Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, April 14, 2009

*The Shadow of the Mind

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   15日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

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ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

++++++++++++++++++++

●みな、かぶっている

たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分
で、自分は善人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも
私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体
に演技ぽい。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、
まあ、それに近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、お
だやかで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜
い欲望が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好
きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、
そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができ
た。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単
位の話ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねた
まれると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみ
ならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っ
ていました。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚
く、その人をののしっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなか
ったかと思います。母には、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一
面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシ
ャドウのもつ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらな
いこと。といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰っ
て家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、
それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受
けつがれてしまう。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴
られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、その
まま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場
町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断す
る基準が、出身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる
基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みご
とな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
榎津鎮雄との、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれ
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不
倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
る原動力になった。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけ
ならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、好ましいということになる。
(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●嵐

+++++++++++++++++

夕方遅くから、季節はずれの嵐になった。
台風並みの強い風と雨。
窓を打ちつける木立の木々の枝。

例年だと今ごろの1~3月期は、水の渇水期。
山荘の近くの村々では、「もらい水」といって、
水の出ないところは、水のあるところへ、
水をもらいに行く。
ついでに風呂にも入らせてもらう。

が、今年は、雨が豊富にあるという。
今日の雨で、当分は水の心配もなさそう。

よかった!

+++++++++++++++++

●夢

たった今、うたた寝をした。
夢を見た。
どこかの劇場で、映画を見ていた。
わけのわからない日本映画だった。
それが終わると講演会ということだったが、
私は外に出た。
ゾロゾロと人が歩いていた。
それについていくと、小高い山の上にやってきた。
そこから観覧車が出るところだった。
観覧車といっても、円形の観覧車ではなく、
長くつづいたトロッコのような観覧車だった。
それに乗って山をくだるところで、目が覚めた。

+++++++++++++++++

どうして人は夢を見るのか。
中には夢を見ないという人もいる。
いつも同じような夢を見るという人もいる。
しかし私のばあいは、一度とて、同じ夢を見たことがない。
自分でも感心するほど、奇想天外というか、想像もつかないような
夢を見る。
これは私のどういう精神状態によるものなのか。

あの劇場で見た映画は、どんな映画だったのか。
そのときは、ストーリーらしきものを感じたが、
今は、覚えていない。
夢の内容は、すぐ忘れる。
そのあとトロッコのような観覧車に乗って山をくだったが、
そのとき私は両手に、猫をかかえていた。
よく慣れた頭のよい猫で、人間の子どものようでもあった。
それに映画館へ入る前にも、何かあったようだが、それも思い出せない。

夢というのは、いわば脳の遊びのようなもの。
無意識の世界から、ちょうど池の底からメタンガスがボコボコと
出てくるように、湧いてくる。
どこから出てくるか、わからない。
だからどんな夢を見るかは、そのときの脳の状態による。

またはっきりとした実体験をともなわないから、すぐ忘れる。
こうしてメモにしたときだけ、記憶に残る。
そこで中には、「夢日記」なるものをつけている人がいる。
つまらない実生活の日記を書くよりは、そのほうが楽しいかもしれない。

で、私の夢分析。

映画館にいたとか、観覧車に乗ったというのは、あまり意味がない。
どんな映画だったかが、問題。
それに猫の嫌いな私が、猫をかかえていた?
これは不思議なことだ。
あるいは人間の子どもだったかもしれない。
大きさは、小猫くらい。
茶色い色をしていた。
今の私はきっと、愛情飢餓の状態なのかもしれない。

で、映画の内容は、どうしても思い出せない。
何かの社会映画だったと思う。
私好みの、理屈ぽい映画だった。
「自由になるのだ」というようなことを言いながら、
1人の少女が、クルクルと体を回転させながら、踊っていた。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

●自由

今度三男が、友だち5、6人と、カナダのどこかまで、
オーロラを見に行くという。
「オーロラねえ」と思ったところで、思考停止。
フ~ンと思ったが、うらやましいとは思わなかった。
「寒いところはいやだ」と思った。

そのうち毎週のようにオーロラを見ることができるようになるだろう。
どうして今、わざわざ見に行くのかな?

