Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, April 21, 2009

*The Love

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   22日号
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●できそこないの息子や娘をもった幸せ

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ソクラテスは、こう言った。
「悪妻をもつと、夫は哲学者になる」と。

これをもじると、こうなる。
「愚息をもつと、親は、勤勉家になる」と。

+++++++++++++++++++++

妻が悪妻だと、夫は人生を悩み、苦しむ。
毎日のように、人生を後悔し、反省する。
その結果、夫は、人生を見つめ、命を見つめ、心を見つめる。
つまり哲学者になる。

言い換えると、ソクラテスの妻は、かなりの悪妻だったらしい。
が、それはさておき、「愚息をもつと、親は、勤勉家になる」というのも、
これまた正しい。

愚息かどうかは別にして、私がもっとも仕事に励んだのは、息子たちが
大学生のころのことだった。
学費が、20万円~30万円単位で、毎月のようにどこかへ消えていった。
で、そのたびに、私は「歯をくいしばって、がんばった」。
もう少し正直に書くと、そのつど、「ちくしょう」「ちくしょう」と思って仕事をした。

私にはたいへんな時期だったが、言い換えると、そうした逆境(?)が、
かえって仕事をするバネ(原動力)になった。
もしそういうことがなければ、私は、ああまで仕事をしなかっただろう。

……というような話を、学生時代からの友人からも聞いた。

その友人には、2人の子ども(長男、長女)がいる。
長男は、結婚して東京に住んでいるが、長女のほうは結婚をせず、友人夫婦と同居して
いる。
それだけではない。
一応キャリアウーマンとして働いているが、給料は1円も、家には入れていないという。
すべて遊興費+衣服代+化粧代に使っている。

ときどき娘を説教するらしいが、実際には、娘の収入を、友人のほうが補っているという。
それについて、友人は、こう言った。

「林君、そんなわけで、ぼくも70歳まで働くことにしたよ」と。
私が「ぼくは70歳まで、現役」と宣言したときのことである。

わかるかな?

「愚息をもてば、親は勤勉家になる」の意味?

平凡は美徳だが、平凡な生活からは何も生まれない。
同じように、平和は美徳だが、平和な生活からは、緊張感そのものが生まれない。
私もワイフとときどき、こんな会話をする。

「もし息子たちがみな、近くに住んでいて、『お父さん』『お母さん』と、いろいろ
世話をしてくれたら、ぼくたちは、それに甘えて、仕事をしなくなってしまう
だろうね」と。
「早めにボケてしまうかもしれない」とも。

それが期待できないから、私はがんばる。
がんばるしかない。
つまりそれが生きるバネになっている。
だから少しきびしい言い方をすると、こうなる。

『人は追い詰められてはじめて、生きるパワーを発揮する』と。
英語の格言にも、『空の飛び方は、崖から突き落とされてから学べ』というのがある。
ぬるま湯につかっていたら、人生はそこまで。

だから、みなさん!

みなさんの息子や娘が、できの悪い息子や娘であったら、それを喜ぼうではないか。
感謝しようではないか。
そういう息子や娘をもったおかげで、私たちは、がんばることができる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●愛すること

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人は、だれかに愛されて、「愛」を知る。
不幸にして、不幸な環境に生まれ育ち、
愛されることを知らずに育った人は、
人を愛することができない。
「愛」というおおげさなものでなくてもよい。
「好き」という感情でもよい。
だれかを好きになっても、すなおな気持ちで、
「好きです」と言えない。

++++++++++++++++++++

●実感しにくい感情

「愛」ほど、実感しにくい感情はない。
「喜・怒・哀・楽」の4つの感情と比較してみても、それがわかる。
「愛」はいつもそこにあるのだが、そこにあるときは、空気のようなもの。
それに気づくこともない。

子どもにしても、何か問題が起きたとき、とたん、愛の感情が爆発する。
ふだんは、騒々しくて、わずらわしい子どもでも、病気になったとたん、
その(思い)は、一変する。

で、夫婦のばあいは、どうか。
いっしょにいるときは、口争いばかりしている。
いがみあっている。
しかしそんな夫婦でも、相手が病気になったり、事故にあったりすると、
とたんに、相手のことを心配したりする。

「愛」というのは、相手を「許し、忘れる」こと。
その度量の深さによって、愛の深さが決まる。

●愛はたがいに深めあうもの

そんなわけで、(少し結論が性急すぎると思うが)、人はたがいに愛され、愛しあい
ながら、「愛」を深めていく。
言い換えると、人に愛してもらいたかったら、まず先に、人を愛する。
「好き」という感情でもよい。
みなに好かれたかったら、まず、好きになる。
私は、このことを幼児を教えていて、知った。

