*This World vs That World
●この世vsあの世
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またまた同じ話で、ごめん。
前にも書いたが、仮にあの世があるとするなら、
私は、私たちが「この世」と呼んでいる、この世界のほうが、
実は「あの世」ではないかと思っている。
そして私たちが「あの世」と呼んでいる、死後の世界のほうが、
「元の世界」ではないかと思っている。
というのも、私たちが住んでいるこの世のほうにこそ、
天国もあり、地獄もあるからだ。
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●あの世がこの世?
人は死んだら、あの世へ行くと言う人がいる。
私は信じていない。
いないが、仮に、「あの世」があるとするなら、
ここでひとつの矛盾が生まれてくる。
あの世には、天国があり、地獄があるという。
ならば、なぜ、今、この世界で、地獄以上の地獄があり、
天国以上の天国があるのか、ということになる。
今さら地獄がどんな世界で、天国がどんな世界かを、
ここに書く必要はない。
そこで私たちが言う「あの世」について考えてみる。
一般的には、「あの世は広大無辺に広く、時の流れもない」という。
となると、そんな世界から見ると、人間が今住んでいるこの世界など、
ちっぽけなもの。
100歳まで生きたとしても、宇宙的規模で見るなら、星のまばたきの
一瞬にもならない。
人類の歴史を、20万年にしても、同じようなもの。
となると「あの世」のほうこそ、「元の世界」と考えたところで、何ら、
おかしくない。
私たちは、「あの世」から「この世」へやってきて、地獄や天国を、
この世で経験している。
●あの世の矛盾
空想の世界で、「あの世」を考えてみる。
が、それは、択一的に考えるなら、
(1) 想像を絶するほど、この世とちがう世界。
(2) あるいは、この世とかぎりなく似ているか、同じ世界、ということになる。
中間というのは、考えられない。
人間だけを中心にして、(命)を考えてはいけない。
魚なだって、鳥だって、命。
バクテリアだって、虫だって、命。
人間にだけあの世があると考えてはいけない。
もしそうなら、いつからあの世ができたかという問題に直面する。
1000年前なのか、それとも10万年前なのか?
・・・と、まあ、考えれば考えるほど、矛盾に満ちてくる。
が、逆に、あの世こそが、元の世界で、この世があの世と考えると、
かなりの矛盾が解消される。
どこかの世界に、私たちの知らないまったく異質の世界がある。
その世界から、ときどき、あたかも旅行でもするかのように、
この世に(命)がやってきて、それぞれの世界を体験する。
頭のどこかに、映画『マトリックス』に出てきたような世界を思い浮かべてもらえばよい。
●実益
こんなことを考えて、何の役に立つのかと思う人もいるかもしれない。
しかしそう考えると、この世の見方そのものが、大きく変わる。
たとえば「この世はすべて、幻覚」「大切なのは、この世を生きる、
私やあなたの命」と。
あるいはモノのもつ、無意味さというか、それがよくわかる。
私たちが懸命に追い求めている名誉や地位や財産にしても、命の前では
カスミのようなもの。
カスミにもならないかもしれない。
が、何よりもすばらしいのは、ほんとうに大切にしなければならないものと、
そうでないものを、区別することができるようになること。
さらに言えば、自分の住んでいる世界を地獄にするのも、天国にするのも、
私たちの考え方しだいということになる。
話が飛躍したので、順に説明する。
●希望論
こんな例で考えてみよう。
私の知人の中に、現在、地獄のような(?)、経験をしている人がいる。
ことの発端は、2人の息子の離婚である。
2人の息子が、あいついで離婚した。
詳しい原因はともかくも、それぞれに2人ずつの子ども(孫)がいた。
まだ養育費が必要な子ども(孫)たちであった。
そこで2人の息子は、養育費を毎月支払うことで合意した。
同時に、私の知人(父親)が、その連帯保証人になった。
2人の息子たちが養育費を払えないときは、知人がそれを払うことになった。
が、この不況。
2人の息子は、職を失ってしまった。
養育費が払えなくなった。
とたん、その支払い請求書が、知人のほうに回ってくるようになった。
家庭裁判所で作成した連帯保証契約である。
「払えません」「お金がありません」では、通らない。
最終的には、強制執行力のある請求書である。
知人は、こう言ってがんばっている。
「私は年金生活者だ」「収入がない」と。
さらに「家屋敷を取られたら、何代にもわたってつづいたM家が、
断たれてしまう」と。
しかし土地や家、借家がある以上、こういう言い逃れはできない。
それでその知人は、「地獄のような(?)、経験をしている」、ということに
なる。
しかしこう考えたら、どうだろうか。
大切なのは、命のつながった孫たちの幸福、と。
その幸福を前にしたら、「家」の価値など、取るに足らないもの。
家や財産にこだわるほうが、おかしい。
あるいは自分の息子や娘が、困窮していたら、あなたはどうするだろうか?
