Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, March 09, 2009

*Nature Love of Mothers

●T女史のこと

 T女史という、あまり有名ではないが、1人の女性コラムニストが、10数年前に、なくなった。静かな死に方だった。

 その前の年の秋に、T女史の家に遊びに行くと、T女史は、玄関から長い通路を経て、一番奥の部屋に案内してくれた。廊下の途中の部屋には、痴呆症の母親がいたということだったが、私は、会わなかった。

 T女史は、私の本を出版したいと言ってくれた。私は、すなおに「お願いします」とだけ言った。T女史とのつきあいは、そのとき、すでに15年近くになろうとしていた。

 が、これはあとでわかったことだが、そのとき、すでにT女史は、大腸がんをわずらっていた。一度手術をして、よくなった状態だったという。もちろん私は、知らなかった。

 が、それから1か月ほどあとのこと。T女史から電話がかかってきた。元気な声だったが、こう言った。

 「林さん、林さんから頼まれていた原稿の件だけど、出版の手伝いはできなくなりました。ごめんね」と。

 私は、それに従った。この世界ではよくあることである。本の世界では、売れる、売れないという視点で、出版するかどうかを、決める。内容は、つぎのつぎ。私は勝手に、「T女史が、売れない本と判断したためだろう」と、自分をなぐさめた。

 が、それからわずか、3か月後、訃報が届いた。T女史の体中に、がんは、転移していた。私は、それを聞いて、神奈川県のF市に向かった。

 「元気だったのに……」と思ったが、電話で知らせてくれた、T女史の元同僚のN氏は、こう言った。

 「林さんに最後の電話をしたのは、病院の中からだったはずですよ。すでにそのとき、末期でね。会話をすることも、できなかったはずですよ」と。

 それに答えて、「いえ、元気そうな声でした」と言うと、N氏は、さかんに「そうでしたかア」「そんなはずはないのですがねエ」と、元気のない返事を繰りかえした。

 で、T女史の葬儀は、簡単なものだった。痴呆症の母親は、葬儀には来ていなかった。別の県に住む、T女史の弟氏が、喪主を努めていた。私は、長い間の礼を、何度も弟氏に告げた。そして頼まれるまま、火葬場まで、同行した。

 場所は忘れたが、火葬場の上を、アメリカ軍の飛行機が、ものすごい爆音を落としながら、何度も行き来していた。今から思うと横田基地の近くでではなかったか。あるいは立川基地だったかもしれない。

 私は、そのあまりにも静かな葬儀に、驚いた。T女史は、マスコミの世界では、それなりに活躍した人物である。本も、エッセー集だが、十冊近くも書いていた。晩年は、いくつかの出版社と契約して、人生相談にも応じていた。私が、はじめてT女史の家に遊びに行ったときも、その間に、2、3度、その電話がかかってきた。T女史は、都会の女性、独得の言い方で、「そうしたら、いいでしょう」「そうしなさいよ」と言っていた。

 そのT女史のことを今、ふと思い出しながら、こう考える。

 T女史にとって、ものを書くという仕事は、何だったのか、と。T女史も、ヒマさえあれば、いつも文を書いていた。「書くことは、本当に楽しいわ」と言っていた。しかし今、インターネットで検索しても、T女史の名前は、どこにも出てこない。生涯、独身で通した人で、著者名も、本名を使っていた。だから、どこかに痕跡があるはずだと思ってさがしたが、やはりなかった。

 そのあと、痴呆症の母親は、どうなったのだろう。弟氏と会ったのは、それが最初で最後だった。その後、連絡はない。「T」という名字は、たいへん珍しい名字で、少し変わった字を使っていた。だから、下の名前がわかれば、弟氏をさがしだすことができるかもしれない。

 しかしさがしだしたところで、どうしようもない。

 で、今でも気になるのは、最後の電話が、病院の中からだったということ。しかもN氏の話によれば、そのころは、口もきけないほど、末期だったということ。私には、きっと最後の声をふりしぼって、電話をしてきたにちがいない。もともと気丈夫な人だったが、最後の最後まで、弱音を吐くこともなかった。

