返し。
つまり科学の進歩には、常にループ性がともなう。
進歩を繰り返しながら、同じところをグルグル回る。

こんな経験がある。

●絶え間ないループ状態

私は中学生のとき、はじめてカラーテレビなるものを、見た。
今から思えば、白黒テレビに、原色がついただけのカラーテレビだったが、
驚いたというよりも、あのとき受けた衝撃は、今でも忘れない。

さらに20代の中ごろ、私ははじめてパソコンなるものを、見た。
簡単なプログラムを組むと、それは画面上に、ポツポツと二次曲線を描いてみせた。
そのときは驚いたというよりも、うれしかった。

私は中学生のとき、夏休みの工作に、二次曲線自動描画器というものを考えた。
縦軸と横軸に張った糸を、プーリー(回転コマ)で動かす。
両方の糸が交わったところが、ひとつの点になる。
その点が、二次曲線を描くようにした。
で、私はその交わったところに、小さなボールを取り付けた。
ボールに縦穴と、横穴をあけ、そこに糸を通した。
手でハンドルを回すと、縦軸と横軸に張った糸が、ある一定の割合で移動し、その
ボールが動くはずだった。
しかしそのボールは、うまく動かなかった。
……というより、まったく動かなかったように記憶している。
縦軸の糸と横軸の糸が、相互にからんでしまった。

が、パソコンは、そのときの夢を実現してみせてくれた。
私はパソコンがポツポツと点を画面に描いていくのを、いつまでもじっと見つめていた。

そして今、中学生のときのカラーテレビや、20代のころのパソコンが、
インターネットに置き換わった。

このインターネットのおかげで、私は地方の都市に住むというハンディを克服する
ことができた。
そればかりか、情報を、瞬時に、世界に向けて発信することができるようになった。
しかし……。
これも科学の進歩というなら、まさに(同じこと)の繰り返し。
そのうちインターネットも、テレビのように当たり前になる。
そこで人間はさらなるモノを見つけて、それに感動するにちがいない。
またそうでないと感動しない。

つまりそれがここでいうループ性、ということになる。

●思考と情報

なぜ、こういう現象が起きるのか。
進歩しているようで、実は同じところをぐるぐる回っている。
私たちの身の回りの生活は、たしかに進化している。
豊かになっている。
たとえば写真ひとつとっても、今では瞬時、瞬時に、それを見ることができる。
見ることができばかりか、瞬時に、それを世界中に配信することができる。
携帯電話にしても、そうだ。
今では歩きながらでも、好きなところに電話をかけることができる。

その結果、私たちは、その分だけ、思考が深くなったかといえば、それはない。
その理由にひとつに、思考と情報の混同がある。

●思考と情報

思考と情報は、まったく別のものである。
幼稚園児が掛け算の九九をソラで言ったとしても、その子どもに算数の力(=
考える力)があるとは、だれも思わない。
思考には、つねにある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときの状態を、想像してみればよい。

一方、情報というのは、せんべいを食べながらでも、吸収することができる。
夜のテレビのバラエティ番組を見れば、それがわかる。
いや、番組を見ろというのではない。
そういう番組を見ている、あなた自身を見ろと言っている。

昨夜も、創作料理と称して、何人かのタレントが、珍奇な手料理を披露してみせて
いた。
ギョーザ風のオムレツ、オムレツ風のギョーザ。
そんなような料理だった。
そうした情報を吸収するのには、たいした努力はいらない。
テレビの前で寝転びながら、いっしょにゲラゲラと笑っているだけでよい。

言うなれば、現代社会というのは、まさに情報の洪水。
情報また情報が、怒涛のごとく、日々の生活の中に押し寄せてくる。
と、同時に、私たちは(考える)という習慣を放棄してしまった。
その時間さえない。
あるいは情報の多いこと、イコール、思考と錯覚してしまった。
その結果として、考える力、つまり新しい思想を生み出すということが
むずかしくなってしまった。

