Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, August 29, 2010

●マガジン先取り版(9-20)






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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 9月 20日
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HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page011.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●BW教室

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地元の中日ショッパー紙が、無料で教室の
宣伝を載せてくれた。
うれしかった。

モデルには、いつも孫の誠司を使っている。
この写真は、満6歳のときのもの。
現在は満8歳になった。

中日ショッパーのみなさんへ、
いつもありがとうございます。
こうした応援がなかったら、私の教室はとっくの
昔につぶれていたはずです。
ありがとうございます。

及ばずながら、つぎの更新から、中日ショッパーの
広告を私のメイン・HPに載せさせていただきます。

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(中日ショッパー紙・2010年8月26日、マンスリー・ショッパー)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●あと3日の命(徘徊記・2010年8月)

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もしあと3日の命と宣言されたら、
私はいったい、何をどう書くだろうか。
命をもてあそぶようなテーマで、
あまり気が進まない。
それに暗い。
が、もしそう宣言
されたら何をどう書くだろうか。
それをテーマに、少し考えてみたい。
というのも、このところ私はどうでもよい
ことばかり書いている。
意味のない駄文ばかり。
自分の文章に緊張感をもたせるため、
一度、それについて考えてみたい。

++++++++++++++++++

●書く相手

 「あと3日の命」と宣言されたら、ものを書きたいという意欲も消えうせる
かもしれない。
絶望という暗闇の中で、ただ呆然と立ちすくむだけ。
「考え」そのものを、まとめることができない。
あるいは何も考えられなくなるかもしれない。
ただ書くとしたら、遺書めいたものか。
墜落していく飛行機の中で、家族にメモを残した人がいる。
相当な気力がないと、そんなことはできない。
私ならワーワー、ギャーギャーと叫んで、それで終わっていたかもしれない。
それに今の私には、その書く相手もいない。
書くとしたら、相手はワイフだけ。

●墓石論

 私は「書く」ということは、「墓石を残すようなもの」と、いつもそう考えている。
書くことによって、「私」を残す。
「私」という人間が、この世に生きたという「証(あかし)」を残す。
あとに残された人たちに、私が得た知恵や知識を伝える。
さみしく思う人がいたら、その人をなぐさめる。
そのために、私は書く。

 だから書くとしたら、最後の3日間をどう生きたかを書くだろう。
自信はないが、しかしひょっとしたらその3日間、書いて書いて書きまくるかもしれない。
書くことによって、死の恐怖から逃れる。
「書くこと」には、そういう力もある。

●ありのままを……

 が、何を書くか。
ここで重要なことは、ありのままを書くということ。
子どもたちの作文指導をするとき、私はよくそう教える。
「そのまま書け!」と。

 たとえば1人の子どもが、「書くことがない」と言ったとする。
そういうとき私は、こう言う。
「だったら、そう書け」と。
「『何も書くことがありません。考えても何も思いつきません』と」と。
ものを書くとき、すべてはそこから始まる。
「何も書くことがありません」と書いていると、つぎの文章が思い浮かんでくる。
だったらつぎには、それを書けばよい。

●真実

 今もそうだ。
「あと3日の命」と宣告されたら、私はそのとき感じたことを、そのまま書く。
書きたいという気力そのものがなかったら、「気力がわいてこない」と書く。
絶望感に襲われたら、「絶望感に襲われている」と書く。
3日しかないから、何かを残そうと思うと、何も書けなくなる。
文章を書くとき、何が恐ろしいかといって、気負いほど恐ろしいものはない。
気負えば気負うほど、文章が汚くなる。
自分を飾る。
そういう文章は、あとで読み返しても、後味が悪い。

 反対に、どんなにへたくそな文章でも、それがそのときの「真実」であれば、
それでよい。
あとあと光り輝く。
つまり文章というのは、じょうず・へたで決まらない。
真実かどうかで、決まる。

●山荘

 「あと3日の命」と宣告されたら、真実を書く。
ウソを書いて、文章を飾っても意味はない。
それこそ、その3日間を無駄に過ごすことになる。
ありのままの「私」をぶちまける。
悲しいこと、つらいこと、さみしいこと、何でもよい。
それをそのまま、書く。

 たとえば今だったら、……実は今、私は山荘に、ひとりで来ている。
車の運転ができないから、バスでやってきた。
一度、市の中心部までバスで出て、そこで山荘行きのバスに乗り換える。
市の中心部からは、バスでちょうど1時間の距離である。

 バスを降りたら、今度は山の坂道を登る。
車だったら、3~4分の距離である。
が、歩くと、20分はかかる。
その坂道を汗だくだくになって登る。
今日も気温は、35度を超えた。

