Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, November 27, 2010

●映画『レオニー』

【息子たちへ】

●映画『レオニー(Leonie)』★★★★★

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仕事の帰りに、深夜劇場に足を運んだ。
『レオニー』を観た。
観客は私たち夫婦を含めて、8人前後。
あの広い劇場が、ガラガラ。
「暇つぶし」と覚悟を決め、席に深く
体を沈めた。

が、それがとんでもないまちがいだった。
映画が始まると同時に、心がどんどんと
スクリーンの中に、吸い込まれていった。
レオニー役の女優が、嫁のデニーズに
瓜二つと言ってよいほど、似ていた。
加えてあのアメリカ人独特の、ジェスチャ、
目配りの仕方、反応の表し方などなど。
1カットごとに、デニーズを思い出していた。

が、そうした「ひいき目」を除いても、
星は5つの、★★★★★。
すばらしかった。
泣いた。
涙、ポロポロ。
またポロポロ。
横を見ると、めったに泣かないワイフまで、
ハンカチで顔を何度もぬぐっていた。
よかった。
映画が終わったとき、別の人生を駆け足で
走り抜けたような実感を、ズシリと覚えた。

実話をもとにしているだけに、フィクション
映画にありがちなスキがなかった。
人間の心が複雑にからみあいながらも、
ストーリーが矛盾なく流れていった。

劇場を出るとき、「よかったね」とワイフに
言うと、ワイフも「よかったね」と。
会話はそれだけ。
久々によい映画を観た。

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●二男

 数日前、二男と電話で話した。
その中で、二男がこう言った。
「ぼくはパパから学んだことが、ひとつある」と。
「何だ?」と聞くと、「パパは、借金はするなと言った。ぼくはそれを守っている。
だからみな周りの人たちは、借金漬けで困っているが、ぼくは借金がない。
だから、ぼくは楽だ」と。

 で、あれこれ私は説明した。

 この資本主義社会の中では、借金は避けて通れない。
またどんな事業を興すにも、個人の力には限界がある。
そこで借金、つまり株式制度というのが生まれた。
アメリカで、それが発展した。

 だから借金をしないのが、よいというのではない。
私も、土地を買ったり、家を建てたりするときには、借金をした。
が、その場合でも、「預金担保」といって、同額のお金を、まず定期預金にする。
その定期預金を担保に、お金を借りるという方法を使った。

 が、個人の立場でいうなら、借金はしないほうがよい。
若いころ、ある経営者が、こう教えてくれた。
その人は当時、浜松市市内で、1、2を争う電気通信企業の社長をしていた。

●生活の安定

 名前をYS氏と言った。
そのYS氏、こう教えてくれた。
「どんなにころんでも、家庭だけは守れ。最低限の収入は確保する。
それができたら、あまったお金と時間を使って暴れろ!」と。

 つまり家庭を維持するための最低限の収入は確保する。
またそれを守る。
冒険するのは、その外でしろ!」と。

 で、私はYS氏の教えを、かなり忠実に守った。
当時私は塾経営を、生活の基盤にしていた。
この仕事のよい点は、生活が安定すること。
単位時間当たりの収入は少ないが、急激な変化というのは、ない。

 それはそれとして、私は別の世界で、別の仕事をした。
翻訳に通訳、代筆に本の編集など。
貿易の手伝いもしたし、もちろん家庭教師や予備校の講師もした。
こうした仕事は、単位時間当たりの収入は多いが、不安定。
仕事が重なれば、徹夜。
なければ、ヒマ。

【アメリカの宗へ】

 誤解しないでほしいのは、「借金が悪」とぼくが言ったのではないということ。
必要なときは、借金もする。
ぼくも一度だけ、10円を借りたことがある。
どうしても電話をかけなければならなくなったときのこと。
10円硬貨をもっていなかった。
それで10円を借りた。
その10円が、ぼくにとっては生涯で、最初で最後の借金。
翌日、その貸してくれた人に、菓子箱をつけて10円、返しに行った。
相手の人は、驚いていたが……。

 ただ「借金をする」イコール、「他人にものを借りる」というのは、
最小限にしたいね。
どこかで人生観につながっている。
自分の時間は、自分のもの。
一瞬一秒、すべて自分のもの。
借金をするということは、その時間を、他人に譲り渡すようなもの。
ひどいばあいには、借金に追われるようになる。
そうなると、自分の時間など、どこかへ吹き飛んでしまう。
ばあいによっては、「家庭」そのものが、危機的な状態に追い込まれる。
つまり生活の基盤がゆらぐ。
それだけは、避けようね。