 そう言えば、T女史がなくなったのは、正月も終わり、ほっと一息ついた、3月のはじめころではなかったか。ちょうど、季節でいえば、今ごろのことだった。
(05年3月11日記)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●人生の損得

 若いころ、親の莫大な財産を引き継いだ人の話を聞くたびに、私は、こう思った。「うらやましいな」と。

 ほかにも、宝くじを当てたとか、土地を転がしてもうけたとか、さらには、ビジネスで成功したとか、など。そのつど、「うらやましいな」と思った。

 しかし私は、自分の人生を振りかえってみたとき、そういう(ラッキーなこと)は、何もなかったような気がする。遺産など、もらうどころか、23、4歳のときから、収入の半分を、実家へ送っていた。

 ワイフの父親が死んだときは、通帳に残っていた現金を、みなで分けた。それも10万円だけだった。

 だから私は、よくワイフにこう言う。「ぼくらは、だまされたことはあるけど、何もいいことはなかったね」と。

 信頼していた親戚の男に、お金をだまし取られたこともある。世の中、そういうもの。

 が、ワイフは、こう言った。

 「私たちの財産は、健康よ。それに仕事もそうよ」と。

 これといった病気をしなかっただけでも、ラッキーだというわけである。それに57歳になった現在でも、今までどおりの仕事ができるということだけでも、すばらしい。

 そう考えると、「何もいいことはなかった」ではなく、私たちは、すばらしい財産をもっていることになる。もっとも仕事のほうは、年々、しりすぼみになってきた。もう、若いころのような元気はない。ない分だけ、先細り。

 それはしかたのないことのように思う。あとは、何かのために、毎日、心の準備を整えつつある。何かわからない。しかし「何か」だ。

 ワイフは、こう言う。

 それらをまとめてみると、こうなる。

息子たちが、外の世界で、安心して羽をのばせるよう、あと押しする。
いつ息子たちが戻ってきてもよいように、暖かい家庭を用意しておく。
息子たちに、いらぬ心配をかけないように、こころがける。
息子たちが、何かを相談してきたら、人生のアドバイスをしてあげる。

 「自分のことはいいのか?」と聞くと、「私のことはいい」と。ワイフは、昔から、そういう女性である。慈悲深いというか、「相手にいいようにしてあげるのが、慈悲よ」を、口ぎせにしている。

私「赤いミニスカートをはいて、ぼくを挑発していたころのお前とくらべると、お前も、人間的に深みができたね」
ワイフ「あなたに苦労をさせられたからよ」
私「そうだろうね。ふつうの女性なら、ぼくのそばに、3日もいないよ」
ワイフ「そうかもね」と。

 つづいて、夫婦げんかの話になった。

私「ぼくらは、夫婦げんかばかりしていたよ」
ワイフ「でもね、今にしてみれば、おたがいに言いたいことを言いあったというのが、よかったかもしれないわよ。今、離婚問題をかかえている人は、ほとんどけんかもしないってことよ……」
私「おたがいに口をきかなくなったら、夫婦もおしまいだね」
ワイフ「けんかをしないというのは、危険信号みたいね」と。

 けんかをするのがよいわけではないが、けんかをするのも疲れたというくらい、けんかをしておけばいいのかもしれない。それも若いうちに……。

 とくに、この私は、若いころは、だれにも、心を開くことができなかった。上辺では愛想よくつきあったりしたが、それは仮面。「どうすれば、私はいい人間に見られるだろうか」「どうすれば、私は得をするだろうか」と、そんなことばかりを考えていたように思う。

 ワイフに対しても、そうだった。心のどこかで、いつも、「この女性も、いつか、ぼくから去っていくだろうな」と、そんなふうに考えていた。心を開かないから、そこにあるのは、不信感だけ。そんな私に、ワイフのほうだって、心を開けるわけがない。

 さみしい思いをしたのは、私だけではなかった。いつしか、ワイフはワイフで、「いったん、ことあれば、離婚」と構えるようになった。今から思えば、それは当然のことだった。

 原因は、私が生まれ育った貧弱な家庭環境にあった。そしてさらにその背景には、戦前から戦後への価値観の変動期、戦後の混乱期があった。私の母などは、子どものころは、「お姫様」と呼ばれていたという。