●徘徊癖

 ときどき私はこうした行動を繰り返す。
老人の徘徊のようなもの。
というより、徘徊癖がすでに始まっているのかもしれない。
何かつらいこと、さみしいことがあると、私はあまり深く考えないで、家を出る。
ワイフもそれをよく知っている。
私をさがしたりはしない。
追いかけてくるということも、ない。

 家を出るとき、ワイフは気分が悪いと言って、床に伏せていた。
20分ほど、私もいっしょに横で寝たが、居心地が悪かった。
ワイフは一度「殻(から)」にこもると、異常なまでにがんこになる。
融通性を失い、冗談が通じなくなる。
それで私は起きて、山荘に向かった。

●山荘で

 市の中心部では時計を見ながら、買い物をすませた。
デパートの地下で、食べ物を調達した。
で、予定通り、山荘へ。
着くとそのまま扇風機をかけて、横になった。

 1時間、2時間……。
2時間は眠ったかもしれない。
あたりを見ると、すでに夕暮れ時になっていた。
遠くでツクツクホウシが鳴いているのが聞こえた。
それにセミの声?
私の耳鳴り?

 起きてしばらくぼんやりしていた。
血圧が低いこともあって、頭が働きだすまでに時間がかかる。
それまではゾンビ!

●あと3日の命

 そこで最初の話。
「あと3日の命と宣告されたら、どうするか」。
……というのも、こういうときというのは、楽しい話は浮かんでこない。
気分そのものが落ち込んでいる。
「死ねば楽になるかもしれない」という思いも、どこかにある。
それが「3日の命」という言葉につながった。
もともとこのテーマは、うつ病的。
健康な人なら、こんなことは考えない。
しかしこのところ、何かにつけ、暗い話がつづく。
あるいは何を考えても、悪いほうへ、悪いほうへと話をつなげてしまう。
その結果、生きているのが、めんどう臭くなってしまう。

●懺悔(ざんげ)

 が、それでも書くとしたら、私の過去ということになる。
告白でもよい。
文章を通して、世界中の人たちに懺悔(ざんげ)する。
で、その中で第一の懺悔と言えば……。

 私はいつも自分を偽って生きてきた。
たいした善人でもないくせに、善人ぶって生きてきた。
仮面をかぶって生きてきた。
ワイフに対してもそうだったし、息子たちに対してもそうだった。
もちろん世間に対しても、そうだった。

 あちらに妥協し、こちらに妥協し、自分を曲げてばかりいた。
他人に自分がどんな印象を与えるか、そんなことばかりを気にしてきた。
「私は私だ!」といくら叫んでも、その声は10メートル先までは届かない。
自分だけの小さな世界で生きてきた。

 もっと何かができるはずという幻想にしがみついて、結局は何もできなかった。
もっと何かができたはずという、悔恨の念ばかり。
そのつど最善の道を歩んできたはずなのに、その実感がない。
つまり「最善だった」という自信がもてない。

●同情?

 たとえば現在、あのK国のS州というところが、大洪水に見舞われている。
中国との国境を流れるK川の流域である。
報道によれば、K国側の堤防は貧弱で、それで被害を大きくしたという。
また聞くところによると、K国では、セメントの3分の1程度が、金xxの
要塞作りのために使用されているという。
それでは強固な堤防など、望むべくもない。

 そういうニュースを読んだりすると、私の中を2つの考えが横切る。
「それミロ!」という思い。
「ああいう独裁国家で家を失った人はかわいそうだ」という思い。
が、ものを書くときは、前者のようには書けない。
後者だけをふくらませて、書く。
しかし本音の本音を言えば、「ザマーミロ」とまでは思わないが、それに近い。
同情したくても、その同情心がわいてこない。
拉致問題、核問題、ミサイル問題などなど。
この10年間だけでも、日本はK国にさんざん、だまされ、脅されつづけてきた。
それを乗り越えて、「同情します」「みんなで助けてやろう」とは、なかなか書けない。
もしそう書くとしたら、自分を偽ることになる。
だから黙る。
黙って、自分を偽る。
つまりそういう(偽り)を、私はいつもどこかでしてきた。

●ワイフに電話

(この間、10分ほど、休憩。)

 たった今、ワイフに電話をした。
「こちらは涼しいよ」と伝えると、「そちらへ行く」と。
少しは心配してくれていたらしい。
つまりは、それが私の「希望」ということになる。
仮に私がここで死んでも、心配してくれる人はほかにいない。
ミイラになっても、心配してくれる人はほかにいない。
自殺でもすれば、みな、「そらミロ!」と言うかもしれない。
「物書きにまともな者は、いない」と。
そう、まともな者は、いない。
頭でっかちばかりで、実行力はゼロ。
映画評論にしても、評論するだけで、自分では一本も映画を作ることができない。
 
