Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, March 26, 2009

*Stay-Indoor-Youngs

【子育て】(S男の引きこもり)(特集)

●時の流れ

時の流れは風のようなもの。
どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。
「時間よ、止まれ!」と叫んでみても、その風は、止まることはない。
手でつかもうとしても、指の間から、すり抜けていく。

私は子どものころから、何か楽しいことがあると、決まってこの歌を歌った。
「♪夕空晴れて、秋風吹き……。月影落ちて、鈴虫鳴く……」と。

結婚して子どもができてからもそうで、この歌をよく歌った。
ドライブに行き、その帰り道で、みなと合唱したこともある。
が、そういう時代も、あっという間に過ぎてしまった。
そのときは遅々として進まないように見える時の流れも、終わってみると、
あっという間。
どこへ消えたのかと思うほど、風の向こうに散ってしまう。
時の流れは、風のようなもの。

●私の夢

私には、夢があった。
子育ての夢というよりは、私自身の夢だったかもしれない。
その夢というのは、子どもを育てながら、いつか自分の子どもをオーストラリアへ
送ること。
親が夢をもつのを悪いというのではない。
その夢があるから、親は、子育てをしながら、そこに希望を託す。
その希望にしがみつきながら、仕事をする。
がんばる。
私も、ごくふつうの親だった。
息子たちには、何としてもオーストラリアへ行ってほしかった。
理由がある。

●夢のような生活

私は、学生として、オーストラリアへ渡った。
1970年の3月のことだった。
当時は、それなりの後見人、つまり身元保証人がいないと、正規の留学ができない
時代だった。
その後見人に、現在の皇后陛下の父君の、正田英三郎氏がなってくれた。
そのこともあって、私は、今から思うと、夢のような学生生活を送ることができた。

よく誤解されるが、青春はけっして人生の出発点ではない。
青春時代は、人生のゴール。
ゴール、そのもの。
人は常に、青春時代という(灯台)に照らされて、自分の人生を歩む。
私が、そうだった。

ともすればわき道に迷うそうになったことも、何度かある。
もともと生まれも育ちも、よくない。
ときに道を踏み外しそうになったこともある。
そういうとき、私の道を正してくれたのは、あの青春時代という灯台だった。

それが私の夢だった。
3人の息子たちを育てながら、息子たちにもまた、私がもっているのと
同じ灯台をもってほしかった。

●非現実的世界

私には3人の息子がいる。
ちょうど3歳ずつ、歳が離れている。
計画的に、そうしたわけではない。
結果的に、そうなった。

で、私は子育てをしながら、いつもこう願っていた。
息子たちにも、広い世界を見てほしい、と。
私の時代と比較するのもどうかと思うが、私の時代には、外国へ行くということ
すら、夢のような話だった。
たとえば羽田、シドニー間の航空運賃だけでも、往復42万円。
大卒の初任給が、やっと5万円に届いたというころだった。

いわんや留学など、夢のまた夢。
そのあと私が寝泊りするようになったカレッジにしても、当時のレートで、
月額20万円もした。
が、それだけの価値はあった。

最近、ハリーポッターという映画を見たが、あの中に出てくるような生活
そのままだった。
学生たちは、ローブと呼ばれるガウンを身にまとい、上級生や、
講師、教授とともに、いっしょに寝泊りをする。
「カレッジ」というと、日本では、「寮」と訳すが、日本でいう寮を想像しない
ほうがよい。
カレッジは、それ自体が、独立した教育機関である。
中央にある「大学(ユニバーシティ)」で、総合的な教育を受け、カレッジに
もどって、個別の授業を受ける。
それがイギリスのカレッジ制度である。

しかしこの制度は、そののち、労働党政権になり、大きく崩れた。
予算が大幅に削られた。
昨年、オーストラリアへ行った折に、私がいたカレッジを訪れてみたが、
昔の面影というか、雰囲気は、もうなかった。

で、私は正田氏に後見人になってもらったこともあり、皇族として、大学に
迎え入れられた。
隣人は、インドネシアの王子だったし、廊下をはさんで反対側は、
モーリシャスの皇太子だった。
みな、ファースト・ネームで呼びあった。

●外国

息子たちは息子たちで、そういう私の心を察してか、「いつかは外国へ行く」
ということを考えていた。……と思う。
たぶんに押し付けがましいものではあったかもしれないが、私はそれを喜んだ。

が、息子たちの時代ですらも、外国は、まだ遠かった。
2人の息子を連れて、オーストラリアへ行ったときも、またもう1人の息子と、
タイへ行ったときも、それなりの覚悟が必要だった。
それだけで1、2か月分の稼ぎが、吹っ飛んでしまった。
少なくとも、今のように、学校の修学旅行で、オーストラリアやハワイへ行く
ような時代ではなかった。

が、それがよかったのか、悪かったのか、私にはわからない。

同じ(外国)でも、人によって、その印象がちがう。
これはあくまでも一般論だが、外国の生活にそのまま溶け込める子どもと、
そうでない子どもがいる。
溶け込める子どもが、3分の2。
溶け込めないで、その世界からはじき飛ばされてしまう子どもが、3分の1。

つまり3人に1人は、外国の生活になじめない。
その割合は、年齢が大きくなればなるほど、大きくなる。

●S男のこと

親というのは、けっして1人の親ではない。
私も3人の息子を育てながら、3人の親になった。
つまり育て方が、みな、ちがった。

概して言えば、S男にはきびしく接した。
二男には、幼児のとき、浜名湖であやうく事故で亡くしかけたこともあり、
「生きているだけでいい」という接し方をした。
三男は、心の余裕ができたこともあり、俗にいう、甘やかして育てた。