●モノ社会への幻想

さらにもうひとつ大きな誤解がある。
物質社会、つまりモノ社会が豊かになればなるほど、心もまた豊かになるという
誤解である。
明確に否定しておきたい。

物質、つまりモノは、人間の心をけっして豊かにはしない。
モノがあれば、便利にはなるが、それは人間の心の豊かさとは、まったくの
別物である。

たとえば旅行をするにも、今ではカーナビを頼りに、迷わず目的地に行く
ことができる。
しかしその分だけ、旅を楽しむ心が豊かになったかといえば、それはない。
大型の高級車に乗っている人ほど、思考力があるかといえば、それはない。
高級マンションに住んでいる人ほど、思考力があるかといえば、それはない。
つい先日、こんな経験をした。

●モノ社会

このあたりでは、第一と第三水曜日が、危険物の収集日ということになっている。
そのこともあって、昨日、私は、居間の横の部屋にあるガラクタを、ほとんど捨てた。
それはかなり勇気のいる作業だった。
2つの勇気が必要だった。
というのも、その中には、長い間、私が趣味としてきた、ラジコン飛行機も、5、6
機あったからである。

購入価格にしても、それぞれにプロポ(送信機)や、サーボ(動作用モータ)が
ついているので、1機あたり、10万円はくだらない。
そういうものを容赦なく、バリバリと破壊し、袋につめた。
これが勇気(1)。

もうひとつは、「2度とラジコン飛行機を飛ばすことはないだろう」という、
つまりは趣味との決別。
残りの人生が10年あるとしても、その10年は、別のことに使いたい。
そういう思いもあって、ラジコン飛行機と周辺機器をすべて捨てた。
これが勇気(2)。

しかしラジコン飛行機だけではない。
私の家にも、モノがあふれかえっている。
モノ、モノ、モノ……。

これだけモノがあふれているのに、ではその分だけ、私は幸福になったかというと、
それはない。
そのつど満足感は味わったかもしれないが、満足感と幸福感は別。
しかもその両方とも、一時的。
せつな的。
その場だけのもの。
わかりきったことだが、モノでは、人間は幸福になれない。
つまりここに、モノ文明、つまり物質文明の限界がある。

●考えるから人間

人間は、考えるからこそ、人間である。
「I think, therefore I am.(我、考える。それ故に、我、あり。)」という言葉もある。
「考えなければ、人間ではない」とさえ断言してもよい。
が、考えなければ、どうなるか。
そこはまさに、「ケータイをもったサル」という世界になる。
少し前だが、こんなことがあった。

角のコンビニを自転車で横切ろうとしたときのこと。
一台の車が、猛スピードでそこへ突っ込んできて、私の真横で急ブレーキを
かけて止まった。
私はあやうく、その車にはねられるところだった。
見ると実にそれらしい2人の若い男女だった。
視線が合ったとき、男のほうは、私に向って、「バ~カ」と言った。
声は聞こえなかったが、口の動きで、それがわかった。
女のほうは外に視線をはずして、ニヤニヤと笑っていた。

言うなれば、「クルマに乗ったサル」ということか。
そこには一片の知性も理性も感じなかった。
考えない人間というのは、そういう人間をいう。

●では、どうすればよいのか?

それは簡単な自問から始まる。
「おいしいものを食べた」……「だから、それがどうしたの?」
「大きな家を買った」……「だから、それがどうしたの?」
「600万円もする車を買った」……「だから、それがどうしたの?」と。

こうした自問を繰り返していると、ちょうどタマネギの皮が外からはがれて
いくように、自分の心がどんどんと細くなっていくのを感ずる。
「だから、それがどうしたの?」につづく、答の部分がない。
あるいはいくら考えても、その答がつづかない。

