Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, April 26, 2009

*Magazine, April 27th 2009

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   27日号
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●新年度(2009年度)

+++++++++++++++++

毎年、1月1日を、新年度としている
人は多い。
しかし私にとっては、4月1日が、
新年度。
毎年、4月1日を迎えると、緊張感が
ググーッとわいてくる。
今が、そうだ。

+++++++++++++++++

●2009年度

前にも書いたが、私は55歳を過ぎるころから、60歳に向けて、
仕事を縮小することばかりを考えていた。
楽隠居とまではいかなくても、60歳を過ぎたら、仕事もほどほどに、
と考えていた。

が、その考え方は、まちがっていた。
その第一。
満60歳の誕生日を迎えた、その翌日のこと。
その日が、それまでの日々と、どこもちがわないことに驚いた。
(ちがうわけはないのだが……。)
満60歳の誕生日に向けて、自分の体が、どんどんと締めつけられて
いくように感じた。
「還暦だ」「退職だ」と。

いくら「私はちがう!」と叫んでも、そういう声は、弱い。
「あと1か月……」「あと10日……」「あと1日……」と。

で、その翌日、何も変わらなかった。
まったくいつもと同じように、その日が始まった。
だからうれしかった。

その第二。

今度は、満61歳の誕生日を迎えたときのこと。
ワイフと長男が、誕生日を祝ってくれた。
ささやかな3人だけのパーティだった。
そのとき、私は、はっきりと実感した。
「1年、得した!」と。

満60歳で私の人生が終わったとする。
(何も終わったわけではないが……。)
その満60歳から、それまでと同じように仕事ができた。
1年間、何も変わらず、仕事ができた。
だから「得した!」と。

友人のS君は、ちょうど満50歳のときにがんを患い、
それ以後、ずっと、闘病生活をつづけている。
そのS君も、同じようなことを言った。

「林君、人生は50年だよ。だからそれからの1年、1年は、
もうけものなんだよ」と。
そのときは、「そんなものかなあ」と思っていたが、満61歳の
誕生日のとき、S君の言った意味が、しみじみと理解できた。

これからは、1年、1年が、もうけもの、と。

●さて新年度!

もうけものの1年。
その1年を、どう使うか。
あとは、使い方の問題ということになる。
ぼんやりと過ごすのも、1年。
あと1年しかないと思って生きるのも、1年。

しかし1年たってみたとき、「得した!」と言えるようにするためには、
やはり緊張感をもって生きたほうがよい。
明日も、今日と同じ。
来週も、今週と同じ。
来月も、今月と同じ……。
そんな1年に、どんな意味があるというのか。
そんな1年を過ごして、そのあと、「得した!」と言えるのか。

……ということで、2009年度を迎えた。
今年度も、同じように、迎えることができた。
その2009年度にあたって、今、私は誓う。

2008年度よりも、暴れてやる!、と。

2009年、新しくBW教室へ入ってくるみなさんへ、

どうか期待していてください。
今までの経験すべてを、惜しみなく、みなさんのお子さんに注ぎます。
みなさんのお子さんを、すばらしい子どもに、します。
まあ、見ててください、はやし浩司の実力。
40年、ダラダラと生きてはこなかった。

お任せください。
約束します。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【家族】

++++++++++++++++++++++

今朝は、どこかの男と、言い争っている夢を見た。
私はかなり興奮していた。
そのせいか、起きると、軽い頭痛がした。
今、あまり精神状態は、よくないようだ。
理由はわかっている。

近く、実家の寺で、法事がある。
父の33回忌である。
私は若いころから、「実家へ帰る」となっただけで、
精神状態が、たいへん不安定になる。
家族自我群による「幻惑」によるものと考えてよい。
本能に近い部分にまで、「刷り込み」がなされて
いるため、それを克服するのは、容易なことではない。

満61歳になった今でも、その「幻惑」はつづく。

+++++++++++++++++++++

●家族自我群

今の今も、家族による束縛感、呪縛感に苦しんでいる人は多い。
家族であるがゆえに、わだかまりや、こだわりも、増幅する。
またそれから逃れることもできない。
できないから、悶々と、いつ晴れるともない、苦しみの中でもがく……。
こうした呪縛感を総称して、「家族自我群」という。
またそれから生まれる苦しみを総称して、「幻惑」という。
先にも書いたように、本能に近い部分にまで刷り込みがなされているため、
その自我群から、自ら解放することは、容易なことではない。