幼児というのは、心の鏡(かがみ)のようなもの。
心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。
日本語のことわざにも、「魚心あれば、水心」というにがある。

「この子はいい子だ」と思っていると、子どものほうも、私のことを「いい人だ」と
思う。
子どもを好きになれば、子どもも私を好きになる。
ほかにもたとえば、子どもを指導するとき、指導そのものを、楽しむ。
私が「楽しい」と思っていると、子どものほうも、「楽しい」と思う。
そんなわけで、まず、自分が楽しむ。
子どもは、あとからついてくる。

●愛が通じない人

しかし中には、愛が通じない人もいる。
私たちが「自己愛者」と呼んでいる人たちである。
あるいは「偽善者(愛他的自己愛者)」でもよい。

このタイプの人は、他人の愛を、自分の利益に結びつけてしまう。
あるいは自分を飾るための道具として、利用してしまう。
言うなれば、心のさみしい人ということになる。
が、さらに、最近、こんなことを発見した。

愛を熟成するにも、賞味期限(?)がある、と。
つまりある年齢以上になると、その人自身がもつ情感が硬直し、
愛を熟成できなくなる。
そればかりか、かえって退化することもある。
認知症などの脳の病気にかかると、さらにその傾向がはっきりしてくる。
私の母にしても、晩年は、口癖のように、「ありがとう」「ありがとう」と
言っていた。
が、それは口癖。
そこに(感謝の念)があって、そう言っていたわけではない。

だから「愛」を熟成させるなら、若ければ若いほど、よい。
年齢的には、思春期前後まで。
とくに大切なのが、乳幼児期ということになる。
そのころ周囲の人たちに深く愛された人は、自らも愛を熟成させることができる。
そうでなければそうでない。
いわゆる心の冷たい人になる。

相手の話に同情したフリをする。
相手の話を理解したフリをする。
しかし心の中では、乾いた風が吹いているだけ。

そこでこんなことが言える。

50歳を過ぎたら、つねに相手を選んで話す、ということ。
それを誤ると、かえってこちらのほうが、相手にもてあそばれてしまう。
あるいはときに、傷つくこともある。
またそういう人ほど、口がうまい。
長い時間をかけて、自分をよい人間に見せるための方法を身につけている。
何かを相談したりすると、同情したフリをして、「それはたいへんですねエ~」と、
言ったりする。
私はこのことを、母の介護を通して、知った。

●Yさん(60歳、女性)

こう書くからといって、Yさんを責めているのではない。
YさんはYさんなりに、力になってくれた。
それには感謝している。
しかしこんなことがあった。

私が母の介護のことを話すと、Yさんは、こう言った。
「親の介護は、たいへんですから。本当に、そうですよ」と。

私はよき理解者を得たような気分になり、あれこれ相談した。
が、である。
そのあと私は、ふと気がついたが、Yさん自身は、親の介護を経験していないはず。
父親は脳内出血で、倒れてから数日後に他界している。
母親も同じようにして他界している。
そのときYさんは、遠くにいて、看病もしていなかったはず。
どうしてそういう人が、親の介護のたいへんさを理解できるのか。

やがて私はYさんが、私から聞きだした話を、あちこちの人に話しているのを知った。
言うなれば、私の家の不幸話を、「酒の肴(さかな)」にしていた。
それを知ったとき、私は、大きなショックを受けた。
Yさんは、たいへん心のさみしい女性ということになる。
どうしてそうなったかはわからないが、ともかくも、そういう女性である。

●愛は捨て身

が、希望がないわけではない。
他人は他人。
しかし私やあなた自身は、30歳を過ぎてからでも、また40歳を過ぎてからでも、
「愛」を深めることができる。
大切なのは、「自分に気がつくこと」。

人から愛されない。
人を愛することができない。
どうであるにせよ、そういう自分であることに気がつくこと。
すべてはここから始まるが、それに気がついたとたん、その先に道が見えてくる。

方法は簡単。
まず、人を愛すること。
「許して、忘れる」こと。
最初は犠牲的であっても、かまわない。
形だけでも、かまわない。
見返りを求めず、ただ一方的に「許して、忘れる」。
それだけを繰り返す。

相手が夫や妻なら、それを実行しやすい。
息子や娘、さらには家族なら、実行しやすい。
それを繰り返していると、5年単位、10年単位で、あなたの周辺の人たちの様子が
変わってくる。
それは根気比べのようなもの。
とくに相手が家族なら、裏切られても、裏切られても、ただひたすら、がまん。
そのおおらかさが、相手の心を溶かす。
ついで、あなたの心を溶かす。

