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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■意識についてA
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03-12-16号(333)
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto797
●子どもへの禁止命令
「~~をしてはダメ」「~~はやめなさい」というのを、禁止命令という。この禁止命令が多ければ多いほど、「育て方」がヘタということになる。
イギリスの格言にも、「無能な教師ほど、規則を好む」というのがある。家庭でいうなら、「無能な親ほど、命令が多い」(失礼!)ということになる。
私も子どもたちを教えながら、この禁止命令は、できるだけ使わないようにしている。たとえば「立っていてはダメ」というときは、「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」。「騒ぐな」というときは、「ママのオッパイを飲んでいるなら、しゃべっていい」と言うなど。
また指しゃぶりをしている子どもには、「おいしそうだね。先生にも、その指をしゃぶらせてくれないか?」と声をかける。禁止命令が多いと、どうしても会話がトゲトゲしくなる。そしてそのトゲトゲしくなった分だけ、子どもは心を閉ざす。
一方、ユーモアは、子どもの心を開く。『笑えば伸びる』というのが私の持論だが、それだけではない。心を開いた子どもは、前向きに伸びる。イギリスにも、「楽しく学ぶ子どもは、もっとも学ぶ」(Happy Learners Learn Best)というのがある。心が緊張すると、それだけ大脳の活動が制限されるということか。私は勝手にそう解釈しているが、そういう意味でも、「緊張」は避けたほうがよい。禁止命令は、どうしてもその緊張感を生み出す。
一方、これは予断だが、ユーモアの通ずる子どもは、概して伸びる。それだけ思考の融通性があるということになる。俗にいう、「頭のやわらかい子ども」は、そのユーモアが通ずる。以前、年長児のクラスで、こんなジョークを言ったことがある。
「アルゼンチンの(サッカーの)サポーターには、女の人はいないんだって」と私が言うと、子どもたちが「どうして?」と聞いた。そこで私は、「だってアル・ゼン・チン!、でしょう」と言ったのだが、言ったあと、「このジュークはまだ無理だったかな」と思った。で、子どもたちを見ると、しかし一人だけ、ニヤニヤと笑っている子どもがいた。
それからもう四年になるが、(というのも、この話は前回のワールドカップのとき、日本対アルゼンチンの試合のときに考えたジョーク)、その子どもは、今、飛び級で二年上の子どもと一緒に勉強している。反対に、頭のかたい子どもは、どうしても伸び悩む。
もしあなたに禁止命令が多いなら、一度、あなたの会話術をみがいたほうがよい。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●依存心と自立心
アメリカのテキサス州の田舎町で、迷子になったときのこと。アメリカ人の友人は車をあちこち走らせながら、さかんに道路標識と地図を見比べていた。
そういうとき日本人ならすぐ、通りの人に声をかけて、今いる場所を聞く。そこで私が「どうして通りにいる人に道を聞かないか?」と声をかけたのだが、その友人はけげんそうな顔をするだけで、何も言わなかった。で、それが気になっていたので、別のある日、アメリカの中南部に住む日系人の別の友人にそれを聞くと、こう教えてくれた。
「アメリカ人は、人に頭をさげない。通りを歩いている人に道を聞くのは、危険なことだし、相手もこわがるだろう」と。つまり「そういう習慣はない」と。
よく英語の教科書に、英語で道を聞くというのがある。「駅へ行く道を教えてください」「駅へは、この道をまっすぐ行って、二本目の角を右へ回りなさい」とか。しかしこういう会話というのは、ごく親しい人との間の会話であって、ふつうでは考えられない。それとも皆さんの中で、いまだかって、アメリカ人に(オーストラリア人でも、イギリス人でもよいが)、道路で道を聞かれたことがあるだろうか。
少なくともアメリカ人は、通りの見知らぬ人に道など聞かない。彼らはまず地図を手に入れる。そしてその地図を頼りに自分の居場所を知る。つまりそれだけ自立心が旺盛ということ。そして一方、こういう話を驚いて聞くという私は(日本人なら皆、そうだが)、それだけ依存心が強いということ。
