*Hypocrisy
●新年度(2009年度)
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毎年、1月1日を、新年度としている
人は多い。
しかし私にとっては、4月1日が、
新年度。
毎年、4月1日を迎えると、緊張感が
ググーッとわいてくる。
今が、そうだ。
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●2009年度
前にも書いたが、私は55歳を過ぎるころから、60歳に向けて、
仕事を縮小することばかりを考えていた。
楽隠居とまではいかなくても、60歳を過ぎたら、仕事もほどほどに、
と考えていた。
が、その考え方は、まちがっていた。
その第一。
満60歳の誕生日を迎えた、その翌日のこと。
その日が、それまでの日々と、どこもちがわないことに驚いた。
(ちがうわけはないのだが……。)
満60歳の誕生日に向けて、自分の体が、どんどんと締めつけられて
いくように感じた。
「還暦だ」「退職だ」と。
いくら「私はちがう!」と叫んでも、そういう声は、弱い。
「あと1か月……」「あと10日……」「あと1日……」と。
で、その翌日、何も変わらなかった。
まったくいつもと同じように、その日が始まった。
だからうれしかった。
その第二。
今度は、満61歳の誕生日を迎えたときのこと。
ワイフと長男が、誕生日を祝ってくれた。
ささやかな3人だけのパーティだった。
そのとき、私は、はっきりと実感した。
「1年、得した!」と。
満60歳で私の人生が終わったとする。
(何も終わったわけではないが……。)
その満60歳から、それまでと同じように仕事ができた。
1年間、何も変わらず、仕事ができた。
だから「得した!」と。
友人のS君は、ちょうど満50歳のときにがんを患い、
それ以後、ずっと、闘病生活をつづけている。
そのS君も、同じようなことを言った。
「林君、人生は50年だよ。だからそれからの1年、1年は、
もうけものなんだよ」と。
そのときは、「そんなものかなあ」と思っていたが、満61歳の
誕生日のとき、S君の言った意味が、しみじみと理解できた。
これからは、1年、1年が、もうけもの、と。
●さて新年度!
もうけものの1年。
その1年を、どう使うか。
あとは、使い方の問題ということになる。
ぼんやりと過ごすのも、1年。
あと1年しかないと思って生きるのも、1年。
しかし1年たってみたとき、「得した!」と言えるようにするためには、
やはり緊張感をもって生きたほうがよい。
明日も、今日と同じ。
来週も、今週と同じ。
来月も、今月と同じ……。
そんな1年に、どんな意味があるというのか。
そんな1年を過ごして、そのあと、「得した!」と言えるのか。
……ということで、2009年度を迎えた。
今年度も、同じように、迎えることができた。
その2009年度にあたって、今、私は誓う。
2008年度よりも、暴れてやる!、と。
2009年、新しくBW教室へ入ってくるみなさんへ、
どうか期待していてください。
今までの経験すべてを、惜しみなく、みなさんのお子さんに注ぎます。
みなさんのお子さんを、すばらしい子どもに、します。
まあ、見ててください、はやし浩司の実力。
40年、ダラダラと生きてはこなかった。
お任せください。
約束します。
Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司
●実家への仕送り
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現在、東南アジアや南米からの労働者たちは、
収入の多くを、故郷の実家へ仕送りしているという。
学生時代からの友人であるM君が、そう言った。
しかし本当に、そうだろうか?
そういう話を聞くと、「すごいことだ」と、
みな思う。
しかし本当にそう思ってよいのだろうか。
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10年前、20年前なら、そうだったかもしれない。
しかし今は、時代が変わった。
世界も変わった。
そういうこともあって、私は「?」と思っている。
いったい、何パーセントの人が、平均、いくら
仕送りしているというのか?
それに南米からの労働者といっても、ほとんどが、家族連れ。
私が知る限り、単身で出稼ぎに来ている人は、ゼロ。
あの人たちの家族観には独特のものがあり、離れて暮らす
ということは、ありえない。
「家族あっての仕事」と考えている。
が、中には、故郷の両親に……という人もいるかも
しれない。
とくに中国系の労働者たちは、そうかもしれない。
結婚前の独身の労働者たちも、そうだ。
しかし、そういう人たちも、今では、意外と少ないのではないか?
故郷の実家に送金するというよりは、故郷の自分の銀行に
送金している?
私には、そう見える。
で、同時に、こう思う。
「そういう話を美化してはいけない」と。
仕送りをしたことがある人ならともかくも、
一度も仕送りをしたことがない人は、
こういう話を美化してはいけない。
実家への仕送りなど、美談でも何でもない。
若いときから、収入の約半分を、実家に
仕送りをつづけてきた私が、そう言うのだから、
まちがいない。
だれが送りたくて、送るかア!