が、さらに自問を繰り返す。
「だから、それがどうしたの?」と。

するとあなたは、最後のところで、「私」が浮かびあがってくるのがわかる。
恐ろしく素朴で、恐ろしく小さい、「私」である。
その「私」から見ると、世の中のすべてのモノがつまらなく、取るに足りない
ものであることがわかってくる。

が、ここが原点。
そのあとのことはわからない。
それぞれの人が、それぞれの分野で、自分の道を見だす。
哲学者は、真理を。
宗教家は、善を。
芸術家は、美を。
ただ大切なのは、自問を繰り返すこと。
「だから、それがどうしたの?」と。

あえて言うなら、その悩み、苦しむ過程こそが大切。
その過程を通して、いろいろなドラマが生まれ、それが人間の世界を、
豊かなものにする。

大切なことは、自分で考えること。
結局は、そこへ行き着く。

●荘子の思想

ついでながら、荘子の思想について……。

すべての欲望、さらには自分を束縛するすべての「知」から、自らを解放し、
自然の世界(道)で、自然に溶け込む※。
荘子が説いた「安心立命」を一言で説明すれば、そういうことになる。

が、皮肉なことに、現代文明は、自然を容赦なく破壊する。
自然に溶け込むどころか、自然に背を向けている。
すでに2500年前に、その重要性を説いた人がいたにもかかわらず、
それを今に生かすことさえできないでいる。

……となると、思想とはいったい何かということにもなってしまう。
科学というのは、絶え間なく、その前の科学に積み重ねられていく。
一方、思考というのは、絶え間なく、上書きされていく。
科学のような積み重ねがしにくい。
が、もし今、2500年前の老子や荘子の思想を進化させていたら、
地球温暖化の問題も起きなかったはず。
一方、科学だけが進歩し、自動車がひしめき、飛行機が飛び交うように
なったからこそ、地球の温暖化は進んでしまった。

が、このままもし人間が、「だから、それがどうしたの?」という部分を
置き去りにしたまま、科学の進化だけを独走させてしまったら……?

そのときは、本当に人類は滅亡の危機を迎えることになる。
思考力があれば、人類は生き残ることができる。
思考力を失えば、人類は滅亡する。
飛躍した結論に聞こえるかもしれないが、思考力だけが、人類の滅亡を救う、
ゆいいつの方法ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
科学 哲学 老子 荘子 無為自然 安心立命 思考力 思考のループ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1月10日(土曜日)

【老人心理】

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昨夜、こんな話を聞いた。
その家には、84歳になる女性がいるのだが、
他人の前では、弱々しく、やさしく思いやりの
ある人間を演ずるという。
そのため近所の人たちの間では、「仏様」と評されて
いるという。

たとえば孫(26歳)が、嫁(27歳)とひ孫(4歳)を
連れて正月に遊びに来たとする。
いつもならパクパクと夕食をすませるのに、そういうとき
にかぎって、遠慮深く、穏やかな表情でこう言うという。

「私はいらないから、H(=ひ孫)にやってくれ。
私は、食べたくない……」と。

いかにも病人、もしくは今にも死にそうな声で、そう言うという。
そのためその女性を直接世話(=介護)をしている女性(=娘、
64歳)は、こう言う。

「いやになっちゃう……。私が何も食べさせていないような
印象を、みなに与えてしまう」と。

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●4つのタイプ

他人と良好な人間関係が結べなくなると、独特の症状を
示すようになる。

(1)攻撃的に出るタイプ、(2)服従的になるタイプ、(3)依存的になるタイプ、
それに(4)同情を求めるタイプに分かれる。
それが老人になると、顕著に現れるようになる。
夜中じゅう、大声を出して暴れていた老人(男性、75歳くらい)もいた。
妻もいたが、介護に疲れて、二男の家に身を寄せてしまっていた。
しかたないので、長男の嫁にあたる女性(40歳くらい)が、介護をしていたが、
気苦労が重なったのだろう。
1、2年余りで、これ以上やせることはないと思われるほど、やせてしまった。
この老人のばあいは、(1)の攻撃的に出るタイプということになる。