●家族

「家族」というと、甘い響きがそこに漂う。
そうである人には、そうかもしれない。
しかしその家族も、どこかで歯車が狂うと、そのままバラバラになる。
なって、今度は、重圧感となって、その人を襲う。
家族イコール、「安住の場」とは、かぎらない。
「家族である」という、安易な『デアル論』だけで、
容赦なく、その人を攻撃する。
幸運にしても、そういった苦しみを知らない人には、
自我群の説明をしても、意味はない。
理解することすら、むずかしい。

●入浴

……ここまで書いて、朝風呂に入ってきた。
軽い偏頭痛のばあい、朝風呂に入ると、そのまま治る。
これにも、理由がある。
偏頭痛は、血管が拡張して起こる。
拡張した血管が、その周囲を取り巻く神経を圧迫する。
それで偏頭痛が起こる。

若いころは、このメカニズムがわからず、苦労した。
プラス苦しんだ。
ひどいときには、「頭を切り落としてくれ!」と叫ぶほど、
痛かった。
が、メカニズムがわかれば、対処の仕方もわかる。

やや熱めの風呂に入って、一度、血圧をあげる。
瞬間、偏頭痛はひどくなるが、5~10分もすると、今度は
血管が収縮を始める。
それで偏頭痛は、消える。
今朝、目が覚めたときの頭痛は、偏頭痛だった。

●自我群と闘うために

家族自我群と闘うためには、まず、そのメカニズムを知る。
何度も書くが、これは本能に近い部分にまで刷り込みがなされているから、
それと闘うのは、容易なことではない。
理性や知性で、割り切ることはむずかしい。
が、「幻惑」は、読んで字のごとく、「幻惑」。
「幻(まぼろし)」。
実体があるわけではない。

私のばあい……という言い方はおかしいが、あるときから、そこにある
運命を受け入れることにした。
自分の境遇をのろっても、しかたない。
嘆いても、始まらない。
だったら、そこにある運命を、そのまま受け入れる。
とたん、心が、ウソのように軽くなったのを覚えている。

●今……

今、私が苦しんだ、家族自我群による幻惑は、ウソのように消えた。
母が他界し、つづいて兄が他界し、「家」そのものが、消えた。
残るのは、実家という「古家」と「法事」のみ。
しかしそれらは、もう(心の問題)ではない。

が、すべての呪縛から解放されたというわけではない。
実家の周辺には、親類が住んでいる。
近所の人たちとのつきあいもある。
伯父、伯母、それに叔母もいる。
しかし我が身を振り返ってみれば、その私も61歳。
正直なところ、「もう、いいかげんにしてほしい!」と叫びたい。
が、こうなったら、居直って生きるしかない。
「どうでもなれ」と、投げ捨てて生きるしかない。

●幻惑に苦しんでいる人へ

私のBLOGへの検索・ワードを見ると、「家族による苦しみ」
についてのものが、多い。
(BLOGによっては、どんな言葉を検索して、アクセスして
きたかが、わかるようになっている。)

つまりそれだけ、この問題は、深刻ということ。
またそれで悩んでいる人も、多いということ。
逆に、そういう人たちをアクセスしてみると、そのBLOGには、
こう書いてあったりする。
「親を殺してやりたい!」と。

それは殺意というよりは、自分の体にしみ込んだ(体質)そのものを
消し去りたいという思いから、発するものと考えてよい。
あえて言うなら、自己嫌悪。
はげしい自己嫌悪。
それが転じて、「殺してやりたい!」となる。

しかしけっして、あせってはいけない。
時間はかかるかもしれないが、この問題は、時間が解決してくれる。
時間がたてば、かならず、解決する。
だから……。
それまでがんばって、がんばって、生き抜くこと。
健康だけを大切に、生き抜くこと。
それで解決する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
家族自我群 自我群 幻惑 家族とのわだかまり こだわり はやし浩司 確執 
親子の確執。)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●権力の魔力(Power of Devil)

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M党のOZ氏が、「続投する」と言っている。
いわく、
「自身が収賄罪など犯罪に手を染めたという事実はないと申し上げてきた。主張してきた
ことが事実であると明らかになった」(Nikkei)と。

本当かな?