●愛することのすばらしさ

私はキリスト教徒ではない。
またキリスト教でいう「愛」とは、ちがったものかもしれない。
しかし人を愛するすばらしさは、愛することよりも、愛されたときの喜びとなった
とき、わかる。
人を深く愛することができる人は、人に愛されたとき、その愛を、何倍も、何十倍も
温かく感ずることができる。
その喜びは、ほかの世界で得られる喜びとは、まったくちがったもの。
ほかの世界では、ぜったいに、味わうことのできないもの。
生きる喜びに、直接つなげることができる。
そういう喜びである。

さらに……。

その喜びだけは、より深くなってはじめて、それまでの喜びが薄っぺらいものであった
ことを知る。
深くなればなるほど、そうで、それには際限がない。
(そこまで言い切る自信は、まだないが、私はそう確信している。)

裏を返して言うと、「私は愛されている」「私は人を愛している」と思っている人でも、
さらに努力によって、その「愛」を、よりすばらしいものにできるということ。
今の(状態)に、けっして満足していてはいけない。
「いけない」というよりは、「それでは、もったいない」。

たった一度しかない人生。
繰り返しができない人生。
だったら奥の奥まで、歩いて行ってみる。
生きる醍醐味は、そういうところから、生まれる。

「愛」というのは、「生きるテーマ」にして、なんら遜色がない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●老後なんて、クソ食らえ!

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私はそのつもりはなくても、まわりの
人たちが、私を、「老人」と決めてかかる。
「老人」「老人」と。
いくら「私はちがう!」と叫んでも、
そういう声は、みなの耳には入らない。
反対に、こう言い返される。
「あなたは還暦を過ぎた」「あなたは退職者だ」
「もうすぐ年金族だ」と。

60歳になるとき、小学生たちですら、
私にこう言った。
「先生も、退職だね」と。
たぶん親たちから、そう聞かされていたのだろう。
しかし、だ。
老後なんて、クソ食らえ!

どうしてこの私が老人にならなければ
ならないのか。
老人でなければならないのか。
まだ61歳だぞ!

++++++++++++++++++

●仕事をふやす

ここ4~5年、半分は意図的に、しかし半分は、体力の限界を感じた
こともあり、仕事の量を減らしてきた。
講演にしても、遠方の講演は、断ってきた。
しかし、どうして?

私の結論は、こうだ。
私は、死ぬまで仕事をする。
「悠々自適な老後生活」とは、いったい、何だ!
何をすればよいのだ!
どうやって時間を過ごせばよいのだ!

私の実家の近くに、満55歳で定年退職したあと、ほぼ30年間、
遊んで暮らしている人がいる。
(本当に、遊んでばかりいる!)

人には、それぞれの生き方がある。
その人の生き様に干渉するつもりはない。
批判するつもりもない。
しかしこの30年間を振り返ってみて、その老人は、(まさにそういう人の
ことを「老人」と呼ぶにふさわしいが)、30年間を1日にして生きてきただけ。

人づきあいも、ほとんどしない。
外出も、ほとんどしない。
近所の仕事も、ほとんどしない。

娘が1人いるが、近所の人の話でも、この30年間、その娘は、一度も、
実家へ帰っていないという。
親子の間で、何か大きな確執があったらしい。

いくら(遊んで暮らす)といっても、それでよいのか。
それがあるべき老後の姿なのか。

●老後の放棄

そこにある老後を認め、自ら老人になるか。
それとも老後を放棄して、生涯、現役で通すか。
結局は、択一の問題ということになる。

で、この数年、私は、擬似老後を体験してきた。
老後を予想しながら、その生き方を模索してきた。
数年、年上の人たちや、あるいはさらにその年上の人たちの生き様を
観察させてもらった。
その結果だが、私には、やはり「老後は、向かない」。
「老人らしく生きろ」と言われても、私にはできない。
だから「老後を放棄する」を選んだ。

具体的には、この4月から、再び仕事量をふやした。
2008年度を、100とするなら、2009年度は、120くらいにする。
さらに2010年度は、140くらいにまで、もっていく。

「人生、50年」ではなく、「人生は、60歳から」。
だからときどき、ワイフにこう言う。
「仕事の最中に、くも膜下出血か、心筋梗塞、あるいは脳梗塞で
倒れても、ぼくには、延命処置は不要」と。

それまで現役で働ければ、御の字。
それ以上に、何を望むのか。
何を望むことができるのか。

●健康

本当にラッキーなことに、繰り返すが、本当にラッキーなことに、私は健康だ。
昨日も、OZ先生(医大の泌尿器科の権威)に会ったとき、
「0・7でした」と告げると、OZ先生は、こう言ってくれた。
「じゃあ、この2、3年は、検査を受けなくてもいいですね」と。