もっとも私はどちらがいいとか悪いとか言っているのではない。日本は日本だし、アメリカはアメリカだ。しかし日本から一歩外へ出ると、日本の常識はもう通用しないということ。日本がこのまま鎖国的に、今のままでよいと言うのならそれはそれで構わないが、そうであってはいけないというのなら、日本人も外国の常識に合わせるしかない。あるいは少なくとも、日本の常識とは違うということを理解しなければならない。こんな話もある。
私の二男フロリダへドライブしたときのこと。きれいな砂浜があったので、つい油断して車をその中へ入れてしまった。とたん、車は立ち往生。するとどこにいたのか、アメリカ人の学生たちが数人寄ってきて、「車を出してほしかったら、二〇ドルよこせ」と。つまりそれが彼らのアルバイトになっていた。
二男は「同じ学生だから」ということで、一〇ドルにしてもらったというが、こういうドライさというのは、日本人は理解できないものかもしれない。しかしそれが世界の常識でもある。
日本人がもつ「依存心」を考えるヒントになればと思い、ここに二つのエピソードをあげた。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●毛布の切れ端
S県のKさん(母親)より、こんな相談をもらった。二歳になる男の子だが、いつも毛布の切れ端をもって歩いている。実家の祖母のところへ帰るときも、かた時も放そうとしない。だいじょうぶか、と。
子どもは、母親への依存性を解消しようとする段階で、毛布の切れ端や、ボタン、本などを、手にもつことがある。心理学の世界では、こうしたモノを、「移行対象」と呼んでいる。子どもは、こうした移行対象に、自分の関心をそらすことで、母親への依存性を減らすという。
しかし、本当にそうか?
ためしに、子どもから、そのモノを取りあげてみるとよい。とたん、ほとんどの子どもは、情緒が不安定になる。ぐすったり、イライラしたりするようになる。つまりそのモノが、子どもの情緒を安定させているのがわかる。つまり、このあたりまでメスを入れないと、「移行対象」の本当の意味が、わからないのではないか。
かく言う私も、子どものころ、いつも、指先で、貝殻のボタンをいじっていた。記憶にあるのは、母のシャツにそのボタンが使ってあって、いつも、そのボタンを求めたこと。ある日、母に、「浩司は、おっぱいがほしいから、胸に手を入れるのか?」とからかわれたことがある。私は、子どもながらに、「そうではない!」と反発したのを、覚えている。私が五歳くらいのときのことではないか。
貝殻のボタンは、指先でいじっていると、気持ちよかった。うっとりするような、陶酔感を覚えたこともある。そのせいかどうかは、知らないが、(しかし、かなり関係あると思うが)、今でも、パソコンは、キーボードの感触で選ぶところが大きい。
これに似た話だが、先日も、あるピアニストの人と会ったとき、その人も、そう言った。「鍵盤は、指先の感触が大切です」と。
こうした現象を、東洋医学の世界では、うまく説明する。指先には、重要なツボがあり、それが脳と直結しているというのだ。そこで調べてみると、長崎新聞に、「お年寄りに、そろばんがよい」という見出しで、こんな記事が載っていた。
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● お年寄りにそろばん教室―福島町
KF町の町高齢者コミュニティセンターF会館で、お年寄りを対象に、月二回開かれている「そろばん教室」が、今月で丸一年を迎えた。
自宅に閉じこもりがちなお年寄りが仲間たちと交流を深めるいい機会になっているほか、「ぼけ防止に役立つ」「動かなかった手が大分動くようになった」と評判だ。
地元で三〇年以上にわたって、子供たちに珠算を指導しているKSさん(五七)が「寝たきりにならないよう、指先を使うことにより脳の活性化を」と、昨年二月、同町のF地区のお年寄りに呼びかけ、ボランティアで始めた。
現在八六歳を最高に、平均年齢七九歳の一三人が、足し算や引き算などの計算問題、左手を使った数遊びなどに、熱心に取り組んでいる(〇〇年九月)。
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指先に刺激を加えると、脳ミソが活性化するというようなことは、よく言われている。この記事も、その一例ということになる。
が、さらに掘りさげてみると、こうなる。
もともと何らかの理由で、(たいていは満たされない愛情からくる、欲求不満と考えてよい)、情緒が不安定になった子どもは、その心の緊張感を解消するために、代償行為として、モノをいじる、と。私が感じた、あの陶酔感は、脳内で、エンドロフィン系、もしくはエンケファリン系の麻薬様物質が、放出されたためと、考えられる。