一方、側近中の側近であった、第一秘書は、そのまま起訴。
それについて、T次席検事は、「ダミー団体の名義を利用する巧妙な方法で、国会議員の政
治団体が建設業者から多額の寄付を受けてきた事実を国民の目から覆い隠した重大、悪質
な事案」と説明。

わかりやすく言えば、OZ氏は、「私は関係ない」と。
が、こんな言葉でだまされるほど、国民は、バカではない。
第一秘書のした「巧妙な行為」(T次席検事)を指示したのは、だれか?
そんなことは、その(マネー)が、最終的にすべて、どこへ向かったかをみれば
わかるはず。
N建設からだけでも、何しろ3億円近い献金である。
そんな献金の流れを、「知らなかった」では、すまされない。
つまりOZ氏のイメージは、それほどまでに、悪い。
悪いにもかかわらず、「続投する」と。

これではますます、M党イコール、OZ氏というイメージが定着してしまう。
同時に、今、あのOZ氏に、さわやかな清潔さを感ずる人がいるだろうか。
当の本人は、街頭に出て、笑顔を作りながら握手戦術を繰り返している。
「涙までこぼして、無実を訴えている」(C新聞)という。
言いかえると、それほどまでに(権力の座)は、おいしいものなのか?

+++++++++++++++++++

●権力

昔、何かの講義の場で、ある教授がこう言った。
「金がほしかったら、弁護士になれ。勉強したかったら、裁判官になれ。権力が
ほしかったら、検事になれ」と。

この3職をまとめて、「法曹(ほうそう)」という。

検事がどのように権力を行使しているかは知らないが、しかし検事ともなると、
電話一本で、警察を自由に動かすことができる。
暴力団の親分でも、検事の前では、借りてきた猫の子のようにおとなしい。
が、政治の世界ともなると、こうした「力」が、何十倍、何百倍も強くなる。
今回、AS首相は外遊を繰り返しているが、一回の外遊で、5~7億円の費用が
かかるという。
もちろん飛行機は、政府専用機。

そういう世界にいる人から見れば、N建設からの献金、3億円など、まさにハシタ金。
OZ氏自身も、実はそう思っているのではないか?
「どうして、それっぽっちで?」と。
あるいは「みんなやってるじゃ、ないか?」と。

●物欲

話はそれるが、物欲を満たしたからといって、それで精神が高揚するということは
ありえない。
大脳生理学上で考えても、ありえない。
たとえば今、あなたが欲しいものをどんどんと手に入れたとする。
しかしそのことと、精神の高揚とは、まったく関係ない。
「私はすばらしい人間になった」と思ったとしても、それは錯覚。

物欲というのは、あくまでも脳の中のホルモンの作用によるもの。
ドーパミンが線条体を刺激して、条件反射が起きる。
物欲が起きる。
が、それを満たしたところで、いい気分にはなるかもしれないが、大脳の精神活動に
影響を与えるなどということは、大脳生理学で考えても、ありえない。

ひとつの例として、超高級な衣服を着た、女性を見ればよい。
超高級車に乗っている、男性を見ればよい。
さらに、古今東西の独裁者たちを見ればよい。
すべての物欲を満たしたはずなのに、ロクなのが、いない。

権力、またしかり。

●誤解と錯覚

もうおわかりのことと思う。
権力者イコール、人格者ではない。
ないが、みな、権力者イコール、人格者と誤解してしまう。
錯覚してしまう。
金持ちイコール、成功者と誤解するのに似ている。
一般世間の人たちだけではない。
当の本人ですら、誤解してしまう。
錯覚してしまう。

ふつうなら自分の側近中の側近が、逮捕、起訴されたら、それに恥じて、
……というより、その側近の罪をかぶってでも、身を引く。
「部下に責任をかぶせるのは、つらい。私がかぶります」と。
それを「私は知らなかった」「私は関係ない」と、別のところでは笑顔を
ふりまく。
このおかしさ。
この異常さ。
権力の魔力にとりつかれると、そういう常識まで失ってしまう。
OZ氏がどうのこうのというよりは、その向こうにある権力の魔力に、改めて、
驚く。

「AS首相よ、OZ氏よ、そうまでしても、権力の座にしがみつきたいか!」

しかし考えようによっては、かわいそうな人たちである。
あれほどまでの人たちに囲まれながら、心の中は、カラッポ。
まわりの人たちの心も、カラッポ。
そこにあるのは、孤独だけ。
みながチヤホヤするのは、そのオコボレがほしいから。
チヤホヤする人たちにしても、その程度の人。
だからそこにあるのは、孤独だけ。