それでも、「息子や娘の幸福より、家のほうが大切」と、あなたはがんばる
だろうか。
もしあなたがそう考えるとしたら、
私は「?」マークを100個くらい、並べたい。
相手が孫でも、同じ。
離婚して、連絡が途絶えたとしても、孫は孫。
どうせこの世は、幻覚。
目に見えるすべてのモノは、幻覚。
「命」至上主義で考えれば、モノのもつ空しさ、はかなさが、よくわかる。
それもそのはず。
この世そのものが、あの世、つまり元の世界から見れば、幻覚。
そんな幻覚に心を奪われ、命を粗末にするほうが、どうかしている。
知人は地獄のような経験をしているが、ものの考え方をほんの少し
変えれば、今の世界を、天国にすることもできる。
●研ぎ澄まされた現実論
こう書くと、「林の考え方は、現実的ではない。むしろ現実から遊離している」と
批判されそうである。
しかし実際には、その逆。
私たちは、この現実世界にありながら、あまりにも非現実的なものに毒されすぎている。
たとえばものの価値観、幸福観、人生観、成功・失敗論などなど。
中身にある(現実)を見る前に、外観である(非現実)に、心を奪われてしまっている。
もっと言えば、先にも書いたように、「大切なものを、大切でないと思い込み」「大切で
ないものを、大切」と思い込んでしまっている。
その一例として、「モノ」をあげた。
今では、どの家にも「モノ」があふれかえっている。
モノ、モノ、モノ……で足の踏み場もないような家も多い。
中には、そういう家ほど、「豊か」と誤解している人もいる。
さらに言えば、金持ちイコール、成功者イコール、人格者と誤解している人もいる。
私は、そういう人たちこそ、現実離れしていると言っている。
が、この世を(あの世)と考えることによって、(あくまでも空想の世界での話だが)、
こうした現実から、一度、目をそらすことができる。
そして今一度、何が、本当に大切なのかを知ることができる。
そう、私たちが今、「現実」と思っている世界こそのほうが、「非現実」の世界という
ことになる。
それを知るためにも、一度、「この世」と「あの世」を置き換えてみる。
とたん、その向こうに、「研ぎ澄まされた現実」が見えてくる。
●無
私たちは、「幻想という現実」の中で生きている(?)。
仏教者の中には、それを「無」と表現した人もいる。
「この世はすべて無である」と。
この私にしても、光と分子の織りなす世界で、ただ踊らされているだけ(?)。
そんなわけで、「あの世」こそ、実は、「元の世界」であり、「この世」こそが、
「仮の世界」と考えても、何もおかしくない。
あくまでも「あの世」があるとするなら、という前提での話だが……。
しかしそう考えると、また別の世界が、その向こうに見えてくる。
Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司
●Who wants to live forever?