だから、もしあなたの子どもが、こうしたモノに固執する様子を見せたら、つぎのことを守るとよい。
(1) 無理にそれを、取りあげてはいけない。
(2) 子どもの心が満たされない状態にあるとみて、その原因を知る。
(3) 濃密なスキンシップが有効である。とくに、親は、「ほどよい親」であること。コツは、子どもが求めてきたときは、ていねいに、それに応じてあげること。ぐいと力を入れて抱いてあげるだけでも、効果的である。
(031207)
ミ ( ⌒⌒ ) 彡
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【2】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
意識について
●絶対的な意識は、ない
人間のもつ「意識」ほど、いいかげんなものはない。意識には、絶対的なものもなければ、普遍的なものもない。いろいろな例がある。
私が、それに最初に気づいたのは、オーストラリアで留学生活をしていたときのことだった。私には、何も自慢するものがなかった。それで、ことあるごとに、私は、「ぼくは、日本へ帰ったら、M物産という会社に入社する。日本でナンバーワンの会社だ」と、そう言っていた。
が、ある日、一番、仲のよかったD君(オーストラリア人)が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなこと言うのは、よせ。君は、知らないかもしれないが、日本人のビジネスマン(商社マン)は、ここ、オーストラリアでは、軽蔑されている」と。
私は、大学四年生になると、何も迷わず、商社マンの道を選んだ。それが私にとって、正しい道だと信じていた。しかしその商社マンが、オーストラリアでは、軽蔑されていた!
当時の日本は、高度成長期のまっただ中。新幹線を走らせ、東京オリンピックを成功させ、大阪万博を開いていた。そういう時代である。同級生たちのほとんどは、銀行マンや証券マンの道を選んだ。
有名な企業であればあるほど、よかった。大きな企業であればあるほど、よかった。が、そういった意識は、実は、そのときの日本という、大きな社会で、作られたものだった。
D君のこの言葉は、私の一生に関するものだっただけに、私に大きな衝撃を与えた。私は自分のもっている意識を、そのとき、こなごなに、破壊された。が、同時に、私は未来への展望を、見失ってしまった。
それはそれとして、こうした意識を、私たちは、生活のあらゆる部分でもっている。人生観、哲学観、宗教観にはじまって、好み、嗜好(しこう)、夢や希望などなど。が、どれ一つとて、絶対的なものは、ない。普遍的なものも、ない。
たとえば私は、中学一年生のとき、ある女の子が好きになった。好きで好きで、たまらなかった。で、そのときは、その女の子ほど、すばらしい女性は、いないと思った。だから生涯にわたって、その女の子を好きなままだろうと思った。思っただけではなく、そういうふうに信じていた。
しかしその恋は、やがてシャボン玉がはじけるように消えた。そしてそれにかわって、「どうしてあんな女の子が好きだったのだろう」と思うようになった。
●子育て観も、同じ
もちろん、子どもに対する親の意識にも、絶対的なものもなければ、普遍的なものもない。そのことを思い知らされたのは、こんなことを知ったときだ。
アメリカでは、学校の先生が、親を呼びつけて、「お宅の子を、落第させます」と言うと、親は、それに喜んで従う。「喜んで」だ。
あるいは自分の子どもの成績がさがったりすると、反対に、親のほうから、学校へ落第を頼みにいくケースもある。
これはウソでも、誇張でもない。事実だ。アメリカの親たちは、そのほうが、子どものためになると考える。が、この日本では、そうはいかない。そうはいかないことは、あなた自身が、いちばん、よく知っている。
意識というのは、そういうもの。
そこで、いくつかの教訓がある。一つは、今、自分がもっている意識を、絶対的であるとか、普遍的なものであるとか、そういうふうに、思ってはいけないということ。
つぎに、意識というのは、変わりうるものだという点で、自分の意識には、謙虚になること。自分の意識を、他人や家族に、押しつけてはいけない。
もう一つは、意識というのは、どんどんと変えていかねばならないということ。変わることを恐れてはいけない。また一つの意識に、固執してはいけない。
●そのときどきの、「懸命」さ