誤解と錯覚の世界だけに住んでいると、そういう人の心までわからなくなる(?)。

まあ、あえて言うなら、OZ氏よ、引退しなさい。
M党の未来のために、引退しなさい。
あなたが続投すればするほど、結局は、J党のAS首相を勢いづかせるだけ。
人間の心の醜さを、世に残すだけ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画『オーストラリア』(Ausutralia)

++++++++++++++++++

昨夜、わざわざ隣町まで行って、
映画『オーストラリア』を見てきた。
浜松の映画館でも上映していたが、先週で打ち切り。
それで隣町まで。

で、星はもちろん5つの、★★★★★。
職業がら、子どもが救出されるシーンに、私は弱い。
涙、ポロポロ。
みなが再会して、さらに涙、ポロポロ。
このところ、何かにつけて、涙もろくなった。
(「肝」機能が衰退しているためかもしれない。東洋医学。)

オーストラリア英語といっても、州によってちがう。
『オーストラリア』の中で使われていた英語は、
北部オージィ?
NSW英語ともちがったし、メルボルン郊外の
カントリー英語ともちがった。
しかし久々に、生の(?)、オーストラリア英語を
耳にして、うれしかった。

ところでオーストラリアでは、
「牛や羊を、(追う)」ことを、droveという。
「drive」の過去形ということになるが、「drove」は、
現在形として使う。
そこで「牛や羊を追う人」を、「drover」という。
主人公の男の名前が、その「ドローバー」だった。

その英語を聞きながら、昔、その単語の意味を
一生懸命教えてくれた、友人のことを思い出していた。
……というより、友人の顔が浮かんできた。

ところどころに、オーストラリアのブッシュ・ソング
が流れ、気分は、最高!
それで星は、5つ。
オーストラリアに何かの思い出のある人には、
たまらない映画だと思う。

家に帰ってきたのが、夜中の11時半過ぎ。
そのまま床に入って、眠った。

+++++++++++++++++++

●Acid Milk

映画館から帰ってくるとき、大きく「Acid Milk, YY」と書いた車と
すれちがった。
それを見て、ワイフと2人で笑った。

英語で、「Acid Milk」というと、「覚せい剤」を意味する。
それについては、こんな思い出がある。

学生時代、メルボルン港に、サクラ丸という、日本商品の見本市船が入港した。
三井物産の支店長から、アルバイトの学生を、30人ほど集めてほしい
という依頼を受けた。
もちろん私も、アルバイトをさせてもらった。
そこでのこと。

あの「カルピス」の試飲コーナーもあった。
しかしみな、遠巻きにしてながめているだけで、だれも飲まない。
それもそのはず。
「ピス」は、そのまま「小便」を意味する。
だから「カルピス」は、「牛の小便」となる。
さらに「これは何だ?」と聞かれたとき、「乳酸飲料」を直訳すると、
やはり、「Acid Milk」となる。
オーストラリア人が、飲むわけがない!

これは余談。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【年齢論】

●ニコール・キッドマン

+++++++++++++++++

ニコール・キッドマンの美貌については、
今さら、語るまでもない。
しかし映画『オーストラリア』の中の
ニコール・キッドマンは、円熟した女性の美しさ
というか、これからの大女優への変身を
期待させるような美しさを、たたえていた。

女性が本当に美しくなるのは、やはり
30~35歳前後ではないか。
ニコール・キッドマンもそれくらいの
年齢だと思うが、確かなことはわからない。
たいていの女優は、この年齢を境に、
スクリーンから消えていく。
若さと肉体だけを売り物にしている女優ほど、
そうだ。
が、この年齢をうまく通り過ぎた女優は、
そののち、大女優へと変身していく。
メリル・ストリープも、その1人。
ニコール・キッドマンは、その年齢を
うまく通り過ぎた。

つぎの作品も、かならず、見る。

+++++++++++++++++

●35歳という年齢

男性のことは、よくわからない。
しかし女性は、35歳を過ぎると、急速に老けていく。
40歳になるころには、老人顔になる。
もう少しわかりやすく言うと、40歳を過ぎると、
その女性が老人になったとき、どんな顔になるか、
それが簡単に想像できるようになる。
30歳以前の女性では、それがわからない。
(何も老人顔になるのが、悪いと言うのではない。
どうか、誤解のないように!)