OZ先生というのは、前立腺がんのPSA検査法を
日本に広めたドクターである。
「0・7」というのは、「まったく異常がない」という数値らしい。

で、あと心配なのが、大腸がんだが、それも今回、(-)だった。

とたん、元気がモリモリとわいてきた。
やる気が出てきた。
考えようによっては、30歳のころより、健康かもしれない。
仕事だって、今のほうが、しやすい。
子育てからも、親の介護からも、実家のめんどうからも、解放された。
みな、「はやし浩司」という名前を出すだけで、私がどんな仕事を
しているか、わかってくれる。

私にとって、「現役」ということは、「健康」ということになる。

●墓石

もちろん仕事だけが人生ではない。
「生きる」ということは、ただ「息(いき)る」ことではない。
「生きる」ということは、私のばあい、生きた証(あかし)を、つぎの世代に
残すことを意味する。

そのために墓石を残すこともよいだろう。
しかし私は、それでは満足できない。
墓石に刻まれた名前だけが、「私」ではない。

私は私。
だれにも束縛されず、自由に生きてきた。
たいしたことはできなかったが、自分だけの道を歩いてきた。
あとに残ったのは、細い道かもしれないが、それが私の道。
この道が、何かの役に立つようなら、それを残したい。
それが私の墓石ということになる。
目には見えないが、それが墓石ということになる。

……その墓石を、自分なりにどうやって作っていくか?
それもこれからの人生の中で、やり遂げていかねばならない。

●再び、「老後なんて、クソ食らえ!」

老後を急ぐ人も、多い。
満60歳で、隠居生活に入った人もいる。
旅行三昧(ざんまい)の人もいる。
孫の世話に明け暮れている人もいる。

これも繰り返しになるが、私は私、人は人。
その人が、それでハッピーなら、それはそれでよい。
私やあなたが、「それはおかしい」とか、「まちがっている」などとは、
口が裂けても言ってはならない。

また私の生き方が正しいとか、そういうことでもない。
私には、私の無数の(糸)がからんでいる。
その中でもとくに太い糸は、私の(過去という糸)である。
私は子どものころ、(貧乏)を何よりも、恐れた。
(貧乏になっていく)という恐怖感をいつも感じていた。
だから、それが転じて、私は(仕事の虫)になった。
今も、その亡霊は、色濃く残っている。

だから「生涯、現役」というと、かっこよく聞こえるかもしれないが、
本当のところ、人生が下り坂になるのが、こわいだけなのかもしれない。
収入が減少し、まわりの世界が小さくなっていく……。
それがこわいだけなのかもしれない。

しかしそれが私の(糸)なら、受け入れるしかない。
まちがっているとか、正しいとか言う前に、(おかしいことは事実だが)、
それも私の一部。
今さら、フランス人がバカンスを過ごすように、のんびりと生きろと
言われても、私には、できない。

だからあえて再び、こう叫ぶ。
「老後なって、クソ食らえ!」と。

「クソ、食らえ!」という言葉は、尾崎豊が「卒業」の中で使った
言葉である。
私よりずっと若い人だったが、あの人の歌には、いろいろと教えられた。
これは余談。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●ボケの恐怖

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このところ、ときどき、自分の脳みそが
信じられなくなるときがある。
「本当に信じていいのだろうか?」と、
自分でそう思うときがある。

たとえば、つい先ほども、明日の計画を
立てた。
そのときも、「明日まで、覚えているだろうか」と。

そこでそれをメモにして、そこに残す。
「○○を修理、△に電話、□をする」と。

若いころは、こんなことはしなかった。
メモなどというものは、まったく必要なかった。
が、それを忘れるということでもないが、
ふと、不安になる。
「忘れるんじゃないか」と。

+++++++++++++++++

●ボケの始まり?

だからといって、具体的に何かを失敗したということではない。
今のところ、そういう失敗は、していない。
しかしこのところ、自分で自分の脳みそが信じられなくなってきた。

近くにボケ老人や、認知症、さらにはアルツハイマー病の人がいるせいかも
しれない。
脳みその構造やしくみが、若いころよりも、よくわかってきた。
それでそう思うようになった(?)。

たとえて言うなら、だれかに「明日、20キロ歩いてみませんか?」と
声をかけられたときのような気分に似ている。
「10キロはだいじょうぶと思うが、20キロとなると……」と。

歩こうと思えば、20キロくらいなら歩ける。
しかし仮に、その前夜、眠られなかったら、どうするのか?
風をひいたら、どうするのか?
体の調子が悪かったら、どうするのか、と。