 そのせいか、自転車屋の夫(私の父親)と結婚してからも、60年以上の長きに渡って、一度とて、ドライバーを握ったことがない。土間の掃除すら、したことがない。店先のガラス戸をふいたことすら、ない。油で汚れる仕事は、大嫌いだったようだ。そういった仕事は、すべて、兄や父、姉や私の仕事だった。

 一方、父は、酒を飲んでは、暴れた。私にとっては、つらい毎日だった。今になって、当時の私を知る、親戚の人たちは、「浩司は、明るくて朗らかだった」とよく言う。

 しかし本当の私は、そうではなかった。ちょうど捨て犬が、だれにでもシッポを振るように、私は、みなに、シッポを振っていただけである。

 そんな悲しい思い出を書いたのが、つぎの原稿。今でも、この原稿を読むと、涙で目がうるむ。

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●父のうしろ姿

 私の実家は、昔からの自転車屋とはいえ、私が中学生になるころには、斜陽の一途。私の父は、ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと人が変わった。二、三日おきに近所の酒屋で酒を飲み、そして暴れた。大声をあげて、ものを投げつけた。

そんなわけで私には、つらい毎日だった。プライドはズタズタにされた。友人と一緒に学校から帰ってくるときも、家が近づくと、あれこれと口実を作っては、その友人と別れた。父はよく酒を飲んでフラフラと通りを歩いていた。それを友人に見せることは、私にはできなかった。

 その私も五二歳。一人、二人と息子を送り出し、今は三男が、高校三年生になった。

のんきな子どもだ。受験も押し迫っているというのに、友だちを二〇人も呼んで、パーティを開くという。「がんばろう会だ」という。土曜日の午後で、私と女房は、三男のために台所を片づけた。片づけながら、ふと三男にこう聞いた。

「お前は、このうちに友だちを呼んでも、恥ずかしくないか」と。

すると三男は、「どうして?」と聞いた。

理由など言っても、三男には理解できないだろう。私には私なりのわだかまりがある。私は高校生のとき、そういうことをしたくても、できなかった。友だちの家に行っても、いつも肩身の狭い思いをしていた。「今度、はやしの家で集まろう」と言われたら、私は何と答えればよいのだ。父が壊した障子のさんや、ふすまの戸を、どうやって隠せばよいのだ。

 私は父をうらんだ。父は私が三〇歳になる少し前に死んだが、涙は出なかった。母ですら、どこか生き生きとして見えた。ただ姉だけは、さめざめと泣いていた。私にはそれが奇異な感じがした。が、その思いは、私の年齢とともに変わってきた。

四〇歳を過ぎるころになると、その当時の父の悲しみや苦しみが、理解できるようになった。商売べたの父。いや、父だって必死だった。近くに大型スーパーができたときも、父は「Jストアよりも安いものもあります」と、どこかしら的はずれな広告を、店先のガラス戸に張りつけていた。

「よそで買った自転車でも、パンクの修理をさせていただきます」という広告を張りつけたこともある。

しかもそのJストアに自転車を並べていたのが、父の元親友、つまり近所の男だった。その男は父とは違って、商売がうまかった。父は口にこそ出さなかったが、よほどくやしかったのだろう。戦争の後遺症もあった。父はますます酒に溺れていった。

 同じ親でありながら、父親は孤独な存在だ。前を向いて走ることだけを求められる。だからうしろが見えない。見えないから、子どもたちの心がわからない。ある日気がついてみたら、うしろには誰もいない。そんなことも多い。

ただ私のばあい、孤独の耐え方を知っている。父がそれを教えてくれた。客がいない日は、いつも父は丸い火鉢に身をかがめて、暖をとっていた。あるいは油で汚れた作業台に向かって、黙々と何かを書いていた。そのときの父の気持ちを思いやると、今、私が感じている孤独など、何でもない。