で、この時期、その女性が、いわゆるオバチャンに
なるかどうかが、決まる。
(もちろんオバチャンにならないほうが、よいに
決まっているが……。)

教養があるとかないとか、文化性があるとかないとか、
そういうことではない。
その方向づけがあるかどうかということ。
つまりこの時期からの方向づけが、その女性のそれからを
決める。
この時期に、本を読んだり、美術を鑑賞したり、
より広い世界を見たりする習慣があるかないかということ。
その習慣がしっかりしている人は、そののち、高い
知性と理性を光らせることができる。
そうでなければ、そうでない。
そのまま、あのオバチャンになっていく。

つまらない世間話にうつつを抜かし、家族のグチを
いつまでも話しつづける。
厚化粧ばかりを塗り重ねるが、頭の中は、カラッポ。
電車やバスの中でも、まわりの人にお構いなく、
ペチャクチャ・ペチャクチャ、ゲラゲラ、ギャーギャー、と。
物欲と食欲と性欲のかたまり。
そんなオバチャンになっていく。

で、あとはお決まりの老人コース。
つまり女性にとっては、(男性にとっても、そうかも
しれないが……)、35歳から40歳までが、人生の
大きな節目になっている。
言うなれば、それまでの年代は、その時期の基礎づくり
の年代ということになる。

●品性

ついでに、品性というのは、(落差)の問題。
自分がより高い品性をもって、それまでの自分が低かったことを知る。
が、その品性には、上限はない。
(現在の自分)に、けっして満足してはいけない。
満足したとたん、その日を境に、品性は、下落する。
それはちょうど健康論に似ている。

健康のための運動をやめたとたん、その人の健康は下落する。

が、(そこにいる人)には、それがわからない。
知性も理性も、そして品性も、より高い人からは、低い人がわかる。
しかし低い人からは、高い人がわからない。
わかりやすく言えば、賢い人からは、バカがわかる。
が、バカからは賢い人がわからない。
(ここでいう「バカ」とは、「バカなことをする人のこと」(「フォレスト・ガンプ」)
をいう。知的な意味で、バカというのではない。誤解のないように!)

先日もある女性と、電話で話していたときのこと。
このところどこか認知症気味(?)。
どうでもよい家族のグチを、何度も繰り返し話していた。
そこで私が、「ぼくは、そんなバカではないと思います」と言うと、
何を勘違いしたのか、突然金切り声で、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

そこで釈迦は。「精進(しょうじん)」という言葉を使って、
日々の弛(たゆ)まぬ研鑽(けんさん)の重要性を説いた。
その努力を怠ったとたん、その人は、そのまま元の
世界に逆戻りしてしまう。

……と書くと、「そんなたいへんなこと、できない!」と
思う人もいるかもしれない。
しかし実は、それは楽しいことでもある。
たとえて言うなら、心の旅。
未知の世界を、ひとりで旅をするような、そんな感じがする。
その旅に出るか出ないかは、あとは、勇気だけ。
一歩、踏み出してみれば、あとは、なんでもない。

『心を解き放て! 体はあとからついてくる!』(アメリカの格言)。

……と書くと、「じゃあ、林、あなたはどうなのだ!」と言われそうな
気がする。
「お前だって、偉そうなこと言えるクチではないだろ!」と。

そう、その通り。
が、海抜3000メートルの山から、4000メートルの山には登ることは
できないが、300メートルの山から、400メートルくらいの山なら、
登ることができる。
無理はしていないし、無理をする必要もない。

それに品性を磨くということは、だれのためでもない。
自分のためである。
たとえばそうでない人たちから、一歩抜き出ると、そういう人たちが、
低いところにいるのが、たしかにわかる(失礼!)。
しかしそのために品性を磨くのではない。
またそれがわかったところで、意味はない。
というのも、高低といっても、あくまでも相対的なもの。
自分より、より高い品性をもった人は、いくらでもいる。

つまり品性を磨くといっても、それは、あくまでも自分のため。
他人を見下すため、ではない。
またそういうふうに見下してはいけない。
人は人、私は私。

ただ、相手にしないというようなことは、ある。
相手にならないというようなことも、ある。
つきあいたくないというか、つきあっても、ムダというように、
考えることはある。

で、数日前には知らなかったことを、今日、知る。
数日前にはわからなかったことが、今日、わかる。
それは原野で、小さな宝石を見つけるのに似ている。
それがまた「心の旅」を楽しくさせる。

その人の品性は、あくまでも、その結果。
結果として、その人の身につく。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●実家への仕送り

++++++++++++++++++++

現在、東南アジアや南米からの労働者たちは、
収入の多くを、故郷の実家へ仕送りしているという。
学生時代からの友人であるM君が、そう言った。
しかし本当に、そうだろうか?
そういう話を聞くと、「すごいことだ」と、
みな思う。
しかし本当にそう思ってよいのだろうか。

++++++++++++++++++++

10年前、20年前なら、そうだったかもしれない。
しかし今は、時代が変わった。
世界も変わった。
そういうこともあって、私は「?」と思っている。
いったい、何パーセントの人が、平均、いくら
仕送りしているというのか?

