Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, February 28, 2009

*The Sin called "No-Brain"

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メキシコの作家の、Carlos Fuentes
は、こう言った。

Writing is a struggle against silence.

「書くことは、静寂との闘いである」と。

たしかにそうだ。

何ごともなく、無難に過ごそうと思えば、
それはできる。ひとり、静かに、小さな
部屋の中に、閉じこもっていればよい。

しかし人は、書くことによって、ものを
考え、考えることによって、生きること
ができる。

無知は、それ自体が、罪悪と考えてよい。

この言葉を知ったとき、数年間に書いた
原稿のことを思い出した。

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【無知という「罪悪」】

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「私は知らなかった」では、すまされない。
それが子どもの世界。

無知は、罪悪。そう考えるのは、きびしい
ことだが、しかし親たるもの、親としての
勉強を怠ってはいけない。

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 これだけ情報が濃密に行きかう時代になっても、その情報の外に住んでいる人たちがいる。自ら情報の外の世界に身を置くことにより、彼らの言葉を借りるなら、「情報がもつわずらわしさから、自分を解放するため」だ、そうだ。

 しかし無知は、今の時代にあっては、罪悪と考えてよい。「知らなかった」では、すまされない。とくに相手が子どものばあい、親の独断と偏見ほど、こわいものはない。症状をこじらせるだけではなく、ばあいによっては、取りかえしのつかない状態に、子どもを追いやってしまう。

 A君という年長児の子どもがいた。自閉症と診断されたわけではないが、軽い自閉傾向があった。一度何かのことで、こだわりを見せると、かたいカラの中に入ってしまった。たとえば幼稚園へ行くときも、青いズボンでないと行かないとか、幼稚園でも、決まった席でないと、すわらないとか、など。居間の飾り物を動かしただけで、不機嫌になることもあった。

そのA君は、虫の写真の載っているカードを大切にしていた。いろいろな種類のカードをもっていたが、その数が、いつの間にか、400枚近くになっていた。A君は、それを並べたり、箱に入れたりして大切にしていた。

 が、A君の母親は、それが気に入らなかった。母親は、虫が嫌いだった。また母親が、カードの入っている箱にさわっただけで、A君は、パニック状態になってしまったりしたからである。

 そこである日、A君が幼稚園へ行っている間に、母親は、そのカードが入っている箱を、倉庫へしまいこんでしまった。が、それを知ったA君は、そのときから、だれが見ても、それとわかるほど、奇異な様子を見せるようになった。

 ボーッとしていたかと思うと、ひとり、何かを思い出してニヤニヤ(あるいはニタニタ)と笑うなど。それに気づいて母親が、カードを倉庫から戻したときには、もう遅かった。A君は、カードには見向きもしなくなってしまったばかりか、反対に、そのカードを破ったり、ゴミ箱に捨てたりした。

 それを見て、母親は、A君を強く叱った。「捨ててはだめでしょ」とか、何とか。私が、「どうしてカードを、倉庫へしまうようなことをしたのですか?」と聞くと、A君の母親は、こう言った。「だって、ほかに、まだ、100枚近くももっているのですよ。それに私がしまったのは、古いカードが入った箱です」と。

 自閉傾向のある子どもから、その子どもが強いこだわりをもっているものを取りあげたりすると、症状が、一気に悪化するということはよくある。が、親には、それがわからない。いつもそのときの状態を、「最悪の状態」と考えて、無理をする。

 この無理が、さらにその子どもを、二番底、三番底へと落としていく。が、そこで悲劇が終わるわけではない。親自身に、「自分が子どもの症状を悪化させた」という自覚がない。ないから、いくら説明しても、それが理解できない。まさに、ああ言えば、こう言う式の反論をしてくる。人の話をじゅうぶん聞かないうちに、ペラペラと一方的に、しゃべる。

私「子どもの気持ちを確かめるべきでした」
母「ちゃんと、確かめました」
私「どうやって?」
母「私が、こんな古いカードは、捨てようねと言いましたら、そのときは、ウンと言っていました」

私「子どもは、そのときの雰囲気で、『うん』と言うかもしれませんが、本当に納得したわけではないかもしれません」
母「しかし、たかがカードでしょう。いくらでも売っていますよ」
私「おとなには、ただのカードでも、子どもには、そうではありません」
母「気なんてものは、もちようです。すぐカードのことは忘れると思います」と。

 私の立場では、診断名を口にすることはできない。そのときの(状態)をみて、「ではどうすればいいか」、それを考える。しかしA君の症状は、そのとき、すでにかなりこじれてしまっていた。

 ……こうした親の無知が、子どもを、二番底、三番底へ落としていくということは、よくある。心の問題でも多いが、学習の問題となると、さらに多い。少しでも成績が上向いてくると、たいていの親は、「もっと」とか、「さらに」とか言って、無理をする。

 この無理がある日突然、限界へくる。とたん、子どもは、燃えつきてしまったり、無気力になってしまったりする。印象に残っている子どもに、S君(小2男児)という子どもがいた。

 S君は、毎日、学校から帰ってくると、1~2時間も書き取りをした。祖母はそれを見て喜んでいたが、私は、会うたびに、こう言った。「小学2年生の子どもに、そんなことをさせてはいけない。それはあるべき子どもの姿ではない」と。

 しかし祖母は、さらにそれに拍車をかけた。漢字の学習のみならず、いろいろなワークブックも、させるようになった。とたん、はげしいチックが目の周辺に現われた。眼科で見てもらうと、ドクターはこう言ったという。「無理な学習が原因だから、塾など、すぐやめさせなさい」と。

 そのドクターの言ったことは正しいが、突然、すべてをやめてしまったのは、まずかった。それまでS君は、国語と算数の学習塾のほか、ピアノ教室と水泳教室に通っていた。それらすべてをやめてしまった。(本来なら、子どもの様子を見ながら、少しずつ減らすのがよい。)

 異常なまでの無気力症状が、S君に現われたのは、その直後からだった。S君は、笑うこともしなくなってしまった。毎日、ただぼんやりとしているだけ。学校から帰ってきても、家族と、会話さえしなくなってしまった。

 祖母から相談があったのは、そのあとのことだった。しかしこうなると、私にできることはもう何もない。「もとのように、戻してほしい」と、祖母は言ったが、もとに戻るまでに、3年とか4年はかかる。その間、祖母がじっとがまんしているとは、とても思えなかった。よくあるケースとしては、少しよくなりかけると、また無理を重ねるケース。こうしてさらに、子どもは、二番底、三番底へと落ちていく。だから、私は指導を断った。

 子どもの世界では、無知は罪悪。そうそう、こんなケースも多い。

 進学塾に、特訓教室というのがある。メチャメチャハードな学習を子どもに強いて、子どもの学力をあげようというのが、それ。ちゃんと子どもの心理を知りつくした指導者がそれをするならまだしも、20代、30代の若い教師が、それをするから、恐ろしい。ばあいによっては、子どもの心を破壊してしまうことにもなりかねない。とくに、学年が低い子どもほど、危険である。

 テストを重ねて、順位を出し、偏差値で、子どもを追いまくるなどという指導が、本当に指導なのか。指導といってよいのか。世の親たちも、ほんの少しだけでよいから、自分の理性に照らしあわせて考えてみたらよい。つまり、これも、ここでいう無知の1つということになる。

 たいへんきびしいことを書いてしまったが、無知は、まさに罪悪。親として、それくらいの覚悟をもつことは、必要なことではないか。今、あまりにも無知、無自覚な親が、多すぎると思うので……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 無知 無知という罪悪 無学という罪悪)