そういう点では、S男には、申し訳ないことをした。
期待を、大きくかけすぎた。
夢を、S男にぶつけすぎた。
S男にとっては、私の家は、窮屈で住みにくいところだったことだろう。
今にして思うと、それがわかる。
申し訳ないことをした。
本当に申し訳ないことをした。
しかし当時の私には、それがわからなかった。
中学、高校へと進むにつれて、とくにS男の心は、私から離れていった。

●断絶

最初は小さな亀裂だった。
しかしそれがやがて断絶となり、私とS男の間の会話は途切れた。
私は、うるさい親父だった。
過干渉で、その上、過関心だった。
さらに悪いことに、これは言い訳にもならないが、私は忙しかった。
そのこともあって、私の情緒は、かなり不安定になっていた。
……というより、私は私で、心の問題をかかえていた。
それについては、もう少しあとで書くとして、私にとってもつらい時代だった。

もっとも、父と子、とくに父と息子が断絶するというケースは、珍しくない。
あのジークムント・フロイトは、それを「血統空想」という言葉を使って、
間接的に説明している。

子どもというのは、ある年齢になると、自分の血統、つまり父親を疑い始める。
「私の父は、本当の親ではないかもしれない。私の父親は、もっと高貴な
人物であったはず」と。

これに対して、自分の母親を疑う子どもは、いない。
それもそのはず。
子どもは母親の胎内に宿り、生まれたあとも、母親から乳を受ける。
そういう意味で、母子関係と、父子関係は、けっして同じではない。
平等ではない。

統計的な数字をみても、「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は、
79%もいる(「青少年白書」平成10年)。

私もそうした父親の1人、ということになる。
つまり私は、S男と会話が途切れたことについて、それほど深刻には、考えて
いなかった。

私自身も、私の父親とは、中学生になるころには、ほとんど会話をしなくなっていた。

●大学

下宿は、元高校教師の家に決まった。
私はそれを喜んだ。
大学は、友人の紹介で、キャンベラ大学に決まった。

ところでこうした手続きは、自分でするのがよい。
留学の斡旋を専門にするサービス会社もあるが、一般的に、高額。
が、自分ですれば、実費のみ。
昨年(08)、問題になり、破産した斡旋会社は、1人あたり、数百万円の
手数料を荒稼ぎしていたという。

今ではインターネットを通して、入学の申し込み、学生ビザの取得まで
すべてできる。
下宿代も、食事込みで、月額4~5万円程度。
学費も、半期の6か月で、70~80万円程度。
自分で手続きをすれば、ただというわけではないが、数千円の印紙代程度で、
すむ。

●巣立ち

S男は、友人のI君と2人で、大阪の伊丹空港を飛び立った。
3月の、まだ肌寒さの残る朝だった。
空港でいくらかの円を、オーストラリアドルに換えた。
それを渡すと、S男は、こう言った。

「2度と日本には帰ってこない」と。
私は、「そうか」とだけ言った。
親としてはさみしい瞬間であるが、それが巣立ち。
いつかはその日がやってくる。
むしろ私は、そういうS男をたのもしく思った。
と、同時に、内心では、ほっとした。

家の中では、いつもたがいにピリピリとした雰囲気だった。
それがS男にも通じたのか、S男はうしろも振り返らず、黙ったまま、
ゲートを通り過ぎていった。

●私の心のキズ

私が自分の心のキズに気がついたのは、私が40歳も過ぎてからの
ことではなかったか。
「おかしい」とは思っていたが、みなそうだと思っていた。
しかしキズは、たしかにあった。……今でも、ある。

トラウマというのは、そういうもの。
年齢を重ねたからといって、消えるものではない。
私は基本的には、不幸にして、不幸な家庭に生まれ育った。
父と母は、夫婦と言いながら、形だけ。
心はバラバラ。
その上、父は、ふだんはもの静かな学者肌の人だったが、酒が入ると、
人が変わった。
大声を出して、暴れた。
家具をひっくり返し、ふすまや障子のさんを壊した。

私と姉は、そして兄は、そのたびに、父の影におびえ、家の中を逃げ回った。

それが大きなキズとなった。
父が酒を飲んで、人が変わったように、私の中にも2人の「私」がいて、
そのつど、交替で顔を出す。
たとえばこんなことがあった。
私が小学5年生のときのことだった。

●2人の私

私には心を寄せる女の子がいた。
AMさんといった。
が、AMさんは、私には関心を示さなかった。
そういうことが重なって、私はある日、AMさんが教室にいないときを見計らって、
AMさんの机の中から、AMさんのノートを取り出した。
そしてその中の1ページに、乱雑な落書きをした。

しばらくしてAMさんが教室に戻ってきて、それを見て、泣いた。
そのときのこと。
私の中に2人の「私」がいて、1人の私は、それを見て笑っていた。
が、もう1人の「私」もいて、そういうことをした私を責めた。
「なんて、バカなことをしたのだ!」と。

ただ救われたのは、そうしてときどき顔を出す、邪悪な私は、私の中でも
一部であったこと。
また邪悪な私が顔を出すたびに、もう1人の私が、それをたしなめたこと。
もしそれがなければ、私はそのまま多重人格者になっていたかもしれない。
しかし心のキズは、そんなものではない。

●体の震え

私にはおかしな病癖があった。
子どものころから、何かのことで不安や心配になったりすると、体が震えた。
夜、床について、しばらくしてから起こることが多かった。
体中の筋肉がかたまり、そのあと、自分でもわかるほど、体がガタガタと震えた。
年に何度とか、あるいは月に1度とか、回数は多くなかったが、それは起きた。

強度の不安神経症?
パニック障害?