金銭的負担というより、その社会的負担感には
相当なものがある。
重圧感と言ってもよい。
あなたが親なら、子どもに仕送りなど、させてはいけない。
あなたが子どもなら、親に仕送りなど、してはいけない。
そんなことをしても、無駄。
最初は感謝し、感謝されるが、それも時間の問題。
1年、 2年とたつと、それが当たり前になる。
5年、10年とたつと、逆に、親のほうが子に、
請求するようになる。
子は親に、請求されるようになる。
こうした依存、被依存関係ができたら最後、
(仕送り)は、仕送りでなくなってしまう。
義務になってしまう。
私のばあいも、最初のころはともかくも、
やがてそれが当たり前になり、実家の母たちも、
私からの仕送りを前提にして、生活を考えるようになった。
しかも母には母のプライドがあったのだろう。
私が送ったお金で生活しながら、親類や近所の
人たちには、「先祖からの財産で生活している」と
言っていた。
が、それだけではない。
実家からさらに、母の実家へと、お金が流れるようになった。
母の実家を継いだ、母の弟氏(=伯父)には、定職がなかった。
こんなことを書くと、伯父は怒るかもしれないが、事実は事実。
母の直筆のメモも残っている。
また、それで親の子の絆が太くなるということは、まずない。
世の中には、親をだます子どもは多いが、子をだます親もいる。
マネーがからんでいるから、親子でも、人間関係は
ドロドロとしたものになる。
親は親で生きる。
子どもは子どもで生きる。
子どもを出稼ぎの道具として使うくらいなら、もとから子どもなど
生まないこと。
子どもに生活費を仕送りさせながら、「私はいい息子をもって、
幸せ」は、ない!
よい人間関係があれば、まだ救われる。
しかし親子関係だって、壊れるときには壊れる。
壊れても、そこで仕送りを止めるわけにはいかない。
あとに残るのは、その重圧感だけ。
その重圧感と、闘わねばならない。
一方、欧米では、親子でも、経済は他人と考える。
夫婦でも、他人と考える。
それがよいことなのか、悪いことなのか、わからない。
議論もあると思うが、こと「実家への仕送り」という話については、
私は聞いたことがない。
中にはあるかもしれないが、私は聞いたことがない。
Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司
●老後の統合性
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老後の統合性については、何度も
書いてきた。
(すべきこと)と、(していること)を
一致させる。
それを「統合性」という。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)。
それをする。
が、「退職しました。これからゴビの砂漠へ
行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、
身につかない。
長つづきしない。
生きがいも生まれない。
その統合性の準備は、満40歳くらいから
始めるとよいという。
「40歳は、人生の正午」と言われている。
が、それでも遅いかもしれない。
統合性の下地を作るだけでも、10年とか
20年とか、かかる。
そうした地道な下地があってはじめて、統合性の
確立ができる。
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●愛他的自己愛者(偽善者)
それにしても愛他的自己愛者が多いのには驚かされる。
つまり偽善者。
自分をよく見せるために、ボランティア活動や、慈善事業をしたりする。
派手なパフォーマンスを繰り返す。
が、見抜くのは、簡単。
どこかへん?
どこか矛盾している?
そう感じたら、愛他的自己愛者と考えてよい。
たとえばもう25年近くも前になるだろうか。
田丸謙二先生の家に遊びに行ったら、1人の女性がたまたま、遊びに来ていた。
当時、50歳くらいではなかったか。
話を聞くと、東南アジアの難民キャンプで、難民たちの世話をしているという。
その女性といっしょに、私のワイフも含めて、みなで夕食を食べた。
そういう(本物の女性)に一度でも会うと、「私はアフリカで……」というような
人が、いかにインチキかわかる。
本物の絵を見たあと、夜店で売っているような絵を見るようなもの。
その女性のばあいも、日本にいたのは数日だけ。
たしかそのつぎの日には、カンボジアだったか、タイへ戻るということだった。
つまりそういう人には、一貫性がある。
すご味がある。
その人の人生を貫く、太い柱のようなものを感ずる。
言い忘れたが、その女性は、左手に大きな包帯を巻いていた。
何かの活動をしているときに、怪我したということだった。
(今、思い出したが、怪我したから、一時帰国したということだった。
ワイフにこの話をしたら、ワイフが、「お医者さんだったわね」と言った。
そう、医師だった。)
が、世の中には、一方でテレビのタレントをしながら、こうしたボランティア活動(?)