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よく知られた曲に、「Who wants to live forever?(だれが永遠に生きたいか?)」
というのがある。
いろいろなシンガーが歌っているが、私はグレゴリアンが歌うのが、好き。
おごそかで、それに重みがある。
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●どう死ぬか
「だれが永遠に生きたいか?、いや、だれもそんなことを望んでいない」と。
が、もし、私から(考える力)が消えたとしたら……。
「死んでもいい」とは思わないかもしれないが、「生きていても意味はない」と
思うかもしれない。
どこかのオバチャンと、意味のない会話をつづけるようになったら……。
(オバチャンでなくても、オジチャンでもよいが……。)
考えるだけでもゾッとする。
それにいつまでも無駄に生きて、ワイフや息子たちや、その家族の死を見るように
なったら、たぶん、今の私なら、それに耐えられないだろう。
生きていることをのろうようになるかもしれない。
人は、いつも、どう生きるか考える。
しかしそれではいつまでたっても、結論は出てこない。
そこで発想を変えて、どう死ぬかを考える。
その結果として、どう生きるかが決まってくる。
「永遠に生きよう」と思うから、苦しむ。
悩む。
しかし「永遠に生きても無駄」と考えることによって、その先に、生き様(ざま)が
見えてくる。
それがわからなければ、あのオバチャンたちの、とりとめのない、いつまでも
つづく無意味な会話に耳を傾けてみることだ。
(繰り返すが、オバチャンでなくても、オジチャンでもよい。
以下、すべて同じ。)
ペチャペチャ、クチャクチャ……と。
人生の晩年にあって、しかも人生の完成期にあって、その程度の会話しかできない。
そういう自分に恥じることもなく、ただしゃべりつづける。
「隣の息子がね……」「うちのダンナがね……」「娘の婿がね……」と。
●脳みその穴
ある年齢になると、脳みその下に、穴があく。
その穴から、知識や知恵、経験が、ボロボロとこぼれ落ちていく。
もっとも私がそれに気づいたのは、50歳も過ぎてからのことだった。
当時、こんなことがあった。
何かの原稿を書いているとき、「?」と思った。
「以前にも、同じことを書いたことがあるぞ」と。
そこで自分の原稿集をさがしてみると、ほとんど同じ内容の原稿があることを知った。
しかも私にとってショックだったのは、「遠い昔に書いた原稿」と思っていた
その原稿が、ほんの、その数年前に書いた原稿だったことだ。
つまりその数年の間に、自分が書いた原稿の内容すら、忘れてしまっていた。
以来、私はいつも自分の脳みそを疑ってみるようになった。
つまりそれまでの私は、脳みそというのは、進歩することはあっても、退化する
ことはないと信じていた。
とくに私が考えて、自分で書いた文章については、そうだった。
しかし実際には、書いた先から、ボロボロとこぼれ落ちていく。
●穴との戦い
脳みその穴にパッチを当てる方法は、残念ながら、ない。
それは健康法と似ている。
運動をやめたとたん、肉体は衰え始める。
不健康になっいくのを止める方法はない。
それと同じように、穴は穴として認める。
その穴からは、常に一定の知識や知恵、経験は、ボロボロとこぼれ落ちていく。
であるとするなら、それ以上のものを、上から補充していくしかない。
これも健康法と似ている。
放っておいたら、肉体の健康はどんどんと衰えていく。
であるとするなら、それ以上の運動をして、自分の体を鍛えるしかない。
日々の鍛錬こそが、健康法の秘訣ということになる。
が、それには常に、ある種の苦痛がともなう。
寒い朝に、ジョギングに出かけるような苦痛である。
あるいは難解な数学の問題を与えられたときのような苦痛である。
その(苦痛)を乗り越える勇気と努力が必要。
それがなければ、人間は、どんどんと、あのオバチャンになっていく。
●「♪だれが永遠行きたいか?」
「♪だれが永遠に生きたいか?」は、もともとは、SF映画の主題歌では
なかったか。
時代を超えて戦う、勇者と悪魔の戦いの映画だった思う。
映画そのものは、見るに耐えないというか、駄作(失礼!)。
で、主題歌だけが、ひとり歩きの形で、よく知られるようになった。
で、その曲を聴きながら、私はこう考えた。
「オバチャンのようになって、だれが永遠に生きたいか?」と。
……こう書くと、世のオバチャンたちは、怒るかもしれない。
しかしあえて言うなら、私が言うオバチャンというのは、こうした文章を
ぜったいに読まない。
電車やバスの中で、大声で、ギャーギャー、キャハハハと騒ぐことはあっても、
こうした文章は、読まない。
そもそも、そういう向上心をもっていない。
向学心もない。
あるいは、こういう文章を見せても、手で払いのけてしまう。
「私には、そういうものを読んでも、わかりません!」と。
(追記)
先日も、電車の中で、実にそれらしいオバチャンが、2人、こんな会話をしていた。
一部だけだが、こう言った。