診断名はともかくも、不安が不安を呼び、それが渦のように心の中で増幅し、
やがて制御不能になる。
が、原因が、やがてわかった。

ある夜のこと。
そのとき私は30歳を過ぎていた。
ワイフとふとんの中で、あれこれと話しあっているうち、話題は、あの夜のことに
なった。

あの夜……父がいつもになく酒を飲み、大暴れした夜のことだった。
父は、大声で母の名を呼び、家の中をさがし回った。
「トヨ子!」「トヨ子!」と。

私と姉は二階の、いちばん奥の物干し台の陰に隠れた。
そのときのこと。
父は隣の部屋まで、2度来た。
家具を投げつける音が、壁を伝ってきこえてきた。
私は姉に抱きつきながら、「姉ちゃん、こわいよう、姉ちゃん、こわいよう」と
おびえた。
私はそのとき、6歳だった。

で、その話になったとき、あの震えが起きた。
体中がかたまり、私はガタガタと震えた。

ワイフはそれを見て、牛乳を温めてもってきてくれた。
私はワイフの乳房を吸いながら、心を休めた。

●心を開く

私は子どものころから、「浩司は、明るくて楽しい子」と、よく言われた。
「愛想がいい子」とも、よく言われた。
しかしそれは仮面。
私にも、それがよくわかっていた。
つまり私は、だれにでも尻尾を振る、そんなタイプの子どもだった。

心理学で言えば、心の開けない子どもということになる。
母と私の間で、基本的信頼関係が結べなかったことが原因と考えてよい。
私は乳幼児期において、絶対的な(さらけ出し)ができなかった。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味である。
それもそのはず。
先にも書いたように、私の家庭は、「家庭」という「体」をなしていなかった。
静かに家族の絆(きずな)を温めるという雰囲気さえ、なかった。

ゆいいつの救いは、祖父母が同居していたこと。
祖父が、私の父親がわりになってくれたこと。
もし祖父母が同居していなかったら、その後の私は、めちゃめちゃになって
いただろう。

ともかくも、私は、結婚してからも、ワイフにさえ、心を開くことができなかった。
私の過去にしても、また私が生まれ育った環境にしても、そういうことを
話すのは、(私の恥)(家の恥)と考えていた。

そんなわけで、私は、息子たちにも、心を開くことができなかった。
その影響をいちばん強く受けたのは、S男だった。

●パパ、もうダメだ!

電話は、突然だった。
受話器を取ると、S男はこう言った。
「パパ、もうだめだア」と。
悲痛な声だった。
私はその声の中に、異常なものを感じた。
「すぐ帰って来い!」と。

今のようにインターネットがある時代ではない。
連絡は手紙。
あるいは電話。
急ぎのときは、郵便局でファックス・メールというのを使った。
下宿先には、ファックスはなかった。
S男の様子がおかしいということは、下宿先のホスト・マザーから聞いていた。
しかしそれを詳しく確かめることもなかった。

が、2年間の留学生活を終え、これから専門課程へと進む矢先のことだった。
どこか心配なところはあったが、私の頭の中には、あの伊丹空港を出て行くときの
S男の印象が、強烈に残っていた。
意外というより、「どうして?」という疑問のほうが大きかった。

が、さらに驚いたのは、その翌々日のことだった。
裏の勝手口を見ると、S男がそこに立っていた。
「帰って来い」とは言ったが、そんなに早く帰ってくるとは思っていなかった。
私たちは、何も言わず、S男を家の中に迎え入れた。
S男が、ちょうど20歳になる少し前のことだった。

●長いトンネル

私たち夫婦は、そのあと、長くて苦しいトンネルに入った。
出口の見えないトンネルである。

S男の生活を見ていて、興味深かったのは、毎日、ちょうど1時間ずつ
時間がずれていくことだった。
1日が24時間ではなく、1日が25時間で動いていた。

昨日は午前9時ごろ起きたと思っていると、今日はそれが午前10時に
なる。
そしてそれがつぎの日には、11時になる。
こうして時間がずれていって、夜中は起きていて、昼間は寝るという状態が
つづいた。

ワイフは、「そのうち元気になるだろう」と考えていた。
しかし私は、そうでなかった。
仕事上、そのタイプの子どもを何十例も見てきた。
S男の症状は、まさにそれだった。
「引きこもり」という、まさにそれだった。

●自信喪失

S男については、一度、S男が高校生のときに、自信を失ったことがある。
S男が、隠れてタバコを吸い始めた。
それまでは私は、積極的に、禁煙運動を進めていた。
が、S男がタバコを吸っているのを知って、それ以後、禁煙運動はやめた。

しかし今度は、引きこもりである。
私は大きな衝撃を受けた。
というより、自信を失ってしまった。
当時もいろいろな場で、育児相談を受けていた。
が、心、そこにあらずという状態になってしまった。
(教育)の世界から、足を洗うことさえ考えた。

が、それを止めてくれたのが、ほかの2人の息子たちだった。
とくに、三男が、中学で何かにつけ、活躍してくれた。
学年でもトップの成績を取ってくれた。
生徒会長にもなってくれた。
それを見て、ワイフがこう言って励ましてくれた。

「あなたがしてきたことは、まちがっていないわ」と。

●暖かい無視と、ほどよい親

子どもが引きこもるようになったら、鉄則は、2つ。
(1)暖かい無視と、(2)ほどよい親。

もしS男が他人の子どもなら、私はその親に、こう言ってアドバイスしたこと
だろう。
「暖かい無視と、ほどよい親であることを、徹底的に貫きなさい」と。

暖かい無視というのは、愛情だけは忘れず、何もしない、何も言わない、
何も指示しない、何も干渉しない……ことをいう。
ほどよい親というのは、「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。
子どものほうから何かを求めてきたら、すかさずそれに応じてやる。
しかしこちらからは、あれこれと手を出さない。