 どんなに貧しくても、またみずぼらしくても、「家庭(HOME)」だけは、大切に。
他人に譲り渡してはいけない。
家族を路頭に迷わせてはいけない。
つまりそれが「借金をするな」という言葉の意味と考えてほしい。

 ともかく、借金をすると、(たぶん?)、生き様が卑屈になる。
その相手に頭があがらなくなるからね。
自由と独立、プラス、尊厳を守るためにも、借金は避けたほうがいいよ。

 もしどうしてもお金が必要になったときは、ぼくに言いなさい。
無利子で、期限を付けないで、貸すよ。
ただしできるだけぼくと晃子が、元気なうちに、少しずつでもいいから、
返す……という条件は付くけどね。

 で、もう一言。

 支払いは、どんな支払いでも、ぼくは1週間以内にすますようにしている。
いくら相手が「来月でもいい」と言っても、そうしている。
相手を不安にさせないこと。
これはたがいの人間関係を、すがすがしくするためのコツではないかな?
どうか参考にしてほしい。

【浜松の周へ】

 幼児教育のすばらしい点は、楽しいこと。
それに幼児には、「汚れ」がない。
プラス、パワーに満ちあふれている。
今、YOUTUBEで、教室の様子を公開しているが、そうした様子を
ビデオを通して感じてもらえれば、うれしい。

 ぼくもよく気分が落ち込むが、幼児に接したとたん、気分がパッと晴れる。
だから最近は、こう思うようになった。
「ぼくのほうが、助けられている」と。

 幼児教育というと、多くの人は「幼稚教育」と考えている。
が、これはとんでもない誤解。
その奥は深い!
本当に深い!

 ぼくは20代のはじめは、法律を学んだ。
一応法学院にまで進んだ。
また20代から30代にかけては、東洋医学の勉強に没頭した。
同時に40歳前後まで、教材作りを「仕事」としてきた。
ぼくが制作、指導した市販教材は、無数にある。

 で、貴君も知っているように、その間に、カルト教団を相手に、本を5冊
書いた。
これは貴君も知っているように、命がけの闘いだった。
おかげで宗教とは何か。
それを自分なりにつかむことができた。

 そういう過去の経歴の上で、あえて断言する。
「幼児教育は奥が深い」と。
つまりそこに「私」の原点があると考えてほしい。
なぜ「私がここにいて、ここで生きているか」。
その原点がある。

 言うなれば白い箱の上に、さまざまな絵や模様をつけていく。
それが幼児教育ということになる。
もちろん、もとから箱の中にはいっているものもある。
が、それはそれ。

 その絵や模様が、「私」ということになる。
奥が深いというのは、そういう意味。
一生の仕事として、何ら恥じることはない。
ほとんどの人は、その価値にすら、気づいていない。

●教育とは

 数日前、窓の外の景色を見ながら、こんなことを考えた。
「教育とは何か?」と。

 私は自分の頭の中で、こう仮定してみた。
「もし、神様かだれかが、私を20歳のときまで戻してくれると言ったら、
私はそれに従うだろうか」と。
「ただしすべてを、一度、白紙にしたあと、戻す」と。

 しばらく考えてみたが、答はやはり、「NO!」だった。
また同じ人生を歩めと言われても、私にはできない。
またイチからやり直せと言われても、私にはできない。
私はこの40年間で、いろいろなことを学んできた。
けっして楽な道ではなかった。
平坦な道でもなかった。
私はあえて、肩書きや地位には、目もくれなかった。
むしろ背を向けて、生きてきた。
私は私。
どこまでもいっても、私は私。

 こんな生き様は、現代の社会では通用しない。
だからワイフは、よくこう言う。
「あなたは、どうしてあえて苦しい道ばかりを選ぶの?」と。
「組織をうまく利用すれば、もう少し楽な生き方ができたのに」とも。

 が、今になってみると、私は私でよかった。
私は自分の力で、ここまで生きてきた。
だからそれを再び、それを繰り返せと言われても、私にはできない。
つまりここに「教育」の意味がある。

 話がトンと飛躍したので、意味のわからない人も多いかと思う。
つまり私が言いたいのは、私がこの40年間で学んできたもの……知識や知恵、
経験や技能、それをつぎの世代に伝えていくのが、「教育」と。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

 仮に今、私が20歳の、あの年齢まで戻ったとしよう。
もしそのとき、そこに「はやし浩司」の記録があり、それを手に入れることが
できたとしよう。
そうであるなら、私はそれをむさぼり読むだろう。
はやし浩司が40年かけて、学んだものを、そのまま自分のものにするだろう。
そうすれば、私は同じ人生を、繰り返さなくてもすむ。
私は、「はやし浩司」を土台に、さらに進んだ「私」をその上に構築することが
できる。
もし、そうなら、つまりそれができるなら、私は「YES!」と答える。
喜んで、20歳の時の私に戻る。