こう書くと、意識というのは、流動的ということになる。そういう前提に立つなら、「では、何を信じたらいいのか」という問題が起きてくる。
その答は、ただひとつ。「そのときどきで、懸命に生きればいい」ということ。
よく若い人が、こう言う。「あとになって後悔するよりも、ぼくは、今、自分が信じていることをしたい」と。
それはそのとおりで、他人の意見というのは、あくまでも参考にしかならない。仮にその意識が変化しうるものであっても、そのときは、そのときで、懸命に生きればよい。その結果がどうなろうとも、それは、そのあとに、考えればよい。
たとえばわかりやすい例で、考えてみよう。
だれか女の子に恋をしたとする。そのとき、その女の子が好きだったら、とことん好きになればよい。その意識が変わるとか、そういうことは考えなくてもよい。その「懸命さ」の中に、重大な意義がある。
そして、その女の子と、結婚したとする。が、しばらくは、ラブラブのハネムーンがつづいたが、そこで意識が変化したとする。落胆と幻滅が、結婚生活をおおうようになり、やがて小さなすきま風が吹くようになったとする。しかしここで大切なことは、だからといって、結婚したのがまちがっていたとか、失敗だったとか、そういうふうには考えていけない。
仮に離婚ということになったとしても、「懸命にその女の子を愛し、結婚にこぎつけた」という事実は、消えない。またその事実があれば、「失敗」ということは、ありえない。
むしろ恥ずべきは、合理と打算で、懸命でない人生を送ること。いくら表面的に、うまくいっていても、あるいはそう見えても、そういう人生には、価値はない。
●懸命に生きるから、結果が生まれる
そのときは、そのときの意思を信じて、真正面からものごとに、ぶつかっていく。たとえその意識が、だれかに批判されても、気にすることはない。あなたは、どこまでいっても、あなた。そのあなたを決めるのは、あなたをおいて、ほかにない。
私も、M物産という会社をやめ、幼稚園の講師になると母に告げたとき、母や、電話口の向こうで、泣き崩れてしまった。「浩ちゃん、あんたは、道を誤ったア!」と。
だからといって、母を責めているのではない。母は母で、その当時の常識の中でつくられた意識に従っていただけである。
で、その肝心の私はどうかというと、「誤った」とは、まったく思っていない。道をまちがえたとも思っていない。そのあとの生活は、たしかに苦しかったが、しかし、私は、一度だって、後悔したことはない。
なぜ、後悔しないかといえば、私は私で、そのときどきにおいて、懸命に考え、懸命に結論をだし、懸命に行動したからにほかならない。つまり、その「懸命」さが、私を救った。むしろ今、あのとき、M物産をやめてよかったと思うことが多い。
ときどきワイフは、こう言う。「あのまま、M物産にいれば、あなたは、もう少し、楽な道を歩むことができたかもしれないわね」と。
しかし、もし今ごろ、M物産にいたら、都会のオフィスで、お金の計算ばかりしているだろうと思う。あるいは私のことだから、出世競争に巻きこまれて、とっくの昔に死んでいるかもしれない。死なないまでも、廃人のようになっているかもしれない。
●そして運命
懸命に生きていくと、そのつど、その先に、進むべき、道が見えてくる。もちろんそれまでに歩んできた道もあるが、それが運命である。
もう少しわかりやすく言うと、最大限、つまり懸命に生きていると、そのつど、そこに「限界」が現れてくる。その限界状況の中で作られていくのが、その人の運命である。
たとえばこれは極端な例だが、魚はいくらがんばっても、陸にはあがれない。もちろん空も飛べないし、宇宙へ飛び出すこともできない。
こうした「限界」は、あらゆる生物にあり、人間もまた、その限界の中で、生きている。もちろん、私も、あなたも、である。それはあるが、しかし、その限界が、運命を決めるわけでもない。「限界」という、大きなワクは決まっているかもしれないが、その中で、どう生きていくかということは、その人自身が、決める。
また、よく誤解されるが、運命というのは、あらかじめ決まっているものでもない。
もしあらかじめ決まっているものなら、懸命に生きても、またそうでなくても、進むべき道は、同じということになる。しかし、そんなことは、ありえない。さらに一歩、譲って、仮に、運命というものがあるとしても、最後の最後のところで、ふんばって生きる。そこに、懸命に生きる人間の価値がある。意味がある。
「意識」のことを書いていたら、いつの間にか、「運命」の話になってしまった。どうしてかわからないが、そうなってしまった。ひょっとしたら、「意識」と、「運命」は、どこかで関係しあっているのかもしれない。(あるいはただの脱線かもしれない?)