 そんな思いだけが、どんどんと心を塞ぐ。

●残り3日間
 
 ……となると、「あと3日の命」と宣告されたら、私に残された道はただひとつ。
ワイフと静かなときを過ごす。
だれにもじゃまされず、だれにも会わず、だれとも連絡を取らず、ワイフとだけ、
静かなときを過ごす。
(ワイフはいやがるかもしれないが……。)

 もちろんワイフにも謝りたいことがある。

 私のワイフは、私と不本意な結婚をしてしまった。
私が強引に結婚してしまった。
だから深層心理の奥深くでは、私を恨んでいる。
嫌っている。
憎んでいる。
「この男は、私の人生を台無しにした」と、考えている。
それが私には、よくわかる。
ワイフはいつもそれを否定するが、私には、よくわかる。
 
 それがときどき顔を出して、私と衝突する。
今朝の状態がそうだった。
顔にタオルを当てたまま、口もきかなかった。

●いよいよ最期

 そうして3日目の朝になる。
夜でもよい。
「何を書くか」と聞かれれば、やはり別れの言葉か。
そのときまだ電子マガジン(BLOG)を発行していたら、あいさつを書く。
文面はまだ決めていないが、たぶん、「ありがとう。さよなら」と書くだろう。

 あとのことは、あとの人たちに任せればよい。
10年たって、私の書いた文章のうち、10%も残っていればうれしい。
墓石だって、10年もすれば苔が生える。
100年もすれば、ボロボロになって形さえ残らない。
私の文章も、また同じ。
またそれでよい。

 ……とまあ、本当に暗い話になってしまった。
暗い!
が、これではここまで読んでくれた人に申し訳ない。
気分一新!
少し視点を変えてみる。

●ひとつのアイデア

 現在、たとえばマガジンの発行をするとき、「予約」というのができる。
たとえば8月25日に、1か月先の9月25日のマガジンの発行予約ができる。
長いところで、1か月半程度。
つまり1か月半先までしか、発行予約ができない。
この期間を、1年とか2年、あるいは3年と延ばせないものか。
サービス会社にしてみれば大きな負担になるだろうから、有料でもよい。

 こうすれば、「インターネット墓地」というのも、可能になる。
これはあくまでも私の考えだが、あらかじめ、1年後、2年後、3年後の未来に
向けて文章を書いて残しておく。
それを発行予約という形で、残しておく。
形としては、ホームページ風でよい。
遺族の人たちは、命日になったら、それを開いて読む。

 こういう私の考えに対して、「それでは霊を供養することにはならない」と思う人も
いるかもしれない。
ならば逆に聞きたい。
「どうして遺骨なら、供養になるのか」と。

●脳のコピー

 いつかやがてその人の人格(脳みそ全体)がコピーされ、小さな記憶装置に収納される
時代がやってくる。
その記憶装置が、どこか一か所に、その人の「全記録」として格納される時代が
やってくる。
2050年ごろには、そのプロトタイプが生まれる。
2100年ごろには、ごくありふれた装置として、使われるようになる。
そういう時代を見越して、インターネット墓地を今から用意する。
うまくいけば、私の書いたものすべてが「はやし浩司の記録」として、どこかに残る
かもしれない。

 さらに……。

 私の書いたものをひとつの人工頭脳にインストールすれば、その人工頭脳と未来の
人たちが会話できるようになるだろう。

人「あなたはだれですか?」
コ「ワタシハ、ハヤシ浩司です」
人「あなたの人生観を語ってください」
コ「イイデショー……」と。

 人は死んだら、なぜ墓石を残すか?
それは残された人たちを、さみしくさせないため。
自分が生きてきた証(あかし)を残すため。
自分が得た知識や経験を、後世の人たちに伝えるため。
というふうに考えれば、私のアイデアは、たいへん有効ということになる。

●終わりに……

 先ほど、ワイフが車で迎えに来てくれた。
たった一言、「どうして携帯電話をもってこなかったの?」と。
それに答えて、私も一言。
「忘れた、ごめん!」と。

 本当は忘れたのではなく、だれにもじゃまされたくなかった。
徘徊というのは、そういうもの。
家出というのは、そういうもの。

 帰りにコンビニで、「プレイボーイ」という週刊誌を買う。
「日本の上空には、UFOがうようよ」という記事が気になった。
日本の上空には、UFOがいっぱい飛んでいるという内容。
それにアイスクリームとパソコン雑誌を一冊。
あとはいつもの日常。
たわいもない世間話をしながら、家に帰った。
口数は、いつもより少なかったが……。

(一言)

