*What is the Pre-school ducation?
●前意識(好子vs嫌子)
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先週、近くのパソコンショップで、
アウトレットのデジタルカメラを買った。
1万8000円だった。
P社のFX-500。
現在FX-550というのが売りに出されて
いるので、そのひとつ前の機種ということに
なる。
が、このカメラの頭のよさには、驚いた。
ミニター画面がそのままタッチパネルに
なっていて、ピントや露出を合わせたい
点を指先でタッチすると、タッチした
ところに自動的に、ピントや露出を
合わせてくれる。
それだけではない。
カメラを動かしても、自動的に追尾する!
ほかにもいろいろあるが、デジタルカメラも、
ここまで進化した!
驚いた!
ますますP社のカメラが好きになった。
ところで今、C社のカメラを修理に出している。
そのことで昨日、電話があった。
実にインギン無礼な言い方で、結局、「修理できません」
とのこと。
理由は、「水滴が入ったことが原因です」と。
つまり使用者である私に過失があった、と。
何度も「水をかけた覚えはない」と主張したが、
だめだった。
こういうのを「水かけ論」という。
前回のときも、ああでもない、こうでもない
と理由をつけて、修理してもらえなかった。
よい機会だから、そのカメラを最後に、
C社との縁を切ることにした。
(C社といっても、日本には2社ある。
カタカナで書くと、3文字の会社である。)
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●前意識
意識と無意識。
実際には、その中間に、「前意識」というのがある。
前意識というのは、意識としては自覚しなくても、いつでもスタンバイになっている
意識をいう。
たとえば古いデジタルカメラを手にしたとき、その使い方を思い出すなど。
図示すると、こうなる。
(意識)
↓
(前意識)
↓
(無意識)
で、人はいやなことや、不愉快なことがあると、それを抑圧し、どんどんと無意識の
世界に放り込んでしまう。
無意識の世界は、いわば、巨大な心のゴミ捨て場と思えばよい。
たまたま昨夜も、ある母親と電話で話した。
その母親が自分の子(小学4年女児)をさして、「あの子は、がまん強い子ですから」
と言った。
しかし子どもの世界では、「がまん強い子」というのは、警戒したほうがよい。
その分だけ、心に別室を作り、そこへ本来の自分を押し込めてしまう。
結果として、心をゆがめてしまう。
が、それだけではない。
何か機会があると、突発的に、キレたりする。
ふつうのキレ方ではない。
たいてい錯乱状態になる。
「どうして、オレをこんなオレにしたア!」と。
それまでにたまった不満を、一気に爆発させる。
教える側からすると、ワーワーと自己主張を繰り返す子どものほうが、教えやすい。
何を考えているか、よくわかる。
そういう意味でも、幼児教育では、(1)まず自分をすなおに表現させるところから、
始める。
「すなお」というのは、(1)心(=情意)と、表情がいつも一致していること。
(2)心のゆがみ(いじける、ひねくれる、つっぱる、ぐずる)がないこと。
具体的には、思っていることを、大声ではき出させる。
一方、前意識は、先にも書いたように、そのつど必要に応じて、意識的に取り出す
ことができる。
「今日は何を食べるかな? 昨日、寿司を食べたので、今日は刺身をやめよう」
とかなど。
あるいは「あの店へ行くのはやめよう。先日行ったとき、女将さんの態度が悪かった」
とかなど。
そのときは意識しなくても、簡単な条件をつけると、そのまま意識として脳の
中に浮かび上がってくる。
で、子ども、とくに幼児の教育では、この前意識がどのように形成されているか、
それにいつも注意を払うことが重要。
(できる・できない)ではなく、(前向きな前意識が育った・育ってない)をみる。
たとえば現在、年中児で、「名前をかいてごらん」と私が言っただけで、体を
こわばらせてしまう子どもが、何割かはいる。
中には、涙ぐんでしまう子どもさえいる。
文字に対して、恐怖感をもっている子どもである。
どうしてそうなったか、理由など、改めて、ここに書くまでもない。
しかし一度、こうした症状を示すようになると、子どもの心をほぐすのは、容易な
ことではない。
発達心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。
一度、嫌子ができてしまうと、それを好子に転換するのは、容易なことではない。
もっとわかりやすく言えば、「子どもをつぶすのは簡単。しかし伸ばすのは難しい」
ということになる。
「つぶれた子どもの心を修復するのは、難しい」でもよい。
いわんや、それが前意識から、無意識の世界に入ってしまったら……!
今、ふえているのが、「おとな恐怖症」の子どもたち。
赤ちゃん返りならぬ、幼児返りを起こす。
中学生とか高校生になっても、幼児期のおもちゃを取り出し、それで遊ぶなど。
一見すると、精神的な未熟性が気になるが、「おとな恐怖症の子ども」と理解すると、
納得できる。
さらにひどくなると、言葉の使い方そのものまで、幼児ぽくなる。
「ドウチェ、ダメだと、言うんデチョ、こんな本は、ダメだと、言うんデチョ」と。
私がその子ども(小6男児)の中に、ボロボロになった雑誌を見つけたときのことだった。
「これは何?」と聞いたとたん、その子どもは、そう言った。
原因は、すぐわかった。
母親に相談すると、中学生の兄がいて、毎晩、父親と、「勉強しろ!」「いやだ!」の
乱闘を繰り返しているという。
その子どもはそれを傍で見ていて、中学生になることに恐怖心を抱いてしまった!
一方、英語には、『Happy Learners learn Best』というのがある。
『楽しく学ぶ子は、よく学ぶ』という意味である。
「楽しい」という思いが、前意識(無意識でもよいが)の中に、「好子」を作る。
この好子が、子どもを前向きに引っ張っていく。
「BW教室(=私の教室)」という名前を聞いただけで、「行きたい!」となる。
またそういうふうに、指導する。
「私」の中に、「私」と言える部分は、ほとんどない。
いつも「私」は、(私でないもの)によって、動かされている。
同じように、「子ども」もまた、(子ども自身でないもの)によって、動かされている。
幼児教育では、その(子ども自身でないもの)を、どう作っていくか。
それが重要なポイントということになる。
「前意識」にからめて、幼児教育はどうあるべきかを考えてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
前意識 好子 嫌子 無意識 幼児返り 幼児がえり がまん強い子 はやし浩司
抑圧 幼児教育の要)
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