しかし実際には、これが難しかった。

●だらしなくなる生活態度

私たちは、S男の生活態度が、日増しにだらしなくなるのを知った。
衣服を替えない。
風呂に入らない。
掃除をしない、などなど。
食事の時間は、もちろんめちゃめちゃだった。

もともと静かで穏やかなS男だったが、表面的には、それほど変わらなかった。
しかし心の中は、いつも緊張状態にあった。
不用意に私やワイフが何かを言うと、ときにそれに反応し、烈火のごとく、
怒った。
やがて私たちは、何も言えなくなった。

S男が、なすがまま、それに任せた。
しかしそれは少しずつだが、私とワイフを追いつめていった。
そのつど、私は、ワイフとドライブに出かけて、その先で、泣いた。

●親の愛

親の愛にも、三種類、ある。
本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。

しかし(愛)ほど、実感しにくい感情もない。
(怒り)や(悲しみ)と同列に置くことはできない。
できないが、『許して、忘れる』。
その度量の深さによって、愛の深さが決まる。
……というより、私はいつもその言葉の意味を考えていた。

英語では、「Forgive & Forget」という。
学生時代に、私が何か困ったことがあるたびに、オーストラリアの友人が
そばへ来て、こう言った。
「ヒロシ、許して忘れろ」と。

しかしこの言葉をよく見ると、「許す」は、「与えるため」とも訳せる。
「忘れる」は、「得るため」とも訳せる。

私は、「何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか」、それをずっと
考えていた。
が、そのとき、その意味がわかった。

私とワイフは、そのときも山の中のどこかの空き地に車を止めていた。
そしてそこでぼんやりと、窓の外を見ていた。
満天の星空だった。
と、そのとき、意味がわかった。

親は子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる。

私はそれを知ったとき、大粒の涙が、何度も何度も、頬を伝って流れるのを
知った。

●闘病生活

かかりつけの内科へ行くと、医師が、薬を処方してくれた。
しかしどれもS男には合わなかった。
そのつど腹部の不快感や、体の不調を訴えた。
で、薬を替えてもらうこともあったが、そのつどS男は、反作用というか、
それに苦しんだ。
いつも効果は、一時的だった。

もちろんS男だけが、引きこもりというわけではない。
この日本だけでも、推定だが、ひきこもっている若者は、数十万人はいると
言われている。

家人が隠しているケースも多いから、実際には、もっと多いかもしれない。
100万人という説もある。
私たち夫婦も、S男が引きこもっていることを、だれにも話さなかった。
隠したのではない。
話したところで、どうにもならなかった。
が、そうでなくても、私たち夫婦のことを話題にしたがる人は、いつもいた。

たとえば二男は、市内でも、ABCD……のつぎにくるような高校に入学した。
いろいろあって、そうなった。
二男が、自分で選んで、そうした。
それについても、「あの林先生の息子さんは、E高校なんですってねえ」と。

私のような仕事をしている者の息子は、トップのS高校でなければならない
という口調である。

とんでもない!
バカヤロー!

●友人の訪問

そんなS男の唯一の窓口が、S男の友人のS君だった。
小学時代からの友人で、週に1度、あるいは2、3週間に1度、S男を訪ねて
くれた。
私たちはS君の来訪を、S男より望んだ。
そして来てくれるたびに、S君を歓待した。
ときどきS男は、S君と居間でお茶を飲んだりした。
そのときだけ、私たちはS男との接点をもつことができた。

S君は、父親の土建業を手伝っていた。
私たちも家の工事をあれこれS君に頼むことで、S君との接点を保った。
この種の心の病気には、時間がかかる。
5年単位、10年単位の時間がかかる。
あせって何かをしても、逆効果。
かえって症状がこじれるだけ。
それを私も、よく知っていた。

●消えた夫婦喧嘩

私たちは、人からは仲のよい夫婦に思われていた。
しかし実際には、喧嘩ばかりしていた。
頻度を言っても意味はないが、月に1、2度は喧嘩を繰り返していた。
それについても、結婚当初からの長い経緯がある。
もともとたがいに納得した結婚ではなかった。
それに私には、先にも書いたように、心の病気があった。
心の開けない人間だった。
それに応じて、ワイフも、いつしか、心の開けない人間になっていた。

が、かろうじて私たちが夫婦でいられたのは、たがいに孤独だったこと。
不幸にして不幸な過去を背負っていたこと。
たがいに寄り添って生きていくしかなかった。

だから喧嘩といっても、2日以上、つづくことはなかった。
昼間に喧嘩しても、夜は同じふとんの中で眠った。

それはそれでよかったのだが、しかしS男の前では、喧嘩はできなかった。
どんなに言い争っていても、S男の空気を感じたら、そのままやめた。
S男に不安感を与えることだけは、ぜったいに避けなければならなかった。

●原因

子どもに問題が起きると、ほとんどの親は、その原因探しをする。
子どもに向けて、する。
が、そのとき、親自身に問題があったと考える親は少ない。
しかし子どもは、家族の(代表)にすぎない。
家族の問題を、代表しているにすぎない。

S男にしても、そうだ。
さらに最近では、うつ病という病気についても、その遠因は、乳幼児期の
母子関係の不全にあるということまで、わかってきた。
私たち自身の過去を見ても、S男がS男のようになったのも、もとはと
言えば、私の過去、そして私自身にある。
親の心が閉じていて、どうしてその親に、子どもが心を開くことが
できるだろうか。

心配先行型の子育て……というより、私は、息子たちを信じていなかった。
悪玉親意識も強く、いつも親風を吹かしていた。
S男がS男のようになったとしても、まったくおかしくない家庭環境だった。