同じように、頭を使うときも、「ぜったい、だいじょうぶ」という
確信がもてなくなった。
それがそのまま不安感となって、戻ってくる。

●ボケとの戦い

私は子どもたちと、よく競争をする。
算数や数学の問題を解きあったりする。
パズルを解きあうことも、多い。

昔は遊び半分だったが、今は、ちがう。
どこか真剣勝負。
が、ここで誤解してはいけないのは、そういう問題が解けるからといって、
だいじょうぶということにはならない。

数学の先生だって、認知症になる人は、なる。
では、どこがちがうか。

たとえばアルツハイマー病のばあい、その前兆症状として、(1)繊細さが
なくなる、というのがある。
繊細な会話ができない、繊細な感情表現ができない、など。
(2)怒りっぽくなり、暴力や暴言が多くなるというのもある。
要するに、心の余裕を失うということらしい。
むしろ、そちらのほうが、心配。

たとえば私の知人の妻(現在、65歳くらい)は、最近、アルツハイマー病
と診断されたという。
その女性のばあい、電話で話しても、会話はいつも一方的。
自分の言いたいことだけを、繰り返し、しかもくどくどと言って、それで
おしまい。
こちらの話には、耳も傾けようとはしない。
どうしても(3)ものの考え方が、自己中心的になる。

では、どうすればよいのか。

数学の問題を解くような知的な作業はともかくも、繊細さや、心の余裕、
さらには自己中心的になることから、自分を守るためには、どうしたら
よいのか。
また仮にそうした能力が低下しているとしたら、それを知る方法は、
あるのか。

●繊細さ

……目の前には、春の陽光を浴びた、森の木々が、白い光をあたりに
反射させている。
葉にあたる白い光が、まぶしい。
そういう景色を見ながら、「繊細さとは何か」を考える。

で、ひとつのヒントだが、ここに書いた妻のばあい、昔から気になっている
ことがある。
ひとつは、本を読まないこと。
DVD(ビデオ)を見ないこと。
もちろん映画館へ足を運ぶことはない。
ゆいいつ文化的なこととしては、布を切りつないで描く、パッチワーク
(キルト)を趣味にしていたことがある。
しかし展覧会に作品を出すとか、そういうことはしなかった。
いつも「私には時間がない」と言っていた。

そういう生活習慣が、その妻をして、アルツハイマー病にしたとも考えられる。
最近読んだ本の中でも、「アルツハイマー病は、生活習慣病と考えていい」※と
いうようなことが書いてあった。
(あるいは、その反対も考えられる。
アルツハイマー病の初期の、そのまた初期症状として、(4)がんこになったり、
(5)興味や好奇心を失うということもある。)

言い換えると、こうは言えないだろうか。
たとえばすばらしい映画を見ても、感動しなくなったら、おしまい。
逆に言えば、すばらしい映画などを見て、おおいに感動する。
そうすることによって、繊細さを維持する。

映画でなくても、美しい景色でもよい。
他人の話でもよい。
そういうものを見たり聞いたりしながら、そのつど感動していく。
つまり数学の問題やパズルで、知的能力を刺激するように、
感情もまた、そのつど刺激する。
そういう形で、繊細さを維持する。

その結果として、がんこになったり、自己中心的なったりすることから、
自分を守ることができる。

が、「心の余裕」については、どうか?
それについては、また別の機会に考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●心の余裕

+++++++++++++++++++

先日、観光バスで旅行をしたときのこと。
うしろの席の女性が、ペチャペチャとしゃべり始めた。
甲高い声だから、かなり気になった。

で、バスが高速道路に入ってしばらくしたあと、
私は、ていねいな言い方で、こう言った。
「もう少し、小さい声で話していただけると、うれしいのですが」と。

これは余談だが、こういうばあい、男性というのは、すかさず、
「すまん、すまん」とか言って、それを改めてくれる。
が、女性というのは、そうでない。
たいてい気分を悪くしたというような表情をしてみせ、逆にこちらをにらみ返してくる。

そのときもそうだった。

で、一日の観光も終わり、帰りのバスになった。
そのときも、その女性たちは、しゃべりつづけていた。
口先だけで軽く話すため、男性のように、いくら話しても
喉が枯れるということはないらしい。

が、今度は、私は、ややきつい言い方をして、それを注意した。

「バスの中で、静かに休んでいる人もいます。
もう少し小さい声で話してください」と。

すると、すかさず1人の女性が、こう言った。
「私ら、おしゃべりが楽しみで、旅行、来ているのよ、ねエ~?」と。

私は無視した。
それまでの会話の内容からして、相手にするような人たちではなかった。
相手にもならなかった。
それに私は「しゃべってはいけない」と言っているのではない。
「小さい声でしゃべってほしい」と言っただけである。