「うちのあのバカ○(=弟の名前らしい)ったら、親の一周忌にも来なかった。
親の葬式に来ないようなヤツは、地獄よねエ」
「そうよ。親の一周忌くらい、どんなことがあっても、来るべきよねエ」と。
私の頭の中で、脳細胞がショートするのを感じた。
バチバチ、と。
それでその女性たちの会話に、耳を傾けた。
けっして盗み聞きしたわけではない。
向こうのほうから声が聞こえてきた。
……が、話の内容をコメントするつもりは、まったくない。
あまりにも愚劣で低劣。
言い忘れたが、年齢は2人も50歳くらい。
その話を電車を降りてからワイフにすると、ワイフはこう言った。
「ああいう人たちが、古い常識を、つぎの世代に伝えていくのね」と。
そう、そういう人たちが、(大勢)を作っていく。
そしてそれが大きな流れとなって、つぎの世代に伝わっていく。
が、この(大勢の流れ)を変えることは容易なことではない。
巨大な流れである。
私「そういう流れを変えないかぎり、日本は変わらないよね」
ワ「そうよね。100年後も、200年後も、同じようなことを言う人が
出てくるわ」
私「しかしいつも不思議だと思うのは、そういう女性たちでも、若いときがあった
と思う。そういう若いとき、何をしていたんだろう」
ワ「自分を変える暇など、なかったのよね」と。
本来なら、若い人たちが問題意識をもって、古い因習やタブー、それにカビの生えたよう
な常識を変えていかねばならない。
しかしそれをしないまま、歳だけは取っていく。
そして大半の女性たちは、私が見たようなオバチャンになっていく。
それでいいのか、世の女性たち!
このままでいいのか、世の女性たち!
Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司
●H-島
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今日は、静岡県熱海市の沖合い、連絡船で
25分ほどのところにある、H-島へ行ってきた。
島の周囲、約4キロを、ワイフと歩いた。
ゆるい山坂があり、ちょうど季節もよく、
たいへん気持ちよくウォーキングができた。
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熱海へはときどき、来る。
講演で来るときは、熱海で、電車を乗り換えることが多い。
が、いつも熱海へ来るたびに、こう思う。
「高いなあ」と。
H-島で、刺身定食を食べた。
それが2000円。
ワイフは、海苔丼を食べた。
それが1000円。
プラス、イカの丸焼き。
それが800円。
観光地とはいえ、まさに東京価格。
食べ物の値段が高いと、急速にその場所への親近感が失せる。
「二度と来ないぞ!」と。
要するに、観光客から、取れるだけ取れ、という発想らしい。
それがわかったとたん、心がそのままスーッと冷える。
食い物のうらみは、恐ろしい!
なお、H-島では、住民の世帯数と人数は、限られているそうだ。
ガイドの女性が、そう話してくれた。
正確な数字は忘れたが、40数世帯と限られていて、跡を継ぐ
長男だけが、島に残ることができるそうだ。
それ以外は、島を出ていかねばならない、と。
つまりそういう形で、住民の数を限定することにより、島民のもつ
既得権を守ろうというわけである。
しかしもしこれが事実とするなら、この「掟(おきて)」は、どう考えても、おかしい。
憲法違反に抵触する可能性すらある。
もし逆に、日本中の村々が、そういう「掟」を作ったら、どうなる?
私はその話を聞いたとき、「憲法違反で訴える人はいないのか?」と思った。
しかし訴えたら、今度は、そういう社会だから、訴えた人は、村八分に遭遇するに
ちがいない。
そういう意味では、日本は、まだ原始国家に近い。
外観だけは近代国家になった。
しかし中身は、昔のまま。
現実に、小さな村になると、外からの移住者を認めないところが多い。
ほとんどの村が、暗黙のうちに、そういう「掟」を定めているのではないのか。
外部からの移住者たいして、いやがらせや、意地悪をするという話は、
私も今まで、たくさん聞いた。
H-島の人にはきびしい意見になるが、「もし、ガイドの言ったことが事実とするなら、
あなたたちがしていることは、日本国憲法で定められた、居住の自由権を侵害している」。
その結果として、刺身定食が2000円であるとするなら、私は抗議したい。
……とまあ、ひとりでがんばっても、どうしようもない。
そんな「掟」があるなら、私は、そんな島に移住したいとは、思わない。
窮屈で、窮屈で、そのうち窒息してしまうだろう。
帰りのバスの中で、ガイドの女性がこう聞いた。
「H-島に住んでみたいと思う人は、いますかア?」と。
しかしそれに答えて、だれも、手をあげなかった。
当然である!
(補記)
日本国憲法・第22条、『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の
自由を有する』
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