●平凡は美徳だが……

平凡は美徳だが、平凡な生活からは、何も生まれない。
ドラマも生まれない。
感動も生まれない。
それはわかるが、そういった状態が、2年、3年とつづくと、それがそのまま、
平凡になってしまう。

家の中に、よどんだ重苦しさを感じながらも、私たち夫婦は、S男のことを忘れた。
S男はS男で、いつも勝手なことをして、日々を過ごした。
S男自身も、私の目には、それを楽しんでいるかのように見えた。
私たち夫婦も、S男のことは忘れて、勝手なことをし始めた。

が、そんなある日、S男が、突然、「働く!」と言い出した。
部屋の中に引きこもるようになってから、3年、あるいは4年ほど
過ぎたときのことだった。

●旗振りの仕事

「どんな仕事?」と聞くと、「道路工事の旗振りの仕事」と。
初夏の、暑い日がつづいていたころのことだった。
「いくらなんでも、いきなりそんなきびしい仕事をしなくても……」と、
私は言った。

真っ黒に日焼けした人たちの顔が、目に浮かんだ。
が、反対することはできなかった。
むしろ、S男のその変化に、喜んだ。
「ひょっとしたら……」という、淡い期待が、心の中に充満した。

が、そんなある日、S男がふと、こんなことを口にした。

「パパは、ぼくがこんな仕事をしたら、恥ずかしいか?」と。
私は、首を横に振った。
それを鼻先で笑った。
「恥ずかしい? とんでもない。そんな気持ちは、とっくの昔に捨てたよ」と。

私たちはその夜、近くのショッピングセンターで、日焼け止めクリームを
買ってきた。
そしてそれを、そっとS男の部屋の前に置いた。

●旗振り

S男は、旗振りの仕事を、8か月近くもつづけた。
朝早くバイクで出かけて行き、夜遅く帰ってきた。
しかし不規則な仕事で、収入も少なかった。
S男はS男で、「スポーツジムへ通うよりはいい」と言っていた。
私は、S男が快方に向かっているのを感じてはいたが、しかし全幅に
安心していたわけではない。

S男は、そのつど、不安定な様子を示した。
私たちも、そのつど、それに振り回された。

そうそう一度だけだが、こんなことがあった。
S男が、自宅から1時間ほどの現場で仕事をしていたときのこと。
S男が、どんな仕事をしているか、私とワイフが、見に行こうとした。

出かけるときは軽い気持ちだった。
しかし車で現場に近づくにつれて、私もワイフも、だまりこくってしまった。
いくつかの信号を通り過ぎた。
と、そのとき、ワイフが、こう言った。
「やめましょうよ」と。
見ると、ワイフの頬を、大粒の涙が流れ落ちているのがわかった。

●自己開示

その間、私たちとて、手をこまねいていたわけではない。
私が最初に考えたのは、自己開示。
これはS男のことがあったからというよりは、私自身の精神的欠陥に
気がついたからにほかならない。

自分をさらけ出す。
すべてはそこから始まった。
たまたま地元の中日新聞社のほうから、記事の連載を頼まれたこともあった。
私はそれをきっかけに、自分を書くことを始めた。

おかしなことだが、私はそれまで自分のことについて書くということは、
あまりなかった。
本も書いていたし、雑誌にも寄稿していた。
しかし自分のことは書かなかった。
自分の職業すら、たとえば大学の同窓会などでは、隠した。
少なくとも、おおっぴらに威張れるような職業ではなかった。

またワイフに対しても、自分をさらけ出すようにした。
ありのままの自分を、ありのままに表現するようにした。
夫婦や親子の間で、恥ずかしいとか、あるいは外聞を気にするほうがおかしい。
その(おかしさ)に、気がついた。

私は私。
人は人。
人がどう思おうと、私の知ったことではない。
少し遅すぎたが、しかし私は自分の仮面をはずした。
生き様を大きく変えた。

●仕事を替える

旗振りの仕事をきっかけに、S男は、仕事をいろいろと替えた。
替えたというよりは、不運だった。
寿司屋に勤めたときも、おもちゃ屋に勤めたときも、やがて店そのものが、
つぶれてしまった。

が、職安ではラッキーな男だった。
そのつど職安へ足を運ぶと、仕事はすぐ見つかった。
本人も、アルバイトでは、限界があると知ったのだろう。
正規の仕事を求めた。

で、決まったところが、知的障害者の人たちが働いている工場だった。
「ぼくも似たようなものだから」とS男は笑っていたが、私はそういうS男に、
気高いものを感じた。
「よかった」と思った。
が、ちょうど1年半勤めたところで、その会社をやめてしまった。
理由を聞くと、「専門学校に通って、資格を取りたい」と。

私はS男のしている仕事の尊さを知っているだけに、「もったいないことをしたね」
とだけ、言った。

●挫折

S男は、外の世界では、愛想のよい、明るい人間に見られている。
冗談もよく飛ばす。
その点は、私、そっくりだ。
しかしそれは仮面。
自分を偽る分だけ、S男は、疲れる。
それが私にも、よくわかった。

専門学校へは、1年、通った。
しかしそこで挫折。
再び、家に引きこもるようになってしまった。
S男は、専門学校では、年齢的に浮いた状態だった。
高校を出たばかりの若い人たちと、いっしょに机を並べて勉強するという
ことが、S男にはできなかったらしい。
私は「気にするな」と何度も言った。