しかしこれだけは言える。意識にせよ、運命にせよ、自らのたゆまない努力によって、変えられるものであるということ。大切なことは、そのときどきにおいて、懸命に考えること。生きること。そのあとのことは、そのあとに任せればよい。どんな意識になろうとも、またその結果、どんな運命になろうとも、それは、そのとき。
私たちは、ただひたすら、「今の自分」を信じて、前に進めばよい。
(031208)
● 人生を生きるには、二つの方法がある。奇跡など、まったくないと考える生き方。もう一つは、すべてが奇跡だと考える生き方である。(アルバート・アインスタイン)
● さらに先に行く者のみが、自分が、遠くにきたことを知ることができる。(T・S・エリオット)
● 私は失敗したのではない。私は、ただ、うまくいかない100000もの方法を発見しただけだ。(T・エジソン)
【3】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691
【子どもたちへ】
●限界
いくらがんばって生きても、
限界は、あるさ。
限界のない人生は、ないよ。
だけどね、生きるということは、
その限界、ギリギリまで、
懸命にがんばるということだよ。
いくら平和でも、いくら無事でも、
のんべんだらりと生きたのでは、
そんな人生からは、ドラマは生まれないよ。
その限界を知ることは、こわいことだけど、
しかし、楽しいことでもあるよ。
限界に近づけば、近づくほど、
それは、みんなの知らない世界だからね。
そう、君は、心の冒険者だよ。
大きな海を、船を操(あやつ)って進む、冒険者だよ。
さあ、君も、勇気を出して、その限界まで、
懸命に生きてみようよ。
人生は、楽しいよ。
(031208)
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●教室
ひとり、静かに、生徒たちがくるのを、待つ。
電気ストーブに、スイッチを入れる。
電気をつける。教材を出して、机に置く。
プリントを整理して、そしてそれが終わると、
自分の机にすわって、お茶を飲む。
たった今、電話があったところだ。
Bさんからのもので、「今日は、休みます」と。
私の仕事では、理由は、聞かない。親も言わない。
そしてまた机にもどり、お茶を飲む。
静かに時は流れる。風の音に混じって、
道路を走る、車の音。あと一つは、カチカチと
鳴りつづける、時計の音。あと一〇分……?