心に余裕のない人というのは、そういう女性たちをいう。
やわらかさが、ない。
ユーモアのセンスも、ない。
少し批判めいたことを言われただけで、カッとなる。

で、問題は、どうして、そうなるか、ということ。
ふつうなら、(つまり私なら?)、そういうふうに注意されたら、すかさず、
「ああ、ごめんなさい」と言って、笑い返すだろう。
以後、おしゃべりを慎むだろう。
しかし心に余裕のない人は、そうでない。

どこかギスギスしている。
ピリピリしている。
カリカリしている。
相手をやさしくする、包容力がない。
しかもそういうタイプは、女性に、多い。

●低劣なオバチャン

一方、いやみを言われた私は、どうか?
実は、私もそれほど心の余裕のある人間ではない。
子どものころは、喧嘩早いということで、通っていた。
が、そのばあいは、笑って、無視することができた。
(もう少し若ければ、喧嘩していたかもしれない。)
が、喧嘩はしなかった。

それには、先にも書いたように、それまで彼女たちの会話を聞いて
いたからである。

あまりにも低俗。
あまりにも低劣。
かいま聞こえてくる話の内容に、ただただあきれるばかり……。

一言ごとに、そう感じていた。
はっきり言えば、英語で言えば、「ノー・ブレイン」。

「世の中には、こういう低劣な人もいるんだな」と、むしろ、そちらの
ほうに感心していた。
つまりその時点で、私は、「彼女たちを相手にしない」という姿勢が
作られていた。
だから気にしなかった。

最後にバスをおりるときも、その女性は、私にこう言った。
「おだいじに、さようなら」と。
再び、イヤミである。
強い視線を感じたが、私は無視した。
完全に無視した。

私が相手にしなければならないような人たちではない。
が、これが(心の余裕)ということか。

●昇華する

要するに、心の余裕をつくるためには、自分自身を昇華させるしかない。
わかりやすく言えば、相手を飲み込めるほどまで、自分を高める。
その結果として、包容力をもつ。

言い換えると、心の余裕というのは、その人のもつ徳性と深く結びついている。
そしてその徳性というのは、日々の研鑽の中で養われるもの。
で、これも健康論と似ている。
健康のための運動を怠ったとたん、その人はその時点から不健康になっていく。
同じように、日々の研鑽を怠ったとたん、その人はその時点から、特性を
失っていく。

で、日々の研鑽とは何か。
いつも智力の窓をあけ、考えること。
自ら考えること。
相手が、取るに足らない、つまらない人間に見えるまで、自分を高めること。
それができたとき、心の余裕が生まれる。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●映画『ワルキューレ』

++++++++++++++++

昨夜遅く、トム・クルーズ主演の『ワルキューレ』を見てきた。
星は4つの★★★★。
暗殺映画に必要な緊迫感が、やや欠けるかなという点で、
星を4つにした。

映画を見ながら、「では、この日本ではどうだったのか」と、
そればかりを考えていた。
ドイツには、ヒットラーという独裁者を生んだが、それまでに培(つちか)った
文化というものがある。
シラー、ベートーベン、ゲーテなどなど。
ワーグナーもその1人。
「ワルキューレ」は、そのワーグナーが作曲した曲名。
そこからヒットラー暗殺計画が始まる。

その文化の蓄積が、ヒットラーの独裁にブレーキをかけようとした。
そのようにも解釈できる。
が、ここから先が、日本とはちがうところ。
暗殺計画は失敗し、トム・クルーズが演ずるクラウス・フォン・シュタウフェンベルク
は処刑される。
が、現在、そのシュタウフェンベルクは、ドイツでは英雄視されているという。
そののちドイツは廃墟と化し、350万人ものドイツ人が死んでいる。
ユダヤ人を虐殺したという汚名は、今の今も消えていない。

日本ではこうした暗殺計画は生まれなかったし、また残念ながら、
それだけの周囲文化というか、そういうものがなかった。
また仮にあったとしても、そういう人たちは逆族として、排斥されていただろう。

映画を見ながら、別の心でそんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●野次馬

+++++++++++++++++++++

他人の失敗談ほど、役に立つものはない。
それは認める。
しかしその失敗談を、けっして「酒の肴」、つまり、
話の種にしてはいけない。
それが相手の耳に入ったとき、それはそのまま
その人との人間関係の終焉を意味する。

そこで、この世界の大鉄則。
『他人の不幸について、ぜったいに野次馬になっては
いけない』。

その不快感というより、悲しみは、それをされたもので
ないとわからない。

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どんな人にも、ぜったいに他人に触れられたくない問題というのがある。
ない人は、ない。
たいていはその奥で、深い悲しみや苦しみに結びついている。
が、世の中には、無神経な人というのがいる。
用もないのに電話をかけてきたりして、こちらの内情をさぐろうとする。
さぐっては、それをおもしろおかしく脚色し、他人に伝える。