が、この老人のばあいもそうだが、他人に対しては、まるで別人のように振舞って
いた。
つまり攻撃タイプであっても、他人に対しては、服従タイプになったり、依存タイプ
になったりする。
冒頭に書いた84歳の女性のばあいもそうである。

●部屋中、神札だらけ

それほど裕福な家庭ではない。
その女性の介護に当たっているのは、64歳の女性(娘)だが、夫とは死別。
現在は、会計事務所の事務員として生計を立てている。
が、その84歳の女性は美容院へ行くたびに、1万円のチップをはずんでいるという。

もちろん家計は火の車。
そこでその女性は、あちこちから、神札をもらってきては、部屋中にそれを
張りつけているという。
そこで64歳の女性(娘)が、そんなことをしても無意味と言うのだが、それを
言うと、84歳の女性(母親)は、烈火のごとく怒り出すという。

暴言を吐くなどということは、当たり前。
ときに「お前なんか、地獄へ落ちて死んでしまえ!」とさえ言うそうである。

●弱々しい老人(?)

似たような話は、いくらでもある。
こんな話も聞いたことがある。

あるときある女性(娘)のところへ電話がかかってきた。
受話器を取ると、電話口の向こうで、その女性の母親(75歳)が、やはり
今にも死にそうな声で、「助けてくれ」「歩けない」「何も食べていない」と言った
という。

が、その日は、何かの用事があって、その女性は実家(母の住むところ)には
行けなかった。
で、翌日、行ってみると、びっくり。
何とその母親が、スタスタと駅の構内を、友人といっしょに歩いているではないか。
その女性が、我が目を疑ったという。
で、母親に、「お母さん……」と声をかけると、その母親は一瞬、
「しまった!」というような表情をしてみせたという。

●ゆがんだ心理

残念ながらこの日本では、こうした老人心理の研究は、ほとんど進んでいない。
冒頭にあげた4つのタイプにしても、もとはといえば、発達心理学で使われている
分類法である。

しかし高齢になればなるほど、心はゆがむ。
思いつくまま、特徴をいくつかあげてみる。

(1)極端化…その人の性格や性質が極端化する。
(2)愚鈍化…脳の機能が衰え、言動が愚鈍かする。
(3)硬直化…融通性が消え、全般に頑固になる。
(4)悲観化…ものごとを悲観的に考えるようになる。
(5)貪欲化…食欲、性欲、物欲が増大する。
(6)依存化…強度な依存性が現れるようになる。

こうした全般的な症状にあわせて、精神的な病気や、認知症などの障害が
起これば、症状は、さらに複雑になる。

●対処段階論

こうした老人と接するとき、注意しなければならないことがある。
これは私自身の経験でもあるが、その第一は、まともに接しては
いけないということ。

息子や娘の立場で、段階的に考えてみよう。

(1)幻想期…「親である」という幻想を抱きつづける時期。親をことさら美化する。
(2)葛藤期…「そんなはずはない」と親に対する疑問と葛藤する時期。親の失敗を認め
ない。
(3)受諾期…葛藤することに疲れ、現実を受け入れるようになる時期。親を一人の人間
としてみるようになる。
(4)寛容期…1人の老人として認め、親に対して寛容になる時期。現実を受け入れ、老
人介護が、淡々とできるようになる。

たとえばある女性(当時60歳くらい)は、母親が車の中で失禁をしただけで、
パニック状態になってしまった。
自分の母親が、失禁するということ自体、受け入れがたかった。
それまでは「親は絶対」と考え、だれかがその母親を批判しただけで、それに
たいしてムキになって反論していた。