こういう仕事をするようになって、もう三四年が過ぎた。
あのときも、そしてまた、あのときも、
今と同じように、ひとりで、生徒を待っていた。
電気ストーブの明かりを見ながら、
その横で、袋をかぶった扇風機を見ながら、
ぼんやりと、あたりを見る。
そのとき、階下で、子どもの声がした。
つづいて、階段をのぼってくる音がした。
もう一度、体のコンディションをさぐる。
「今日も、だいじょうぶだ」と。
今、ドアがあいた。
一人の女の子が入ってきた。そしてこう言った。
「こんにちは!」と。
とたん、教室は、パッと明るくなった。
(031208)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●子どもを知る
自分を知ることは、むずかしい。同じように、自分の子どもを知ることは、もっと、むずかしい。
たいていの親は、いや、ほとんどの親は、「私の子どものことは、私が一番、よく知っている」と思っている。たしかにそういう部分もあるが、しかし、そう思うのは、少し、待ってほしい。
印象に残っている事件に、こんな事件がある。私が、二〇代のとき経験した事件である。
浜松祭の最中、一人の母親が、夜中に、電話をかけてきた。「うちの子(中学生)が、祭で酒を飲んでいて、警察に補導されてしまった。どうしたらいいかア!」と。
話を聞くと、母親は、「うちの子は、何も悪くない。友だちに、そそのかされただけだ」と。それで、すぐ、私もあちこちに電話をかけ、その方策を考えた。で、その中学生は、一、二時間、警察の派出所で説教されたあと解放されたので、その事件は、それ以上大げさにになることもなく、終わった。
で、翌日になって、その中学生の仲間たちに会ったので、それとなく話を聞くと、みな、こう言った。「アイツが、親分だった」と。つまり母親は「そそのかされた」と言っていたが、実は、その中学生が、むしろみなをそそのかして、酒を飲んでいたというのだ。
●仮面をかぶる子どもたち
こういう例は、本当に多い。もう一つ、こんな事件もあった。
ある夜、一人の親が、C君(中学生)の家に、怒鳴りこんできた。「お前の息子のせいで、うちの子が、学校へ行けなくなっている。どうしてくれる!」と。
C君の父親は、これに対して、「うちの子は、そんな子じゃない! バカなことを言うな!」と追いかえしてしまった。
が、C君は、たしかに、その友だちを、いじめていた。が、C君は、父親の前では、借りてきたネコの子のように、おとなしかった。だからC君の父親には、C君が、学校で、いじめを繰りかえしている子どもには、思えなかった。
これだけではないが、いつしか私は、こんな教訓を学んだ。『うちの子どものことは、私が、一番、よく知っていると豪語する親ほど、自分の子どものことがわかっていない』と。理由がある。
つまりそういうふうに、子どものことや、子どもの心を決めてかかる親ほど、傲慢(ごうまん)で、子どもの姿を見失いやすいということ。子どものほうが、親の前で、仮面をかぶることが多い。
●子どもを知るために……
自分の子どもをよく知るためには、謙虚になる。たとえば教える側で、一番、話しにくい親というのは、子どものこととなると、すぐカリカリする親である。
私「最近、何かと、反抗的になっていますが……」
親「うちでは、ふつうです」
私「でも、何か、うちでは変わったことはありませんか」
親「何も、ありません」と。
こういう言い方をされると、それ以上、会話がつづかなくなってしまう。そこで自分の子どもを、よく知るためには、とくに先生にたいしては、聞きじょうずになるということ。そのときのコツが、『先生と話すときは、わが子でも、他人』である。
他人と思うことで、自分の子どもを客観的に、見ることができる。そしてその分、先生も話しやすくなる。
私「最近、何かと、反抗的になってしますが……」
親「たとえば、どんなところでしょうか」
私「ええ、昨日も……」となる。
自分の子どものことを、正しく、知る。それは子育ての第一歩でもある。一つの大きなテーマとして、この問題を考えてみてほしい。
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これに関連して、地元のタウン誌に以前発表した原稿を、
いくつか添付します。
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先生と話すときは、わが子は他人
●話しにくい親たち
親と話していて、「うちではふつうです」「K塾では問題がありません」と言われることぐらい、会話がしにくいことはない。たとえば、私「このところ元気がありませんが……」、母「家ではふつうです」、私「どこかで無理をしていませんか」、母「K塾では問題なく、やっています」と。
先生と話すときは、わが子でも他人と思うこと。そう思うことで、親は聞き上手になり、あなたの知らない子どもの別の面を知ることができる。
たとえば子どもが問題を起こしたりすると、ほとんどの親は、「うちの子にかぎって!」とか、「友だちに誘われただけ」とか言う。しかし大半は、その子ども自身が主犯格(失礼!)とみてよい。子どもを疑えということではない。子どもというのはそういうもので、問題を起こす子どもほど、親の前では自分を隠す。ごまかす。
溺愛ママと呼ばれる母親ほど、親子の間にカベがない。一体化している。だから子どもに何か問題が起きたりすると、母親は自分のこととして考えてしまう。先生に何か問題がありますなどと言われたりすると、自分に問題があると言われたように思う。思うから、「子ども(私)には問題はありません」となる。