で、改めて自由とは何か、考えてみる。
自由にも、大きく分けて3つ、ある。
肉体の自由、(2)行動の自由、(3)精神の自由。

肉体の自由といっても、人間の肉体には、いつも限界がある。
たとえば鳥のように、空を飛べるような構造にはなっていない。
反対に、足の骨でも折れば、そのまま歩けなくなる。
しかし歩けないからといって、自由を失ったことにはならない。
歩ける人も、歩けない人も、生物全体からながめれば、たいした
ちがいはない。

つぎに行動の自由。
人間というのは、身勝手な生き物かもしれない。
私だって、カナダまで行って、オーロラを見ることができる。
しかし今は、その気はない。
が、もし、だれかに「君はカナダへ行ってはいけない」と言われたら、
それに対しては、猛反発するかもしれない。
「いつでも行こうと思えば行けるが、行かない」と思うのは、心の余裕。
が、行くつもりはないが、「行ってはダメだ」と言われると、とたんに
窮屈になる。
行動の自由というのは、結局は、その「心の余裕」ということになる。

が、何よりも大切なのは、精神の自由。
魂の自由。
思想の自由。
そして言論の自由。
私のばあい、何でも好き勝手なことを書けることにまさる解放感はない。
言い換えると、好き勝手なことを書いているときの解放感に、まさる解放感
はない。
もしこの解放感を奪われたら・・・。
私はその相手と、命をかけて戦う。
というのも、この解放感を奪われたら、私は死んだも同然。
この先、何を書くか決まっているわけではない。
書きたいことすら、何であるかわからない。
しかしそれでも、命をかけて戦う。

「書こうと思えば、何だって書ける」と思うのは、心の余裕。
それこそが、私の命。
(少し力みすぎかな?)


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi



●3月11日

++++++++++++++++++++

今日は、山荘にある、ろ過器の修理をするつもりだった。
ろ過器というのは、山の水を一度、ろ過するためのもの。

山の水は、自然の水。
どうしてもゴミが混入する。
それで、ろ過器が取り付けた。
そのろ過器のレバーが折れた。
中の芯で折れたから、簡単には直らない。
で、その修理ということになった。
部品を取り寄せてもらい、代金は、7000円弱。

が、その会社の浜松出張所は、浜松市でも、私の家からは
正反対のところにある。
車で行っても、1時間半はかかる。
往復、3時間。
実際には、途中で昼食をとったので、半日かかってしまった。
しかたないので、そのまま帰宅。
プラス昼寝。

ろ過器の修理は、今度の日曜日にすることにした。
こうした作業をいやがる人も多い。
が、私には、楽しい。
無我夢中でできる。
我を忘れて、できる。

……ところで、おととい、庭に畑を作った。
ネギとかいろいろな野菜を植えた。
もう少しすると、ナスとかトマトの苗も売りに出される。
これから春にかけて、何かと忙しい。

そうそう来週、熱海の先にある、初島まで行ってくる。
ワイフも行く。
楽しみ。

+++++++++++++++++++++

●ハナ

うちのハナ(犬)は、バカのような顔をしていて、それでいて、結構、賢い。
約束は守るし、私に忠実。
しっかりとした信頼関係で結ばれている。
私は、ハナにはウソをつかない。
どんな約束も、守る。
(人間の言葉を理解できるとは思わないが、私はそうしている。)

ハナはハナで、私に嫌われるのを、何よりも心配しているといったふう。
強い声で、「ハナ!」と叱ったりすると、そのままシッポをさげて、
小屋に入っていく。

畑を作るときも、「ここには入ってはだめだよ」と、2、3度話しただけで、
それ以後、畑には近寄ろうともしない。
いつもなら、私の目を盗んで、庭中を掘り返すのだが……。

そのハナも、人間にたとえるなら、もう80~90歳。
このところ急速に、元気がなくなってきた。
ちょっとさみしい。


●水の惑星

++++++++++++++++++

水(H2O)は、温度が、0度~100度の
範囲では、水だが、それ以下の温度だと、
氷という固体になってしまう。
それ以上だと、水蒸気という気体になってしまう。
もちろん気圧によっても、影響を受けるが、
0~100度と考えてよい。