それに南米からの労働者といっても、ほとんどが、家族連れ。
私が知る限り、単身で出稼ぎに来ている人は、ゼロ。
あの人たちの家族観には独特のものがあり、離れて暮らす
ということは、ありえない。
「家族あっての仕事」と考えている。

が、中には、故郷の両親に……という人もいるかも
しれない。
とくに中国系の労働者たちは、そうかもしれない。
結婚前の独身の労働者たちも、そうだ。
しかし、そういう人たちも、今では、意外と少ないのではないか?
故郷の実家に送金するというよりは、故郷の自分の銀行に
送金している?
私には、そう見える。

で、同時に、こう思う。
「そういう話を美化してはいけない」と。

仕送りをしたことがある人ならともかくも、
一度も仕送りをしたことがない人は、
こういう話を美化してはいけない。

実家への仕送りなど、美談でも何でもない。
若いときから、収入の約半分を、実家に
仕送りをつづけてきた私が、そう言うのだから、
まちがいない。

だれが送りたくて、送るかア!
金銭的負担というより、その社会的負担感には
相当なものがある。
重圧感と言ってもよい。

あなたが親なら、子どもに仕送りなど、させてはいけない。
あなたが子どもなら、親に仕送りなど、してはいけない。
そんなことをしても、無駄。
最初は感謝し、感謝されるが、それも時間の問題。
1年、2年とたつと、それが当たり前になる。
5年、10年とたつと、逆に、親のほうが子に、
請求するようになる。
子は親に、請求されるようになる。

こうした依存、被依存関係ができたら最後、
(仕送り)は、仕送りでなくなってしまう。
義務になってしまう。

私のばあいも、最初のころはともかくも、
やがてそれが当たり前になり、実家の母たちも、
私からの仕送りを前提にして、生活を考えるようになった。

しかも母には母のプライドがあったのだろう。
私が送ったお金で生活しながら、親類や近所の
人たちには、「先祖からの財産で生活している」と
言っていた。

が、それだけではない。

実家からさらに、母の実家へと、お金が流れるようになった。
母の実家を継いだ、母の弟氏(=伯父)には、定職がなかった。
こんなことを書くと、伯父は怒るかもしれないが、事実は事実。
母の直筆のメモも残っている。

また、それで親の子の絆が太くなるということは、まずない。
世の中には、親をだます子どもは多いが、子をだます親もいる。
マネーがからんでいるから、親子でも、人間関係は
ドロドロとしたものになる。

親は親で生きる。
子どもは子どもで生きる。
子どもを出稼ぎの道具として使うくらいなら、もとから子どもなど
生まないこと。

子どもに生活費を仕送りさせながら、「私はいい息子をもって、
幸せ」は、ない!
よい人間関係があれば、まだ救われる。
しかし親子関係だって、壊れるときには壊れる。
壊れても、そこで仕送りを止めるわけにはいかない。
あとに残るのは、その重圧感だけ。
その重圧感と、闘わねばならない。

一方、欧米では、親子でも、経済は他人と考える。
夫婦でも、他人と考える。
それがよいことなのか、悪いことなのか、わからない。
議論もあると思うが、こと「実家への仕送り」という話については、
私は聞いたことがない。
中にはあるかもしれないが、私は聞いたことがない。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●老後の統合性

+++++++++++++++++

老後の統合性については、何度も
書いてきた。
(すべきこと)と、(していること)を
一致させる。
それを「統合性」という。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)。
それをする。

が、「退職しました。これからゴビの砂漠へ
行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、
身につかない。
長つづきしない。
生きがいも生まれない。

その統合性の準備は、満40歳くらいから
始めるとよいという。
「40歳は、人生の正午」と言われている。
が、それでも遅いかもしれない。

統合性の下地を作るだけでも、10年とか
20年とか、かかる。
そうした地道な下地があってはじめて、統合性の
確立ができる。

++++++++++++++++++

●愛他的自己愛者(偽善者)