 私は徘徊(家出)するとき、いつもパソコンだけは忘れない。
パソコンさえあれば、ものを書いて、さみしさを癒すことができる。
退屈をしのぐことができる。
これもパソコンのひとつの使い方ではないか。


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●もう一人の私

+++++++++++++++

心の状態と表情の一致している
人を、すなおな人という。
そうでない人を、そうでないという。

+++++++++++++++

 情意(心)と、表情が遊離してくると、人間性そのものが、バラバラになる。

わかりやすく言うと、本心と外ヅラを使い分け、表ヅラばかりとりつくろっていると、
本当の自分がわからなくなってしまう。つまりこうして、自分の中に、もう一人の、自
分でない自分が生まれてくる。

 こうした二面性は、その立場にある人に、よく見られる。ある程度は、しかたのないこ
とかもしれないが、そういう立場の中でも、もっともその危険性の高いのが、実は、教師
ということになる。

心理学の世界にも、「反動形成」という言葉がある。みなから、「あなたは先生だ」と言
われているうちに、「そうであってはいけない、ニセの自分」を、その反動として、作っ
てしまう。

 たとえば牧師という職業がある。聖職者ということで、「セックス(性)」の話を、こ
とさら、嫌ってみせたりする。本当にそうなのかもしれないが、中には、自分をつくって
しまう人がいる。

 まあ、どんな職業にも、仮面というものが、ある。みんな、それぞれ何らかの仮面をか
ぶりながら、仕事をしている。「コノヤロー」「バカヤロー」と思っても、顔では、にこ
やかに笑いながら、その人と応対する。

 実は、教育の世界には、それが多い。教育というよりは、教師という職業は、もともと
そういうもの。反対に、もし教師が、親や生徒に本音でぶつかっていたら、それこそ、た
いへんなことになってしまう。

 たとえば私は、幼児教育にたいへん興味がある。しかし「幼児が好きか?」と聞かれれ
ば、その質問には、答えようがない。医者が、「病人が好きか」と聞かれるようなもので
はないか。あるいは、仕事を離れては、幼児の姿を見たくない。それはたとえて言うなら、
外科医が、焼肉を嫌うのと似ている。(焼肉の好きな外科医もいるが……。)あるいは、
ウナギの蒲焼き屋のおやじが、ウナ丼を食べないのに、似ている?

 しかし一度、幼児に、仕事として接すれば、幼児教育家モードになる。子ども、とくに
幼児の世界は、底なしに深い。奥が、深い。そういうおもしろさに、ハマる。私にとって
の幼児教育というのは、そういうものである。

 ただ、もう一つ、誤解してほしくないのは、同じ教育の中でも、幼児教育は、特殊であ
るということ。いくら人間対人間の仕事といっても、相手は、幼児。いわゆる、ふつうの
世界でいうところの人間関係というのは、育たない。

 話が少し脱線したが、私が、自分の中に、こうした二面性があるのを知ったのは、30
歳くらいのことではなかったか。

 自分の息子たちに対する態度と、他人の子どもたちに対する態度が、かなりちがってい
たからだ。ときには、冒頭にも書いたように、自分の人間性が、バラバラになっているよ
うに感じたこともある。「コノヤロー」「バカヤロー」と言いたくても、顔では、ニッコ
リと笑って、別のことを言う。毎日が、その連続だった。

 しかし脳ミソというのは、それほど、器用にはできていない。二つの自分が、たがいに
頭の中で衝突するようになると、疲れるなどというものではない。情緒不安、精神不安、
おまけに偏頭痛などなど。まさにいいことなしの状態になる。

 だから、結局は、(ありのままの自分)にもどることになる。

 が、これとて、簡単なことではなかった。それこそ数年単位の努力が、必要だった。私
は、まさに反動形成でつくられた(自分)を演じていただけだった。高邁で、高徳で、人
格者の教師を、である。

 しかし本当の私は、まあ、何というか、薄汚い、インチキ男……とまでは、いかないが、
それに近かったのでは……。

 そこで(ありのままの自分)を出すことにしたが、悲しいかな、(ありのままの自分)
は、とても外に出せるようなものではなかった! そこで私は、(ありのままの自分)を
出すために、別の意味で、(自分)づくりをしなければならなかった。

 今も、その過程の途中にあるということになる。

 で、その今も、もう1人の私が、私の中に同居している。いやな「私」だ。できれば早
く別れたいと思っている。ときどき、「出て行け」と叫びたくなる。そんな「私」だ。妙
に善人ぶって、自分を飾っている。

 どこかのインチキ牧師みたいで、ああ、いやだ! ホント!

 ……ということで、本当の自分を知ることを、むずかしい。この文章を読んでいる、み
なさんは、はたして、どうだろうか? ありのままの自分で、生きているだろうか?


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