が、こうした葛藤を1、2年繰り返したあと、その女性は、ここでいう受諾期へと
入っていった。

●こわい反面教師

ここで「まともに接してはいけない」というのには理由がある。
まともに接すれば接するほど、その親の性格、性質を引きついでしまうということ。
そのときは反面教師として親を見るが、その親が亡くなったあと、今度はその
人自身が、親そっくりの人間になってしまう。

つまり反面教師にするならするで、それとは別のところで、別の人格を形成する。
その努力を怠ると、反面教師が目の前から消えたとたん、その反面教師そっくりの
人間になる。
そういう例は多い。

たとえばBさん(女性、当時60歳くらい)は、いつも母親の愚痴を言っていた。
母親は軽い脳こうそくを何度か経験したこともあって、善悪の判断ができなくなっていた。
それについて、Bさんは、母親のことを、「ずるい」「うそつき」「約束を守らない」と。

が、母親が15年近く前に亡くなった。
で、今度はBさん自身が、当時の母親の年齢に近づいてきた。
が、年齢とともに、ますます母親に似てきた。
今はBさんの息子や娘たちに、「お母さんはずるい」「うそつき」「約束を守らない」と
言われている。

老後の親は、接する側が、一歩退く。
「どうせ相手は老人」と思うことで、相手をのんでしまう。
あるいは幼児と同列に置く。
そしてあなたはあなたで、高邁な人格をみがく。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
老人心理 老人の心理 老齢心理 依存性 老人の依存性)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●私には理解不能

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日本をミサイルで脅しておいて、
「のこのこ来るのは、我々のミサイルが
怖いからだ」は、ない。

まず、毎日新聞の記事を読んでほしい。
そこにはこうある(1月10日)。

+++++++++以下、毎日新聞+++++++++++

「日本が6カ国協議にのこのこ来るのは、我々のミサイルが怖いからだ」。北京で昨年12
月に開かれた6カ国協議で、K国首席代表のKK外務次官が、厳しい核計画の検証を求め
る日本へのいら立ちを強め、さまざまな非難を繰り返していたことが分かった。

+++++++++以上、毎日新聞+++++++++++

記事の内容はともかくも、あの国は、どうしてこうまで、いじけているのだろう。
おもしろくない気持ちは、ヨ~ク、わかる。
世界の最貧国と評され、やることなすこと、すべて失敗。
産業も工業も、壊滅状態。
が、虚栄心だけは、やたらと強い。
(自尊心というよりは、この段階にくると、もう、虚栄心。)
恐らく自分たちが何を考えているのかさえ、わかっていないのだろう。
もちろん自分たちが、どういう立場にあるのかさえも、わかっていない。

日本としては、あんな国、相手にしたくない。
相手にもならない。
できれば日本のことなど忘れて、自分たちで自分の道を進んでほしい。
あるいは素直に、「助けてください」とでも言えば、まだ話もわかる。
が、エネルギー支援について、こうも言っている※。

『日本の負担分を豪州などが肩代わりする案を取り上げて「他国の代理負担に反対しない
日本は恥知らずで無責任だ」などと声を荒らげたという』(同紙)と。

恥知らず?
フ~~~ン。
恥知らず、ね?
が、本当の恥知らずは、どちらなのか?
ここまでいじけてくると、日本としてもどう対応したらよいか、わからない。

しかし本当の問題は、どうしてこうまでいじけているのかということ。
(理解する)といっても、(理解できること)には、幅がある。
その幅を超えると、理解できなくなってしまう。
今のK国は、その(幅)を超えている。

K国がまともな国なら、ミサイルをもっても、こわくない。
まともでないから、こわい。
だからみなが、なだめすかして、何とかしてやろうと考えている。
が、当の本人は、それがわかっていない。
わかっていないばかりか、自分たちは、アメリカ、中国、ロシアと対等と思っている。
どうして日本が、世界が、K国を援助しなければならないのか。
日本ではそういう国のことを、「おめでたい国」という。
K国には、そういう言葉はないのだろうか?