 私と女房は、その夜は家を離れることにした。私たちがいないほうが、三男も気が楽だろう。いそいそと身じたくを整えていると、三男がうしろから、ふとこう言った。

「パパ、ありがとう」と。そのとき私はどこかで、死んだ父が、ニコッと笑ったような気がした。

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●母性愛と、父性愛

 最近の研究によれば、母性愛にも、父性愛にも、ほとんど差がないことがわかってきた。そしてそれが定説になってきている。

 以前は、母親には、父親にはない、母性愛があると考えられてきた。しかし実際には、母性愛にせよ、父性愛にせよ、その人自身が、乳幼児期に受けた子育てによって、その人自身が学習して身につけるものである。

 母性愛にせよ、父性愛にせよ、本能ではなく、学習によって身につくというわけである。とくに最近は、ラ・マーズ法などの普及によって、夫(父親)の立会い分娩が一般化し、父親も、母親と同じ母性愛をもつようになってきている。

 さらにこうした育児概念が浸透してくれば、母性愛と父性愛を分けて考えること自体、無意味になってくるものと考えられる。

 男児も、人形遊びをしても、おかしくないし、またそれがゆがんだ「男像」をつくるということもない。ちなみに私の調査でも、男女の区別なく、約80%の子ども(年長児、年中児)が、日常的に人形を手元においていることがわかっている。

 「親像」を形成を考えるときは、男女を区別してはならないし、またその必要はない。

 なお、ここに書いた、「子育ては本能ではない。学習によるもの」という意見は、子育ての根幹にかかわる重要な問題である。すでにたびたび書いてきたので、以前、書いた原稿を、3作、そのまま添付する。一部内容的に重複するが、許してほしい。
(はやし浩司 親像)

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●ぬいぐるみで育つ母性

 子どもに父性や母性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわかる。しかもそれが、3~5歳のときにわかる。

父性や母性が育っている子どもは、ぬいぐるみを見せると、うれしそうな顔をする。さもいとおしいといった表情で、ぬいぐるみを見る。抱き方もうまい。そうでない子どもは、無関心、無感動。抱き方もぎこちない。

中にはぬいぐるみを見せたとたん、足でキックしてくる子どももいる。ちなみに小三児の約80%の子どもが、ぬいぐるみを持っている。そのうちの約半数が「大好き」と答えている。

 オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオーストラリアに限らず、欧米では、子どもの誕生日にペットを与えることが多い。

つまり子どものときから、動物との関(かか)わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物を通して、心のやりとりを学ぶ。しかしそれだけではない。子どもはペットを育てることによって、父性や母性を学ぶ。そんなわけで、機会と余裕があれば、子どもにはペットを飼わせることを勧める。

犬やネコが代表的なものだが、心が通いあうペットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐるみを与える。やわらかい素材でできた、ぬくもりのあるものがよい。日本では、「男の子はぬいぐるみでは遊ばないもの」と考えている人がいる。しかしこれは偏見。

こと幼児についていうなら、男女の差別はない。あってはならない。つまり男の子がぬいぐるみで遊ぶからといって、それを「おかしい」と思うほうが、おかしい。男児も幼児のときから、たとえばペットや人形を通して、父性を育てたらよい。ただしここでいう人形というのは、その目的にかなった人形をいう。ウルトラマンとかガンダムとかいうのはここでいう人形ではない。

 なお日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、これも偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。そのあらわれが、五月人形。弓矢をもった武士が、力強い男の象徴になっている。

三百年後の子どもたちが、銃をもった軍人や兵隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日本人はこの出世主義に、こりかたまっている。「男は仕事(出世)、女は家庭」という、あの日本独特の男女差別意識も、この出世主義から生まれた。

 話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、どこかほっとするようなぬくもりを感ずる。静かな落ち着きがある。おだやかで、ものの考え方が常識的。それもぬいぐるみを抱かせてみればわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、スーッと頬(ほお)を寄せてくる。こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。言い換えると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。

 ついでに一言。子育ては本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思っているなら、ぬいぐるみを身近に置いてあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子どもは親になるための練習をする。父性や母性も、そこから引き出される。

【追記】

 最近では、母性と父性を分けて考えるのではなく、まとめて「養護性」という言葉を使う人がふえてきた。母性も、父性も、同種のものであり、分けて考える必要はないというのが、その基本にある。
(はやし浩司 養護性 子育て 育児 ぬいぐるみ 母性 父性)