それをするのは、その人の勝手かしれない。
しかしそれをされた者の怒りや絶望感は、想像を絶する。

だからそこに不幸な人がいたら、そっとしておいてやることこそ、肝要。
相手から相談でもないかぎり、ぜったいに首をつっこんではいけない。
聞き出そうとしてもいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●それをしたら、おしまい

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世の中には、「それをしたら、おしまい」と
いうような話は、多い。
その中のひとつが、これ。
農家の人が栽培している農作物を盗むこと。

しかし現実には、いる。
今日、ドライブの途中で、道路わきに車を
止め、畑から、甘夏(みかん)を盗んで
いる人を見かけた。
「まさか!」「ありえない!」と思ったが、
雰囲気からして、その土地の持ち主では
ないことはわかった。

急いで3つ、4つと取り、それを上着のジャンパーで
包んでいた。

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私も山荘に住むようになって、13年になる。
その間、「これだけは……」と思って、守っていることがある。
それはどんなことがあっても、またどんなばあいでも、
農家の人たちの作った農作物には、手をつけないということ。
農作物だけではない。
農家の人たちは、空いた土地に、いろいろな果物の木を植える。
その時期になると、それが実をつける。
ときには、(たいていそうだが)、そのまま実が熟し、地面に落ちる。

こういう土地では、農家の人が切った木一本、手をつけてはいけない。
花一輪、ちぎってはいけない。
不文律というよりは、常識。
その常識を破ったら、おしまい。

仮に、……というより、近所の人たちはよく私にこう言う。
「林さん、ポンカンが熟したら、取って食べていいですよ」と。
しかし私はそういう申し出には、ありがとうとは言っても、
応じたことは一度もない。

たとえばこんなケースで考えてみよう。
Aさんの畑の横には、ビワの木がある。
そのAさんが、「ビワを取ってもいい」と言う。
そういうとき、もし私がビワを取っている姿を、Bさんが見たら、
Bさんは、どう思うだろうか。
私は許可をもらっているから……と思っていても、Bさんの目には、
盗んでいるように見える。
またそう誤解されても、文句は言えない。

だから、ぜったいに、手をつけてはいけない。
木一本、花一輪、手をつけてはいけない。
「それをしたら、おしまい」。
私はそのまま、村の社会から、はじき飛ばされてしまう。
もともとそういう気持ちは、みじんもないが、さらに心して、その常識を
守っている。

が、である。
今日、その畑から、甘夏を盗んでいる人を見かけた。
年齢は40歳くらいか。
男性である。
車の中には、妻らしき女性も乗っていた。

通りすがりだったので、私が見たのはその瞬間だけだったが、しかし思わず
こう言った。
「それをするようになったら、世の中も、おしまい」と。

農家の人たちは、私たちを信頼して、農作物を作っている。
その気になれば、私たちは、何だって盗める。
野菜にしても、果物にしても、あるいは農業用の道具にしても……。
しかし私たちは、それをしない。
しないから農家の人たちは、安心して、作物を作ることができる。
それは人間が最低限守らなければならない、常識である。

しかしこうした常識が破られるようになったら……。
農家の人たちは、私たちに対して自衛をしなければならない。
フェンスを建てたり、するなど。
しかしそれをすれば、不信感が不信感を呼ぶ。
人間関係そのものが、破壊される。
さみしい社会になる。
つまり「おしまい」。

もう少し早く気がつけば、私は車をおりて、その男性に問いただして
いたかもしれない。
「盗んでいる」と気がついたときには、かなり離れてしまっていた。
しかし……。
盗んだ人は、「得した」と思っているかもしれないが、同時に、もっと
大切なものを失っている。
それに気づくかどうかは、その人の問題だが、もし気づかなければ、
その人の人生の末路は、あわれ。
そういうことが平気でできる人は、そうはいない。
まさに一事が万事。
そういう人生を送る。

ところで、よく道路端で、「一袋、100円」とか、「300円」とかいう、
果物を売っている無人の店を見かける。
箱だけの小さな店である。
今ごろだと、レモンやポンカンなどを売っている。
ほしい人は、小銭を横の缶に入れ、それをもっていく。

そこで一度、そういう店を出している農家の人に、こう聞いたことがある。
「正直に払っている人は、どれくらいですか」と。
すると、その人(=私が親しくしている農家の友人)は、こう話してくれた。
「だいたい、7割ですよ」と。

つまり1000円分の野菜などを置いておいても、実際、払っていくのは、
700円と。
残りの300円は、つまり「盗み」の被害ということになる。
私はその話を聞いて、「そんなものだろうな」と思った。