を売り物にしている人たちがいる。
そこに至るプロセスがあれば、まだ理解できる。
若いころからホームレスの世話をしてきたとか、孤児のめんどうをみてきたとか、など。
が、そうした人たちは、ある日突然、降ってわいたような話に乗って、難民救済運動
を始めたりする。
団体は団体で、そういう人たちを利用して、募金を集める。
しかし難民救済という活動がいかにたいへんなものであるかは、恐らく、それを実際に
したことがある人でないとわからないだろう。
私にもわからない。
しかし難民キャンプにいる人たちは、私たちが想像を絶するような生活をしている。
多くはやせこけ、重い皮膚病にかかり、体の一部はすでに腐り始めている……。
そういう人たちを素手で抱きあげ、体を湯で洗ってやる……。
きれいごとだけで、できるような活動ではない。
それが救済活動である。
さらに言えば、一方で数十万円もするような衣装で身を包みながら、
他方で、難民救済活動をしているだと?
テレビに出るたびに、2時間近くもかけて化粧をしながら、他方で、
難民救済活動をしているだと?
中には、写真撮影のためだけに、難民キャンプで子どもを抱いた人もいた。
その人は、写真撮影が終わるとすぐ、手や体を消毒していたという。
ある週刊誌にそれがすっぱ抜かれ、問題になったことがある。
もしふつうの人が、まともな神経で、そんなことを繰り返していたら、
それだけで精神がバラバラになってしまうはず。
つまり偽善をつづけるにも、それなりの体力と気力がいる。
好きでもない相手と、ともに生活するようなもの。
ストレスがたまって、気がへんになる。
で、身近でもこんなことがあった。
その女性は、ボランティア活動として、近所の独居老人の世話をしている
ということだった。
しかしその一方で、ある日、私の知人の家に怒鳴り込んできたという。
何でも知人の家にある高い木から落ちる枯れ葉で、樋(とい)が詰まって
しまうというのだ。
その知人は、こう言った。
「独居老人の世話をするという高邁な精神の持ち主が、他方で、枯れ葉程度の
ことで、大騒ぎする。
矛盾しているとは、思いませんか」と。
そう、矛盾している。
たしかに矛盾している。
そういう矛盾を感じたら、ここでいう愛他的自己愛者と考えてよい。
つまり自分を飾るために、また人からよい人と思われたいがために、
ボランティア活動をしているだけ。
ボランティア活動を利用しているだけ。
で、この話には、まだつづきがある。
この女性が、やがて実父の介護をするようになった。
が、表ではすばらしい娘を演じながら、その裏で、実父を虐待していた。
毎度、食事は、ご飯と味噌汁だけ。
昼間は、部屋に鍵をかけて閉じ込めていた。
が、親類の人が見舞いに来たりすると、みなの前で実父の背中をさすって
みせていた。
すばらしい娘を演じてみせていた。
代理ミュンヒハウゼン症候群というと、母親と子の関係を想像するかもしれないが、
何も、母親と子の関係だけではない。
場所も、病院内だけとは、かぎらない。
陰で親を虐待しながら、すばらしい娘を演じている女性となると、
それこそゴマンといる。
だからその知人は、こう言った。
「ああいうのを化けの皮をかぶった、タヌキというのです」と。
話を戻す。
愛他的自己愛者は、悪人より、タチが悪い。
悪人は、人をだまして、お金を奪う。
愛他的自己愛者は、善人ぶって、人の心を奪う。
弱い人を利用しながら、それを自分の名声や利益につなげていく。
何もアフリカまで行かなくても、本当にボランティア活動なるものがしたかったら、
まず身近なところから、始めてみたらよい。
街中で寝泊りするホームレスの人たちの世話でもよい。
孤児の世話を、親代わりになってしてみるのもよい。
そういう積み重ねをしたあと、アフリカへ行けばよい。
それができないというのなら、つまり、見せかけだけのボランティア活動なら、
すぐやめたらよい。
(補記)
世の中には、「やらないよりは、やったほうがいい」という意見もある。
「偽善であろうがなかろうが、やらないよりは、やったほうがいい」という意見もある。
が、偽善は偽善。
偽善が本物に変わることは、まず、ない。
偽善が本物になるためには、まずドス黒い心を、一度、真っ白にしなければならない。
だったら最初から真っ白な人のほうが、まだよい。
何もしないで、遠くからながめている人のほうが、まだよい。
できなければできないと、正直に言っている人のほうが、まだよい。
そういう人たちのほうが、より(善)に近いことになる。
この世で最大の罪は、弱者を利用して、それを食い物にすること。
偽善者が、そうだ。
そういう人たちがいるから、戦争が始まり、犠牲者が生まれる。
難民が生まれる。
言うなれば、偽善者たちが、その一方で、別の新たな犠牲者を生み出しているようなもの。
私たちは、見かけの(善)に、だまされてはいけない。
先に書いた、写真撮影のあと、手や体を消毒した人にしても、いまだに
看板だけは背負っているらしい。
が、そのあと、何らかの活動をしているという話は聞いたことがない。
「私財を投げ打って……」という話も、聞いたことがない。
私たちは、だまされただけなのか?
また、それで終わってよいのか?
Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司
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