しかしこういう盲目性が強ければ強いほど、親は子どもの姿を見失う。そして結果として、子どもの問題点を見逃してしまうことになる。
●先生は本音でほめる
先生というのは、学校の先生も塾の先生も限らず、子どもをほめるときには、本音でほめる。しかし問題を指摘するときは、かなり遠慮がちに指摘する。
つまり何か先生のほうから問題を指摘されたときには、かなり大きな問題と思ってまちがいない。そういう謙虚さが、子どもの問題を知るてがかりとなる。言いかえると、子育てじょうずな人というのは、一方で聞きじょうず。自分のみならず、自分の子どもをいつも客観的にみようとする。
会話をしていても、「先生の意見ではどうですか?」「どうしたらいいでしょうか?」「先生はどう思いますか?」という言葉がよく出てくる。そうでない人はそうでない。中には、「あんたはいらんこと、言わないでくれ」と言った母親すらいた。しかしそう言われると、教師としてできることは、もう何もない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
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互いに別世界
●子育てには基準がない
子育てには尺度がない。標準もなければ、平均もない。あるのは「自分」という尺度だけ。そういう意味では、親は独断と偏見の世界にハりやすい。
こんなことがあった。S君(年中児)という、これまたどうしようもないドラ息子がいた。自分勝手でわがまま。ゲームに負けただけで、机を蹴っておおあばれしたりした。
そこである日、私は母親にこう言った。「もっと家事を分担させ、子どもをつかいなさい」と。が、母親はこう言った。「ちゃんとさせています!」と。そこで驚いて、どんなことをさせていますかと聞くと、こう言った。「ちゃんと箸並べと靴並べをしてくれます」と。
一方、こんな子どももいた。ある日、道で通りかかると、Y君(年長男児)は、メモを片手に、町の中を走り回っていた。父親は会社勤め、母親は洋品店を経営していた。だからこまかい仕事は、すべてY君の仕事だった。が、別の日、私がそのことでY君をほめると、母親はこう言った。
「いいえ、先生。うちの子は何もしてくれないんですよ」と。
箸並べや靴並べ程度でほめる親もいれば、家事のほとんどをさせながら、「何もしてくれない」とこぼす親もいる。たまたま同じ時期に私はS君とY君に接したので、その違いがよけいに強烈に記憶に残った。つまり、互いに別世界。
●風通しをよくする
こうした例は幼児教育の世界では、実に多い。たとえばかなり能力的に遅れがある子どもでも、「優秀な子ども」と親が誤解しているケースがある一方で、すばらしい能力をもっているにもかかわらず、「うちの子はだめだ」と親が誤解しているケースがある。
先日も、学校の勉強についていくだけでもたいへんだろうな思われる子ども(小五女児)をもった親が、こう相談してきた。「今度学習内容が三割削減されるというが、それでは学力がさがるのではないかと心配だ」と。
その母親は、「私立中学では今までどおり教えるというが、それは不公平だ」とも言ったが、こうしたおめでたさ(失礼!)は、多かれ少なかれ、どの親ももっている。それはというもの、結局は、互いに別世界に住んでいるからにほかならない。互いにもう少し風通しがよければ、こうした誤解は防げるのだが……。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
(031209)
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【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【雑感】
●掲示板への不良書きこみ
このところ、掲示板に、ほぼ数日おきくらいに、好ましくない、書きこみがある。「セクシーXX……何とか」「コスプレ、格安……何とか」「裏ビデオYY……何とか」など。
こうした書きこみは、気がついたとき、即、削除をこころがけている。が、追いつかないときもある。
以前は、こうした書きこみがあると、自宅にズカズカと、他人が入りこんできたように感じて、不愉快だった。しかし今は、もう、なれた。実際、こういう連中は、相手にしないほうがよい。
しかし子育てを中心とするホームページの掲示板に、そういう書きこみをするとは! こういうことをする連中は、私のホームページの性格も知らないで、書きこみをしているのだろう。だから、ますます相手にしないほうがよい。
また、好ましくない人からの、メールも、多くなった。しかしこうしたメールも、やはり無視するのが一番。いやがらせや、抗議のメールもある。私のばあい、やはり、即、削除をこころがけている。へたに反論したり、弁解したりすると、あとがたいへん。
決して、冷たいことを言っているのではない。インターネットは、文字情報がメインだから、言葉の中に、感情を混入するのが、たいへんむずかしい。相手は、こちらの文章を、相手の心境で、読む。それが誤解を招く。この誤解が、こわい。
たとえばこちらは、冗談のつもりで、「バ~カ」と書いたとする。しかし相手は、そのときの相手の心境で、こちらの文章を読む。そのとき、相手の心境が、沈んでいたとすると、「バカとは何だ!」となる。
しかしいくら商売(?)とはいえ、こういう書きこみを、平気でする人の心理が理解できない。必死なのか、それとも、追いつめられているのか。できるなら、こういう書きこみは、やめてほしいと思うが、インターネットでは、そういう人たちとの関連を断つことは、ほぼ不可能。これから先も、それなりにうまく、かわしながら、つきあうしかない。
●笑った!