ほかにもいろいろ理由があったのだろう。
専門学校へ行くと言っては家を出て、そのまま町をぶらついて帰ってくる。
そんなこともあった。

●成長

しかし悪いことばかりではない。
そういうS男だったが、心の成長は、私にもよくわかった。
S男は、私たちが苦しんだ以上に、苦しんだ。
……苦しんでいた。

私たち夫婦は、S男の将来を心配していたが、それ以上にS男自身も、
自分の将来を心配し、悩み、苦しんでいた。

二男が結婚し、子どもができたときも、S男は、ふと、こう漏らした。
「オレは、兄貴として失格だ」と。
S男は、二男に何もしてやれない悔しさを、感じていた。

が、そういう苦しみや悲しみを乗り越えて、S男は、私たちが想像する
よりもはるか高い次元にまで、成長していた。
S男は、再び、あの会社で働くと言い出した。

●再就職

幸いなことに、S男は、再び、同じ会社に再就職できた。
社長、専務以下、みなS男のことをよく覚えていてくれた。
暖かく迎えてくれた。
言い忘れたが、その会社は、主に、3つの部門に分かれている。

プレス課、メッキ課、それに設計などを専門とする課。
プレス課では、主に外国人労働者たちが働いている。
メッキ課では、主に知的障害のある人たちが働いている。
S男は、これら3つの課を順に回りながら、それぞれの仕事をしている。
「総合職」というのか、何というのかは、わからない。
が、彼なりに、そういう仕事に生きがいを見だしつつあるようだ。

仕事から帰ってくると、あれこれとそういう人たちの話を、おもしろ、
おかしく話してくれる。

で、その会社での仕事も、もう2年になる。

●シティ・マラソン

そんなS男が、シティ・マラソンに出ると言い出した。
この話には、驚いた。
「専務といっしょに走る」「10キロコースに出る」と。
「1時間以内に走れば、新聞に名前が載る」と。

さらに驚いたことに、そのマラソンのために、練習を始めたという。

回避性障害、対人恐怖症、人格障害……、病名など何でもよい。
うつ病だって、構わない。
この日本、この世界、まともな人間ほど、そういう病気になる。
人間が狂うのではない。
社会そのものが狂っている。

が、そういうS男が、マラソンに出る?
私はワイフに何度も、それを確かめた。
が、そのつどワイフは笑ってこう言った。
「本気みたいよ」と。

●当日

2月22日は、よく晴れた日だった。
朝起きると、青い空から白い日差しが、カーテンの向こうから部屋の中に
注ぎ込んでいた。

すでにS男は、会社へ出かけたあとだった。
一度会社で集合して、会場へ向かうということだった。
私たち夫婦は、車で一度町まで行き、そこから電車に乗ることにした。
数千人以上もの人たちが、走ることになる。
会場近くは混雑しているに、ちがいない。

私たちは競技場の出入り口で、スタートを待った。
どういうわけか、その間に、2度もトイレに。
講演会場のそでで、出番を待つときのような緊張感を覚えた。
が、じっとしていると寒かったこともあり、コースに沿って、私たちは歩き始めた。
会場の大群衆を見たとき、「これではS男を見分けられない」と思った。
それでそうした。

しばらく歩くと、遠くで、10キロコースのスタートが始まった音がした。
ドンドンと太鼓を叩く音がした。

私たちは沿道に立って、S男を待った。
先頭は、いかにも走り慣れたという人たちが、スタスタと走っていった。
それにつづく集団、また集団。
が、その中にS男がいた!

「S男!」と声をかけると、S男もそれに気がついて、笑った。
笑って手を振った。
S男が見せたことのない、さわやかな笑みだった。

が、あっという間だった。
で、私たちは、さらにコースに沿って歩いた。
「ぼくたちも運動だ」と言うと、ワイフもすなおにそれに応じてくれた。
このところ、毎日1万歩は歩くようにしている。

で、2キロまで歩いたところで、10キロコースの人たちが、折り返して
戻ってくるのがわかった。

私たちは、沿道に立って、S男が戻ってくるのを待った。
が、意外と、早いところを走っていた。

再び「S男!」と声をかけ、20~30メートル、私もいっしょに走った。
S男は、先ほどと同じように、一瞬手をあげ、それに答えたが、今度は
笑わなかった。
苦しかったのだろう。

●時の流れは、風のようなもの

バイパスも、大通りも、車は走っていなかった。
バスも止まっていた。
人の姿さえ、見えなかった。
私たちは、バスをつかまえることができるところまで、歩くことにした。
明るい日差しは、そのままだった。

遠くで、何度か太鼓を叩く音がした。
「1時間以内に入ったかしら?」と、ワイフは、何度も心配した。
私は時計を見ながら、「入っただろうね」と言った。

時の流れは風のようなもの。
どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。
「時間よ、止まれ!」と叫んでみても、その風は、止まることはない。
手でつかもうとしても、指の間から、すり抜けていく。

と、そのとき、あの歌が、私の口から出てきた。
長く忘れて、歌ったことのない、あの歌が。

「♪夕空晴れて、秋風吹き……。月影落ちて、鈴虫なく……」と。
人目もはばからず、私はその歌を大声で歌たった。
ワイフも、いっしょに、歌った。

(END)

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
挫折 絶望 希望 夢 S男 引きこもり 引き篭もり 引きこもり児)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●2月25日

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昨日、2つ、うれしいできごとがあった。

ひとつは、またまた中日ショッパーが、
無料で、教室の広告を載せてくれたこと。
月刊ショッパーというので、B5サイズの
大きな広告だった。

もう1つは、「これで6年生クラスもおしまいだな」と
思っていたら、中学まで残ってくれる生徒が何人か
いたこと。

月謝袋に書かれたメモを見たとき、思わず、目頭が
熱くなった。
「中学になっても、よろしく」と、それには書いて
あった。

こういう時勢である。
どこも大不況。
それにそれぞれの家庭には、それぞれの事情がある。
しかしいくらそういうことはやめてほしいと、手紙に
書いても、「今日でサヨナラ」と去っていく親は、
いくらでもいる。
(退会する)というのは、私の世界では、
(クビ切り)以外の何ものでもない。