ついでに「恥知らず」について一言。
私たち日本人は、K国のような国のエネルギー支援ができないことを、
恥ずかしいことだとは思っていない。
だいたい、だれに対して、何を恥じるのか。
何か、ピンボケ写真でも見ているかのような錯覚にとらわれる。

で、この記事でひとつだけ気になることがある。
つづく、つぎの部分を慎重に読んでみてほしい。
こうある。

『協議関係者は「K国は検証問題で米国が譲歩しない背後に日本の圧力があると考え、あ
らゆる理屈を動員して日本を排除しようとしている」と指摘している』(同紙)と。

わかるかな?
「アメリカが譲歩しない背後には、日本の圧力ある」と。
K国の代表はそう思っているというのだ。

事実、そのとおりかもしれない。
そうでないのかもしれない。
それはともかくも、だれが、それをK国の代表に伝えたか、である。
毎日新聞によれば、「ヒルとの個別接触の結果」とも、読み取れる。
つまりここでも、あのヒルは、日本を裏切っている。
恐らく個別接触では、ヒルは、こう言っていたにちがいない。

「日本がうるさくてねえ……。私も困っているんですよ。
アメリカとしては、核拡散だけを、お宅に守ってもらえれば、それで
いいのですが……。
日本をなだめるためにも、サンプル採取を認めていただけませんか」と。

その結果が、「のこのこ」となり、「恥知らず」となった。
けっして私の妄想ではない。
以前にも、そういう例がある。

アメリカがK国をテロリスト指定国家を解除するときも、同じような
動きがあった。
あのときもヒルは、日本に拉致問題を一時棚上げにした上、K国の支援に
加わるようにと、日本に迫った。
しかもそれに応じなければ、テロリスト指定国家を解除すると日本を脅し、
日本がそれに応じないとわかると、本当に指定国家を解除してしまった。

結果としてみると、この5年間、ヒルが拉致問題を取り上げた形跡はゼロ。
もちろん成果も、ゼロ。

ちがうかな?

(注※……)『「日本が6カ国協議にのこのこ来るのは、我々のミサイルが怖いからだ」。北
京で昨年12月に開かれた6カ国協議で、北朝鮮首席代表の金桂冠(キムゲグァン)外務
次官が、厳しい核計画の検証を求める日本へのいら立ちを強め、さまざまな非難を繰り返
していたことが分かった。

 同協議は12月8~11日に首席代表会合が開かれ、2国間接触を交えて核検証方法の
文書化を目指した。

 複数の協議関係者によると、これらの席上で金次官は経済・エネルギー支援の早期履行
を主張。日本の負担分を豪州などが肩代わりする案を取り上げて「他国の代理負担に反対
しない日本は恥知らずで無責任だ」などと声を荒らげたという。

 さらに、米首席代表のヒル米国務次官補との個別接触では、日本との対話を促されたの
に対し、「日本は繰り返しわが国との対話を要求しているが、その理由は何か知っている
か? わが国のミサイルが怖いからだ」と説明したという。

 今回の協議では、議長国・中国が日米の意見を盛り込んだ文書化草案を提示したが、北
朝鮮は「こんな内容なら本国に報告しない」と一切の論議を拒否。これに先立つシンガポ
ールの米朝接触でも米国側の説明を全く聞き入れなかったという。

 協議関係者は「北朝鮮は検証問題で米国が譲歩しない背後に日本の圧力があると考え、
あらゆる理屈を動員して日本を排除しようとしている」と指摘している』(以上、毎日新聞)。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●中国の国家主席?

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数日前、食事をしながら、ワイフが
ふとこう言った。
「中国の国家主席って、だれ?」と。

私は即座に答えられなかった。
「エ~、だれだったけ?」と。

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毎日新聞を読んでいる。
ニュースサイトにも目を通している。
しかし中国の国家主席の名前がわからなかった。

ショックだった!