 つまり「教育」とは、何かと聞かれたら、私はこう答える。
つぎの世代の人たちの人生を、2倍、あるいは3倍にするもの、と。

●教育拒否症

 この日本では「教育」という言葉を耳にしただけで、拒絶反応を示す
人は多い。
とくに「教育評論家」という肩書きに、拒絶反応を示す人は多い。
「拒否的態度」と言い替えてもよい。
わかりやすく言えば、「教育」が嫌われている。

 それもそのはず。
「教育」という名のもと、よい思い出をもっている人は、ほとんどいない。
みな、イヤ~ナ思い出ばかり。
私自身が、そうであるから、どうしようもない。
私も「教育評論家」という肩書きをもっている人が、好きではない。
中身がないくせに、偉そうなことばかり言う。
そんなイメージをもっている。

 自己弁解ぽいが、私はいつの間にか、「教育評論家」ということになって
しまった。
雑誌社や新聞社が、最初は、勝手に、そういう肩書きを私につけた。
「肩書きはどうしましょう?」というから、「適当に」と。
そう答えていたら、そうなってしまった。

 しかし私は名刺にも、その肩書きを使ったことはない。
あえて拒絶しなければならないようなことでもないから、今ではそのままに
しているが……。

 話が脱線したが、これは日本人にとっては、悲しむべき現象と考えてよい。
尾崎豊の「♪卒業」に表現されているように、教育を否定するということは、
若い人たちがみな、またイチからの人生を始めることを意味する。

 先人、つまり私たちが今まで積み重ねてきた、知識や知恵、経験や技能、
それらをまたイチから始めることを意味する。
私にたとえて言うなら、私という人間が、再び、頭の中を空っぽにして、
20歳へ戻るようなもの。
もし、そうなら、答は、「NO!」。
その「NO!」と言うような人生を、若い人たちは、自分で始めなければ
ならない。

●若い人たちへ

 どうして君たちは、謙虚になって、先人たちからものを学ばないのか。
マネをせよというのではない。
(「学ぶ」というのは、もとは、「まねる」が語源になっているというが……。)

 もし君たちが、ほんの少しでも、私たち先人の言葉に耳を傾けてくれたら、
そのまま私たちが身につけた、知識や知恵、経験や技能を、そのまま自分の
ものにすることができる。

 失敗を防ぐとか、そういう単純なことではない。
「私」という人間の人生を、ばあいによっては、2倍にも3倍にもして、
生きることができる。
ただ残念なことに、先にも書いたように、日本の「教育」は、おかしい。
どうおかしいかは、みなさんがよく知っている。
以前、私は学校について、「人間選別機関」という言葉を使った。
今でも、その性格は、色濃く残っている。
それに君たちは、苦しめられた。
私も苦しめられた。

 が、それが本当の教育ではない。
たとえば「受験教育」というのは、「教育」という名前を使っているが、
中身は、「指導」、もしくは「訓練」。
そういうものをもって、「教育」と誤解している。
錯覚している。

 では、教育とは何か。
それは先にも書いた。
『つぎの世代の人たちの人生を、2倍、あるいは3倍にするもの』と。

 それに気づいてくれれば、ひょっとしたら、教育に対するものの
考え方が変わるのではないか。
私の意見にも、耳を傾けてくれるのではないか。

「はやし浩司は教育評論家だ」と、どうか、毛嫌いしないでほしい。
またそういう目で私を見ないでほしい。

【息子たちへ】

 今すぐでなくてもいい。
いつか気が向いたら、ぼくが書いたものを読んでみてほしい。
貴君たちが、「パパは仕事ばかりしていた」「つまらない人間」と思っている
のは、よくわかっている。
が、こんなぼくでも、懸命に生きてきた。
無駄なこともしたし、貴君たちには、ずいぶんとつらい思いもさせてしまった。
しかし今、こんなふうに思う。

 何のことはない。
貴君たちはぼくがしてきたことを、繰り返しているだけではないか、と。
同じことをしているだけではないか、と。

 もちろん中身はちがうかもしれない。
ぼくが若いころそうであったように、貴君たちも今、こう考えている。
「ぼくは、親父とはちがう。
親父のようなつまらない人間ではない。
ぼくはぼくの道を歩んでいる。
親父とはちがった人間になる」と。
ぼくも、かつてはそう考えた。