そういうとき、そういうメモをもらうのは、
うれしい。
本当にうれしい。

「見てろ、東大だって、どこだって、入れてやるぞ」と
心に誓った。
実際、この10年ほど、うちの生徒たちは、ウソの
ように、本当にウソのように、全国の超一流大学へと
進学していく。

私の教え方のすばらしさは、その子どもが、30歳、
40歳になったときに、はじめてわかる。


【4】(子育て危険度)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(一部を紹介します。もっと読んでくださる方は……
http://hiroshihayashi9.ninja-web.net/page012.html#label1
へ、おいでください。)

費用もかえって安いのじゃないかしら?
七五三の祝いを式場で?(失敗危険度★★★)

●費用は一人二万円
 テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でも今では、子どもの七五三
の祝いを、ホテルかどこかの式場でする親がいるという。見ると、結婚式の花嫁衣裳のよ
うな豪華な着物を着た女の子(六歳ぐらい)が、中央にすわり、これまた結婚式場のよう
に、列席者がその前に並んでいた。費用は一人二万円くらいだそうだ。レポーターが、や
や皮肉をこめた言い方で、「(費用が)たいへんでしょう」と声をかけると、その母親はこ
う言った。「家でするより楽で、費用もかえって安いのじゃないかしら」と。

●ため息をついた私と女房
 私と女房は、それを見て、思わずため息をついた。私たちは、結婚式すらしてない。と
言うより、できなかった。貯金が一〇万円できたとき、(大卒の初任給がやっと七万円に
届くころだったが)、私が今の女房に、「結婚式をしたいか、それとも香港へ行きたいか」
と聞くと、女房は、「香港へ行きたい」と。それで私の仕事をかねて、私は女房を香港へ
連れていった。それでおしまい。実家からの援助で結婚式をする人も多いが、私のばあい、
それも望めなかった。反対に私は毎月の収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。

 そののち、何度か、ちょうど私が三〇歳になるとき、つぎに四〇歳になるとき、「披露
宴だけでも……」という話はあったが、そのつど私の父が死んだり、女房の父が死んだり
して、それも流れてしまった。さすが五〇歳になると、もう披露宴の話は消えた。

●「何か、おかしいわ」
 その七五三の祝いを見ながら、女房がこう言った。「何か、おかしいわ」と。つづけて
私も言った。「おかしい」と。すると女房がまたこう言った。「私なら、あんな祝い、招待
されても行かないわ」と。私もそれにうなずいた。いや、それは結婚式ができなかった私
たちのひがみのようなものだったかもしれない。しかしおかしいものは、おかしい。

 子どもを愛するということ。子どもを大切の思うということ。そのことと、こうした祝
いを盛大にするということは、別のことである。こうした祝いをしたからといって、子ど
もを愛したことにも、大切にしたことにはならない。しないからといって、子どもを粗末
にしたことにもならない。むしろこうした祝いは、子どもの心をスポイルする可能性すら
ある。「自分は大切な人間だ」と思うのは自尊心だが、「他人は自分より劣っている」と思
うのは、慢心である。その慢心がつのれば、子どもは自分の姿を見失う。こうした祝いは、
子どもに慢心を抱かせる危険性がある。

 さらに……。子どもが慢心をもったならもったで、その慢心を維持できればよいが、そ
うでなければ、結局はその子ども自身が、……? この先は、私の伯母のことを書く。

●中途半端な人生
 私の友人の母親は、滋賀の山村で生まれ育った女性だが、気位の高い人だった。自転車
屋の夫と結婚したものの、生涯ただの一度もドライバーさえ握ったことがない。店の窓ガ
ラスさえ拭いたことがないという。そういう女性がどうこうというのではない。その人は
その人だ。が、問題はなぜその女性がそうであったかということ。その理由の一つが、そ
の女性が育った家庭環境ではないか。その女性は数一〇〇年つづいた庄屋の長女だった。
農家の出身だが、子どものころ畑仕事はまったくしなかったという。そういう流れの中で、
その女性はそういう女性になった。

●虚栄の世界で
 たとえばその女性は、医師の妻やその町のお金持ちの妻としか交際しなかった。娘と息
子がいたが、医師の娘が日本舞踊を習い始めたりすると、すぐ自分の娘にも日本舞踊を習
わせた。金持ちの娘が琴を学び始めたりすると、すぐ自分の娘にも琴を習わせた。あとは
一事が万事。

が、結局はそういう見栄の中で、一番苦しんだのはその女性自身ではなかったのか。た
しかにその女性は、親にかわいがられて育ったのだろうが、それが長い目で見てよかっ
たのかどうかということになると、それは疑わしい。結局友人の母親は、自転車屋のお
かみさんにもなれず、さりとて上流階級の奥様にもなれず、何とも中途半端なまま、そ
の生涯を終えた。

●子どもはスポイルされるだけ?
 話を戻すが、子どものときから「蝶よ、花よ」と育てられれば、子ども自身がスポイル
される。ダメになる。それだけの財力と実力がいつまでもともなえば、それでよいが、そ
ういうことは期待するほうがおかしい。友人の母親のような末路をたどらないとは、だれ
にも言えない。

 で、その女性にはつづきがある。その女性は死ぬまで、家のしきたりにこだわった。五
月の節句になると、軒下に花飾りをつけた。そして近所に、甘酒を配ったりした。家計は
火の車だったが、それでもそういうしきたりはやめなかった。友人から、「ムダな出費が
かかってたいへん」という苦情が届いたこともある。

●子どもというのは皮肉なもの
 子どもというのは不思議なものだ。お金や手間をかければかけるほど、ダメになる。ド
ラ息子化する。親は「親に感謝しているはず」と考えるかもしれないが、実際には逆。