が、宇宙の温度には、キリがない。
下はマイナス270度前後。
上は数千度。
太陽の表面温度は、約4000度。
そういう中で、0~100度という幅は、きわめて狭い。
宇宙的規模で見ると、この地球に水があるということ自体、
奇跡に近い。

……と考えるのは、正しくない。
少し話が脱線するが、許してほしい。

たまたま人間が、水なしでは生きていかれないという事実を先に
もってきて、「水があるのは奇跡」というのは、あまりにも後から理由。
水がなかったら、人間はいなかったことになる。

それに水でなくても、どこかの惑星には、硫黄(いおう)の海で生まれ育った
生物だっているかもしれない。
硫化水素(硫酸)の海でもよい。
二酸化炭素の海でも、液体窒素の海でもよい。
そういうところで生まれ育った生物は、そういう惑星が、もっとも住みやすい
環境ということになる。

そういう惑星に住んでいる生物が、「硫化水素の海があるのは奇跡」とか、
「液体窒素のある海は奇跡」とか言っても、それは後から理由。
こじつけ。

最初に水があって、そこから人間は、何十万年という年月を経て、生まれた。
人間が水を求めて、この地球にやってきたわけではない。
だから「この地球に、水があるのは奇跡」と考えるのは、まちがっている。

話を戻す。

今度、アメリカが、水のある惑星を求めて、探査衛星を飛ばしたという。
つまり目的は、人間のような仲間さがしと考えてよい。
それもそのはず。
液体窒素の海で生まれ育ったような生物とは、いくら知的能力にすぐれていた
としても、仲間にはなれない。(……だろう。)
もし宇宙人が、映画『プレデター』に出てくるような昆虫のような顔をしていたら、
私なら、真っ先に、逃げ出す。
そのプレデターにしても、宇宙的な規模で見れば、人間と同じ。
たとえば珪素を基本にした生物から見れば、区別はつかないだろう。
人間は、炭素を基本にした生物である。

だからやはり、「水の中で生まれ育った生物」ということになる。

が、このことは、ひとつの重大な教訓を、私たちに与えている。

「水」ということを考えるなら、動物はもちろんのこと、植物ですら、
私たちの仲間ということになる。
生物学的な距離をいうなら、きわめて近い。
DNAの構造にしても、(ちがう)というより、ちがいそのものが、ない。
「何も宇宙のかなたまで仲間をさがしに行かなくても……」ということに
なってしまう。

が、それでは、あまりにも夢がない。
科学はロマン。
ロマンなくして、科学はない。
ロマンが、科学の原動力と考えてよい。

宇宙のかなたに水のある惑星が見つかったら、人間は、そこへ移住することが
できるかもしれない。
コロンブスがアメリカ大陸へ向かったように、いつか、新しいコロンブスが、
水の惑星を求めて航海に出るかもしれない。
想像するだけも、楽しい。

が、ここでまたまた考えてしまった。
人間がそれをするのは人間の勝手だが、その逆はないのか、と。
相手の宇宙人だって、(宇宙人がいればという仮定での話だが……)、
同じことを考えているはず。
であるなら、そういう探査機が、地球へ飛んできた可能性もないわけではない。
まだ人間はそこまではしていないが、それには、(生物の種)が積んであった
かもしれない。
その(種)が地球上にばらまかれ、何億年も経て、今のような地球になった(?)。
人間も、そこから生まれた。

またまた楽しくなってきた。

だったら、人間も、生命の(種)を、宇宙中にばらまけばよい。
耐熱性、耐寒性、耐気性……のあるバクテリアのようなものを、小さな金属に
入れて、宇宙のあちこちに飛ばす。
アミノ酸のようなものでもよい。
10万年後とか、100万年後に、それがどこかの惑星にたどりつき、
さらにその数億年後に、ちゃんとした生物になるかもしれない。

つまり私たち人間も、そうして生まれた可能性がないとはいえない。

楽しい。
楽しい。
本当に楽しい。


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