それにしても愛他的自己愛者が多いのには驚かされる。
つまり偽善者。
自分をよく見せるために、ボランティア活動や、慈善事業をしたりする。
派手なパフォーマンスを繰り返す。
が、見抜くのは、簡単。
どこかへん?
どこか矛盾している?
そう感じたら、愛他的自己愛者と考えてよい。

たとえばもう25年近くも前になるだろうか。
田丸謙二先生の家に遊びに行ったら、1人の女性がたまたま、遊びに来ていた。
当時、50歳くらいではなかったか。
話を聞くと、東南アジアの難民キャンプで、難民たちの世話をしているという。
その女性といっしょに、私のワイフも含めて、みなで夕食を食べた。
そういう(本物の女性)に一度でも会うと、「私はアフリカで……」というような
人が、いかにインチキかわかる。
本物の絵を見たあと、夜店で売っているような絵を見るようなもの。

その女性のばあいも、日本にいたのは数日だけ。
たしかそのつぎの日には、カンボジアだったか、タイへ戻るということだった。
つまりそういう人には、一貫性がある。
すご味がある。
その人の人生を貫く、太い柱のようなものを感ずる。

言い忘れたが、その女性は、左手に大きな包帯を巻いていた。
何かの活動をしているときに、怪我したということだった。
(今、思い出したが、怪我したから、一時帰国したということだった。
ワイフにこの話をしたら、ワイフが、「お医者さんだったわね」と言った。
そう、医師だった。)

が、世の中には、一方でテレビのタレントをしながら、こうしたボランティア活動(?)
を売り物にしている人たちがいる。
そこに至るプロセスがあれば、まだ理解できる。
若いころからホームレスの世話をしてきたとか、孤児のめんどうをみてきたとか、など。
が、そうした人たちは、ある日突然、降ってわいたような話に乗って、難民救済運動
を始めたりする。
団体は団体で、そういう人たちを利用して、募金を集める。

しかし難民救済という活動がいかにたいへんなものであるかは、恐らく、それを実際に
したことがある人でないとわからないだろう。
私にもわからない。
しかし難民キャンプにいる人たちは、私たちが想像を絶するような生活をしている。
多くはやせこけ、重い皮膚病にかかり、体の一部はすでに腐り始めている……。
そういう人たちを素手で抱きあげ、体を湯で洗ってやる……。
きれいごとだけで、できるような活動ではない。
それが救済活動である。

さらに言えば、一方で数十万円もするような衣装で身を包みながら、
他方で、難民救済活動をしているだと?

テレビに出るたびに、2時間近くもかけて化粧をしながら、他方で、
難民救済活動をしているだと?

中には、写真撮影のためだけに、難民キャンプで子どもを抱いた人もいた。
その人は、写真撮影が終わるとすぐ、手や体を消毒していたという。
ある週刊誌にそれがすっぱ抜かれ、問題になったことがある。

もしふつうの人が、まともな神経で、そんなことを繰り返していたら、
それだけで精神がバラバラになってしまうはず。
つまり偽善をつづけるにも、それなりの体力と気力がいる。
好きでもない相手と、ともに生活するようなもの。
ストレスがたまって、気がへんになる。

で、身近でもこんなことがあった。
その女性は、ボランティア活動として、近所の独居老人の世話をしている
ということだった。
しかしその一方で、ある日、私の知人の家に怒鳴り込んできたという。
何でも知人の家にある高い木から落ちる枯れ葉で、樋(とい)が詰まって
しまうというのだ。

その知人は、こう言った。
「独居老人の世話をするという高邁な精神の持ち主が、他方で、枯れ葉程度の
ことで、大騒ぎする。
矛盾しているとは、思いませんか」と。

そう、矛盾している。
たしかに矛盾している。
そういう矛盾を感じたら、ここでいう愛他的自己愛者と考えてよい。
つまり自分を飾るために、また人からよい人と思われたいがために、
ボランティア活動をしているだけ。
ボランティア活動を利用しているだけ。

で、この話には、まだつづきがある。
この女性が、やがて実父の介護をするようになった。
が、表ではすばらしい娘を演じながら、その裏で、実父を虐待していた。
毎度、食事は、ご飯と味噌汁だけ。
昼間は、部屋に鍵をかけて閉じ込めていた。
が、親類の人が見舞いに来たりすると、みなの前で実父の背中をさすって
みせていた。
すばらしい娘を演じてみせていた。
代理ミュンヒハウゼン症候群というと、母親と子の関係を想像するかもしれないが、
何も、母親と子の関係だけではない。
場所も、病院内だけとは、かぎらない。
陰で親を虐待しながら、すばらしい娘を演じている女性となると、
それこそゴマンといる。