 しかし今、ぼくという人間を客観的に見ると、ぼくはあの親父とどこも
ちがわない。
結局は、ぼくは親父が歩んできた道と同じ道を歩んでいるだけ。
もし若いころ、もっと謙虚になって、親父の話に耳を傾けていたら、ぼくは
自分の人生を、さらに長くすることができたかもしれない。

が、ぼくも若かった。
イチからすべてを始めてしまった。
今から思うと、それが残念でならない。

 ……少しセンチメンタルなことを書いた。
これもあの映画の影響かもしれない。
『レオニー』。
すばらしい映画だった。
機会があったら、貴君たちも観たらよい。

 でね、最後に一言。
これも繰り返しになるが、100年以上も前に、すでにぼく以上に、はるかに
濃密な人生を送った人がいた。
ぼくは、そういう先人たちの残した、知識や知恵、経験や技能を、何も生かして
いない。
それを知ったとき、ズシリとした重みを、心の中で実感した。

 どうか時間を無駄にしないように!
より豊かで、すばらしい人生を送ってほしい。

では、今日も始まった。
ぼくも貴君たちに負けないよう、がんばる。

はやし浩司 2010-11-27、朝記。
山荘にて。

【補記】

 若い人たちは、明治時代というと、遠い昔の時代のように思うかもしれない。
しかし人は年を取れば取るほど、過去のほうが自分に近づいてくるのを知る。

 たとえば20歳の人にとっては、100年前というのは、自分の人生の
5倍も昔ということになる。
しかし50歳の人にとっては、たったの2倍。
63歳の私にとっては、たったの1・58倍。
80歳の老人にとっては、さらにたったの1・25倍。

 つまり明治時代は、「昔」ではなく、ほんのつい「昨日」。
そういうふうにして、自分に近づいてくる。
言い替えると、明治時代そのものが、まだ私の心の中で息づいている。
よく「時代は変わった」と言う人がいる。
しかし何も変わっていない。
それが年を取れば取るほど、よくわかってくる。

 そんなことも考えながら、『レオニー』を観るとよい。

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Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●新家族主義

++++++++++++++++++

それはたわいもない話から始まる。
私はあるとき、ふと、こう考えた。
「私が若いときには、親に、仕送りをした。
が、今の若い人たちで、それをしている人は
ほとんどいない」と。

だからといって、それが悪いというのではない。
息子たちに、同じことをしてほしいと願って
いるのでもない。
もし息子たちがそんなことをしたら、即座に
そのお金は返すだろう。

で、たわいもない話というのは、その先。
私は、ふと、こうも考えた。

「考えてみれば、私の生徒たちは、毎月
私にお金をくれるではないか」と。

「教える立場」では、月謝ということになる。
しかし札に名前はついていない。
札は札。
それなりの価値はあるが、ただの紙切れ。
とたん、気が晴れた。
前がパッと明るくなった。

生徒たちは、(実際には、その親たちだが)、
毎月、お金を届けてくれる。
私が40年前にしていたように、毎月、
袋に現金を入れて、私に渡してくれる。
「仕送り」と「支払い」。
言葉はちがうが、中身は同じ。

……というか、その複線として、最近、
生徒たちが、自分の息子や娘、さらには
自分の孫のように感ずることが多くなった。
中には、私の孫そっくりな子どももいる。
そういう子どもが、「先生、これ!」と言って、
お金(月謝)をくれる。
とたん、申し訳ない気分に襲われる。

そこで先に書いた話に戻る。
「考えてみれば、私の生徒たちは、毎月
私にお金をくれるではないか」と。

私は今、生徒という名前の子どもたちに
助けられている。
励まされている。

中には、「実の息子や娘と、生徒はちがう」と
考える人もいるかもしれない。
ならば聞くが、どこがどうちがうというのか?
少なくとも私のばあい、こと孫について言えば、
「かわいさ」という点では、差はない。
めったに会えないこともある。
しかしそれ以上に、私の心のワクが広がった。
「家族」という狭いワクから、一歩、外に出た。
明らかに意識が変わった。
とたん、自分の子とか、他人の子とか、
そういうふうに分けて考えることができなくなった。

私はかつて実家に仕送りをした以上に、生徒たちから
仕送りを受けている。
小遣いいじょうの小遣いをもらっている。
そのお金で、今、生きている。
……生かされている。

で、あえてここで新しい言葉を披露する。
「新家族主義」。
「家族」というワクを超えた、「家族」。
そのワクを超えた家族を大切にする。
それが新家族主義。

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●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司

【BW子どもクラブより】(年中児、4~5歳児クラス)

●今週は、英語を、言葉として教えてみました。

英語教育というと、「会話」の暗記のように考えている人は多いですね。
英語を、「言葉」として教えることは可能なのか。
そんな実験を今週は、してみました。