 一方、子どもは使えば使うほど、すばらしい子どもになる。苦労がわかる子どもになる
から、やさしくもなる。学習面でも伸びる。もともと勉強には、ある種の苦痛がともなう。
その苦痛を乗りこえる忍耐力も、そこから生まれる。「子どもを育てる」という面では、
そのほうが望ましいことは言うまでもない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?
子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚
 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感
覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分
の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論
 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇
円のものなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円
と。つまりこの時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買った
ときの満足感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一
〇〇〇円のものでは満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生
や大学生になれば、一〇万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は
別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる
子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは
高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまった
くの誤解。あるいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあ
くまでも一時的。子どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、
やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になる
ゲームソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでい
るというのだ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、
その女性はこう答えた。「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖
母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っ
ていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。

●この話はどこかおかしい
 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人
の祖母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム
屋の前に並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空の
もと、毛布持参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるか
どうか疑わしい。感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などとい
うものは、同じような苦労した人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「た
だのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け
 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのが
ある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行け
という意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動
車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思
い出が親子のきずなを太くする。

●モノに固執する国民性
日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、
そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリ
アへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それに
は、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意
識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそ
のまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫
にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りか
ってみてほしい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

一方的にものを言わないでほしい!
視野のせまい親たち(失敗危険度★★)

●摩擦はつきもの
こういう仕事、つまり評論活動をしていると、いつもどこかで摩擦を生ずる。それは評
論の宿命のようなものだ。たとえば以前、「離婚家庭で育った子どもは、離婚率が高い」
ということを、新聞のコラムに書いたことがある。あくまでもそれはコラムの一部であ
り、そのコラム自体が離婚問題を考えたものではない。が、その直後から、一〇人近い
人からはげしい抗議が届いた。私は何も離婚を批判したのでも、また離婚が悪いと書い
たのでもない。ただの統計上の事実を書いた。それに離婚が離婚として問題になるのは、
離婚にまつわる家庭騒動であって、離婚そのものではない。この騒動が子どもの心に影
響を与える。

が、そういう人たちにはそれがわからない。「離婚家庭でもがんばっている子どもがいる」
「離婚者に対する偏見だ」「離婚家庭で育った子どもは幸福になれないということか」な
ど。こうしたコラムを不愉快に思う気持ちはわからないでもないが、どこかピントがズ
レている。ほかにも似たような事件があった。

●「一方的にものを言わないでほしい」
同じく本の中で、「公務員はヒマをもてあましている」というようなことを書いた。これ
はお役所の外では、常識と言ってもよい。その常識的な意見を書いた。が、それについ
ても、「私の夫は毎朝六時に起きて……」と、長々と、数ページにもわかって、その夫の
生活をことこまかに書いてきた人がいた。そして最後に、「私の夫のようにがんばってい
る公務員も多いから、一方的にものを言わないでほしい」と。さらにこんなことも。

●いじめられる側にも問題
 二〇年ほど前から、いじめが大きく話題になり始めた。その前は校則が話題になったが、
ともかくもそのいじめが話題になった。私も地元のNHKテレビに二度ほどかりだされて
意見を述べることになったが、そのときのこと。そのいじめを調べていくうちに、当時、
いくつかの「おやっ」と思うような事実に出くわした。もちろんいじめは悪い。許されな
いことだが、しかしいじめられる側にも、まったく問題がないというわけではない。もっ
ともその問題というのは、子ども自身の問題というよりは、育て方の問題といってもよい。

いじめられっ子のひとつの特徴は、社会性のなさ。乳幼児のときから親子だけのマンツ
ーマンだけの環境で育てられていて、問題を解決するための技法を身につけていないと
いうことがある。いじめられても、いじめられっぱなし。やり返すことができない。た
とえばブランコを横取りされても、それに抗議することができない、など。そこで私は
「家庭環境にも問題があるのでは」と言った。が、これがよくなかった。その直後から
猛烈な抗議の嵐。ものすごいものだった。(テレビの反響は、新聞や雑誌の比ではない!)
「あなたは評論家として、即刻筆を折れ!」というのまであった。

●個人攻撃をしているのではない!
 こうした抗議は、評論活動にはつきもの。いちいちそれで滅入っていては、評論などで
きない。しかしどうしてこうも、こういう人たちは近視眼的なのだろうかと思う。私は全
体として、ものの本質を問題にしているのであって、決して個人攻撃をしているわけでは
ない。いじめにしても、私はいまだけって一度もそれを是認したことはない。が、こうい
う人たちは、文の一部に集中的にスポットをあて、あたかも自分が攻撃されたかのように
思うらしい。学校の先生とて、例外ではない。親たちの執拗な抗議を受けて、精神を病ん
だり、転校をさせられた先生は少なくない。こんなことも……。

●学校の先生もたいへん!
 まだバブル経済、はなやかりしころのこと。ある学校のある先生が、たまたま仕事を手
伝いにきていた一人の母親に、ふとこう口をすべらせてしまった。「塾へ、四つも五つも行
かせているバカな親がいる」と。その先生は「バカ」という言葉を使ってしまった。これ
がまずかった。当時(今でもそうだが)、子どもを塾へ四つや五つ行かせている親は珍しく
なかった。水泳教室、音楽教室、算数教室、英語教室と。しかしその話は一夜のうちに、
父母全員にいきわたってしまった。そして「Aさんがバカと言われた」「いや、これはBさ
んのことだ」となってしまった。結局この問題は教育委員会レベルの問題にまで発展し、
その先生は任期半ばで、その学校を去ることになってしまった。

 視野が狭くなればなるほど、結局は自分の姿が見えなくなる。そして自分の姿を見失え
ば見失うほど、その人は愚かになる。これも子育てでハマりやすいワナの一つということ
になる。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/