たしかに私の脳みそは、老化している。
ひょっとしたら認知症になりつつあるのかもしれない。
心配が、ムラムラと心を包んだ。

で、こういうときは、(アイウエオ……)順に思い出すようにしている。
カのところで、「カ・コク・ホウ?」。
コのところで、「コ・キン・トウ?」。
「コ・ヨウ・ホウ?」。
勝手な名前が、つぎつぎと出てくる。

ついでにフィリッピンの大統領の名前や、マレーシアの首相の名前も、
思い浮かんでくる。
しかし肝心の中国の国家主席の名前が出てこない……!

そこで今、インターネットを使って調べてみる。

ウィキペディア百科事典には、こうある。
国家主席……胡錦涛(コキントウ)
国務院総理……温家宝(オンカホウ)

記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)というプロセスを経て、
記憶として残り、思い出すことができる。
中国の国家主席のばあいは、しっかりと記銘していなかった。
ニュースなども適当に読んで、そのままにしておいた。
そこで今、改めて、記銘。

コキントウ、コキントウ……、
オンカホウ、オンカホウ……、と。

コツは、一度、声に出してみるということ。
文字を見ただけでは、記銘力は弱い(?)。

しかし脳みそには、キャパシティ(容量)というものがある。
今ここで、2人の名前を記憶したら、どこかで、別の記憶が消えていくのではないか?
そうでなくても、毎日、約10万個という脳細胞が死滅している。
(20歳を過ぎたら、毎日だぞ!)
私の年齢になったら、もっと多いかもしれない。

どうであるにせよ、放っておいてもよくない。
キャパシティはあるかもしれないが、どんどんと覚えていくしかない。
コキントウ、オンカホウ……、と。

ついでにフィリッピンは、グロリア・マカパガル・アロヨ、
マレーシアは、国王が、ミザン・ザイナル・アビディン、首相が、アブドゥラ・
ビン・アフマッド・バダウィ。

ゾーッ!

「アロヨ」と「バダウィ」という名前だけで、勘弁してもらう。

Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●人間性

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私は正直に書くが、結婚してこのかた、
ごく最近まで、ワイフのバッグの中に
手を入れたことがない。
「最近」というのは、小銭が必要に
なったとき、ワイフのバッグから
財布を取り出したことをいう。

それでも抵抗を感ずる。
しかし世の中には、他人のバッグでも、
そういうことが平気でできる人がいる。

+++++++++++++++++

●無断でバッグを使用

こんな話を、その女性から聞いた。
その女性が、何かのことで家をあけた。
帰ってきてみると、机の上に置いたバッグの位置がずれているのに気がついた。
そこで中を見ると、ものの入れ方が、それ以前とはちがっていた。

そこで夫の母親、つまり姑(しゅうとめ)に、「バッグをどうかしましたか?」と
聞くと、夫の母親は、平然とこう言ってのけたという。

「いいバッグだったから、今日、買い物に行くとき、貸してもらいました」と。

つまり夫の母親は、その女性の部屋に無断で入り、バッグの中身を一度抜いたあと、
それを買い物に使ったというのだ。
そしてその女性が帰ってくる前に、元通りに(?)にして、机の上に置いた。

その女性はこう言った。

「そういうことが平気でできる人というのは、そうはいないと思います」と。

が、一事が万事、万事が一事。
夫の母親は、日常的にそういうことをしているという。
ウソは平気でつく。
約束なんてものは、あってないようなもの。
見栄っぱりで、世間体を気にする。

しかしそういう人の末路は、あわれ。
やがてだれからも相手にされなくなる。
現に今、嫁であるその女性にすら、あきられている。

「そういう人もいるんだなあ」と思ったところで、何と返事してよいか
私はわからなくなってしまった。

そこで決意。
大げさかな?

これからは、たとえ小銭が必要なときでも、ワイフのバッグには手を入れないぞ!


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