*Praising is essential in Education
●ほめる
読売新聞に、こんな記事が載っていた。
+++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++
乳幼児期に親からよくほめられる子供は、他人を思いやる気持ちなどの社会適応力が高くなることが、科学技術振興機構の長期追跡調査で明らかになった。育児で「ほめる」ことの重要性が、科学的に証明されたのは初めて。3月7日に東京都内で開かれるシンポジウムで発表する。
筑波大のAM教授(発達保健学)らの研究チームは、2005~08年、大阪府と三重県の計約400人の赤ちゃんに対し、生後4か月、9か月、1歳半、2歳半の時点で成長の度合いを調査した。調査は親へのアンケートや親子の行動観察などを通して実施。自ら親に働きかける「主体性」や相手の様子に応じて行動する「共感性」など、5分野25項目で評価した。
その結果、生後4~9か月時点で父母が「育児でほめることは大切」と考えている場合、その子供の社会適応力は1歳半時点で明らかに高くなった。また、1歳半~2歳半の子供に積み木遊びを5分間させたとき、うまく出来た子供をほめる行動をとった親は半数程度いたが、その子供の適応力も高いことも分かった。
調査では、〈1〉規則的な睡眠習慣が取れている、〈2〉母親の育児ストレスが少ない、〈3〉親子で一緒に本を読んだり買い物をしたりすることも、子供の適応力の発達に結びつくことが示された(読売新聞090228)
+++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++
ほめることは、幼児教育の要(かなめ)である。
それを疑う人は、いない。
しかし……?
こんなことは、すでに大脳生理学の分野で、証明されていることではないのか。
人のやさしさを司るのは、辺縁系の中の、扁桃核(扁桃体)と言われている。
たとえば人にほめられたり、やさしくされたりすると、その信号は、扁桃核に送られる。
その信号を受けて、扁桃核は、エンドロフィンやエンケファリンなどの、いわゆる
モルヒネ様のホルモンを分泌する。
その結果、その人(子どもは)は、甘い陶酔感を覚える。
この陶酔感が、(やさしさ)につながる。
以前書いた原稿をさがしてみる。
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●意思
最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわかってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。
たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、それを取って食べようとする。
そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。
が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなたは、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあるが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。
たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、すでに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。
(かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことになる。)
そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてしまう。
……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということになってしまう。
……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。
やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろう。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。
しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をする」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけということになる。
……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さからってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をしてみよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。
「私」とは何か?
ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我がある。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。
このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。
50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといってもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようになる。
たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいたとする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。
しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そうだ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。
「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロールされている。
……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだが、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。
が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。
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そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。
子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。
少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。
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●子どものやる気
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子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?
そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!
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人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。
この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分にとって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。
たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。それはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。
サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してしまうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。
つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけである。
そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてしまうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてしまうと、簡単には変えられないということになる。
そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。
最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたとしよう。
そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつようになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつようになる。
あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子どもは、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますますその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。
心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言葉もある。
つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割には、効果があがらないということになる。
このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。
何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌される。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。
このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。
ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同じような作用があるという。
「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。
わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるということ。
そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えたか)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しんだかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。
これはたいへん重要なことである。
というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。
実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。
たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静かに待つ。
(このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えている。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)
しかしカテコールアミンとは何か?
それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせているその物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)
【補記】
一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)
それにはいくつか、理由がある。
勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金にたとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。
あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。
本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかしこの日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親は、パニック状態になってしまう。
かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)
【補記】
子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期に、それに気づき、対処するのがよい。
私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子どもにとっても、幸福なことかもしれない。
しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸びる姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。
大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないということ。
Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司
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