だからその知人は、こう言った。
「ああいうのを化けの皮をかぶった、タヌキというのです」と。

話を戻す。

愛他的自己愛者は、悪人より、タチが悪い。
悪人は、人をだまして、お金を奪う。
愛他的自己愛者は、善人ぶって、人の心を奪う。
弱い人を利用しながら、それを自分の名声や利益につなげていく。
何もアフリカまで行かなくても、本当にボランティア活動なるものがしたかったら、
まず身近なところから、始めてみたらよい。
街中で寝泊りするホームレスの人たちの世話でもよい。
孤児の世話を、親代わりになってしてみるのもよい。
そういう積み重ねをしたあと、アフリカへ行けばよい。
それができないというのなら、つまり、見せかけだけのボランティア活動なら、
すぐやめたらよい。

(補記)
世の中には、「やらないよりは、やったほうがいい」という意見もある。
「偽善であろうがなかろうが、やらないよりは、やったほうがいい」という意見もある。
が、偽善は偽善。
偽善が本物に変わることは、まず、ない。
偽善が本物になるためには、まずドス黒い心を、一度、真っ白にしなければならない。
だったら最初から真っ白な人のほうが、まだよい。
何もしないで、遠くからながめている人のほうが、まだよい。
できなければできないと、正直に言っている人のほうが、まだよい。
そういう人たちのほうが、より(善)に近いことになる。

この世で最大の罪は、弱者を利用して、それを食い物にすること。
偽善者が、そうだ。
そういう人たちがいるから、戦争が始まり、犠牲者が生まれる。
難民が生まれる。
言うなれば、偽善者たちが、その一方で、別の新たな犠牲者を生み出しているようなもの。
私たちは、見かけの(善)に、だまされてはいけない。

先に書いた、写真撮影のあと、手や体を消毒した人にしても、いまだに
看板だけは背負っているらしい。
が、そのあと、何らかの活動をしているという話は聞いたことがない。
「私財を投げ打って……」という話も、聞いたことがない。

私たちは、だまされただけなのか?
また、それで終わってよいのか?


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●ミサイルを迎撃してはいけない!(Urgent Warning)
(We should NOT intercept the North Korean’s Missile!)

+++++++++++++++++

あんなK国など、相手にしては、いけない。
国力は山陰地方の小さな県ひとつにも及ばない。
小さな国である。
アジアのみならず、世界でも最貧国のひとつに
なっている。

そんな国と、日本は、心中するつもりなのか。
しかも相手は、すでにまともな論理が通ずる
国ではない。

今ここで、それがミサイルであるにせよ、
それを迎撃すれば、日本とK国は、
そのまま交戦状態に入る。

たとえば漁船で、核爆弾を東京湾へ持ち込まれたら、
そのあと、日本は、どうなる?

カラのミサイル一発でも、東京の中心部に
撃ち込まれたら、日本は、どうなる?

そのときから日本は、大混乱。
日本の経済は、マヒ状態になる。

人工衛星のはずは、ない。
世界中の人は、それを知っている。
しかし彼らは、異常な思い込みによって、
それを「人工衛星」と主張している。
つまりその(思い込み)を基に、
日本に戦争をしかけてくる。

少し前、アメリカの政府高官は、K国を
「Mad Dog(狂った犬)」と
評した。

だったら、なおさら、相手にしてはいけない。

ミサイルにはまだ、核弾頭は積んでいない。
だったら、彼らのやりたいようにさせ、
そのあと、国際世論を、反K国に誘導する。
彼らを、国際世論で、兵糧攻めにする。

あんなガラクタに近いミサイルのために、
数100億円~もかけた、迎撃ミサイルを
撃って、どうする?

相手は、「相手にしてほしい」「相手にしてほしい」
と、駄々をこねている子どもと同じ(ライス)。

ここは、冷静になろう。
一度、迎撃したら、日本もあとへ引けなくなる。
ブッシュのイラク戦争を見れば、それがわかる。

だから、迎撃、反対!
あんな国は、本気で相手にしてはいけない。
また、その価値もない。

さあ、日本人よ、おとなになろう!

2009-3-27記


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