が、もしその被害が、500円とか、700円とかになったら、そういう店も
消えるだろう。
店を出す人がいなくなる。
が、反対に、それが1000円そのままになったら、そのときこそ、
この日本は、本当にすばらしい国ということになる。
またそういう国をめざさねばならない。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●パソコンの不調

MSIのミニパソが、ずっと調子が悪かった。
それについては、少し前に書いた。
文字入力が、混乱する。
カーソルの位置が、混乱する。
が、原因がわかった。
つまり、タッチパッドの感度がよすぎた。
手を近づけただけで反応してしまう。
指が触れなくても、たとえば手の魚腹(親指の付け根)が
近づいただけで、反応してしまう。
ナルホド!
たった今、パソコンショップの店員さんに、
(敬意をこめて、「店員さん」と呼ぶ)、
そう教えてもらった。

謎が解けた。
ほっとした。
と、同時に、みんなに知らせてやらなければならないという
思いにかられた。

【MSI Wind Notebookの不調について】

(症状)

「た」と打ちたくて、ローマ字入力すると、「tあ」となってしまう。
ときどき「ENTERキー」を叩くと、カーソルの位置が、とんでもないところに
飛んでしまう。

(原因)

タッチパッドの感度がよすぎて、手が静電気を帯びていたりすると、それに勝手に
タッチパッドが、反応してしまう。

(対処方法)

MSIのミニパソには、タッチパッドの感度調整機能がないので、薄い紙をあてて使う。

(MSI Wind Notebook 不調 文字 文字入力 カーソルの飛び
 ローマ字入力 不具合 msi U100 タッチパッド 感度 感度調整)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●3月22日(日曜日)(North Korean’s Missile)
We will not let ourselves shoot down the North Korean’s Missile, which they want us to
do so. It is a kind of trap. Or a war will break out between two countries, which we do
not want.

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朝から雨の、冴(さ)えない日曜日。
気温も一転、冬に逆戻り。
寒い!

朝風呂に入って、食事をする。
ところで今は、たまねぎの収穫期。
このあたりは、生のたまねぎに、醤油や
かつお節をかけて食べる。
それがおいしい。
昨夜から立てつづけに、食べている。

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●パソコンの修理

数か月前に購入した、MSIのミニ・パソコンの調子が、どうもよくない。
かたかな変換が、うまくできない。
たとえば、「たちつてと」と打とうとすると、
「tあtいtうtえtお」となってしまう。

先ほど、ディスクのエラー・チェックをすましたところ。
ほかにもいろいろしてみた。

「T」のキーが、不良なのかもしれない。
あまりこんな状態がつづくようなら、一度、ショップへ
もっていくつもり。
今しばらく、様子をみることにしよう。

●K国のミサイルを迎撃してはいけない!

もしK国のミサイルを迎撃したら、それこそ、彼らの思うツボ。
彼らはそれを利用して、国内を引き締める。
が、それだけではすまない。
彼らに、日本攻撃の口実を与えてしまう。
つまり日本とK国は、戦争状態に突入する。

もちろん「力」の差は歴然としている。
勝つか、負けるかという話ではない。
日本は、あんな国を相手にしてはいけないということ。
戦争など、してはいけないということ。
仮に東京に、一発でもミサイルが撃ちこまれたら、
それがただのカラのミサイルであっても、日本の経済は、
その時点から、マヒする。

日本の経済構造というより、日本の国家構造は、それほどまでに
ぜい弱。
たとえて言うなら、無菌状態。
美しいドレスを着た女性が、インクの瓶を投げつけられたような
ばあいを考えてみればよい。
日本中が、パニック状態になってしまう。
今の日本には、そうしたパニックをはね返すだけの耐性はない。

一方、K国は、それを口実に、何をしてくるかわからない。
報復にと、種子島の宇宙開発センターに、ミサイルを打ち込んでくる
可能性も高くなる。
彼らは、核兵器はもちろん、生物兵器、化学兵器ももっている。
が、それ以上に警戒しなければならないのは、
彼らの思考回路が、私たちの思考回路とはちがうということ。
私たちが考える論理が、そのまま通ずる相手ではない。

またAS首相は、こうした危機をうまく利用して、再々度、権力の維持を
図ろうとしている。
愛読書が、『ゴルゴ13』であることを、忘れてはいけない。
まともな思考能力がないことは、数々の失言で、すでに実証済み。
おまけに支持率は10%そこそこ。
そんなK国と、AS首相がまとものぶつかったら、この日本は、
どうなる?
今、日本は、戦後最大の危機を迎えつつある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
K国のミサイル 北朝鮮ミサイル 迎撃 反対 報復 過剰反応 戦争)
09年3月22日記―ミサイルの発射は、4月4日と予想されている。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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