インターネットのニュースを読んでいて、思わず、笑ってしまった。タイにも、お年玉年賀状というのが、あるそうだ。それはそれだが、その一等賞の賞品が、ナ、何と、「イラク旅行」!
記事を詳しく読むと、それにはいろいろな理由があるようだが、しかし、笑った。私なら、当たっても、辞退するだろうと、そのときは、そう思った。
● 家庭内別居
同居していても、たがいに別居状態。会話もなければ、いっしょに、食事をすることもない。寝室は、もちろん別々。ある夫婦は、同居しながらも、たがいの連絡は、ノートに書いて、とりあう……(報道)。
こうした家庭内別居は、今どき、珍しくない。しかし問題は、子どもである。
R氏夫婦(夫五〇歳、妻四一歳)も、夫は一階で生活。妻と子ども(小一女児と、四歳男児)は二階で生活。食事は、妻が作りおきするが、夫は、それにはほとんど口をつけず、近くのコンビニで買ってきた弁当を、毎日、食べている。
そのR氏が、かろうじて離婚に踏みきらないのは、二人の子どもがいるから。もともと子煩悩(ぼんのう)の人だった。しかし、そこがR氏の弱みでもあった。
妻は、二人の子どもを、二階へ閉じこめたまま、夫とは接触をさせないようにしていた。そして離婚話には、がんとして応じなかった。それには理由がある。
夫の父親が、たいへんな資産家で、市内にも、数百坪単位の土地と、いくつかの貸しビルをもっている。しかしそれらは、夫の父親のものであって、夫のものではない。
そこで夫の父親が死ぬまでは、離婚しない……というのが、妻の考えらしい。夫の父親が死ねば、財産は、夫のものとなる。その時点で、離婚すれば、莫大な財産分与を、夫に請求できる。
R氏は、もともと気の弱い人である。そういうこともあって、離婚に踏みきれずにいる。
……こう書くと、妻側が一方的に悪いように見えるが、R氏にも、責任がないわけではない。それについては、ここには書けない。R氏は、それほど親しくはないが、私の友人の一人である。で、話を戻すが、問題は、二人の子どもである。
R氏は、二人の子どもに会いたがっているが、妻がそれを許さない。つまり妻は、二人の子どもを、人質にとった形になっている。だからR氏も、離婚の話を進められない状態にある。
こういうとき、R氏は、どうしたらよいのか。「ぼくたち夫婦は、形だけなんですよ」と言うR氏。「話しあうといっても、毎日が一触即発。(離婚の話をもとだすだけで)、妻は、パニック状態になって、暴れます」と。
世間にはいろいろな夫婦がいる。幸福な夫婦は、みな、よく似ているが、不幸な夫婦は、まさに千差万別。一つとして、同じ形がない。
●不景気
こういうことを書くと、そうでない地方に住んでいる人は、不愉快に思うかもしれない。しかし私は、(私、個人のことではなく)、この浜松市に住んでいる人は、ラッキーだと思う。
今、日本中が、不景気のドン底にあるというのに、この浜松市だけは、比較的、活気がある。いや、本当のところ、この浜松市も不景気だとは思うが、それでも、他の地方とくらべると、はるかに、よい。
この浜松市には、HONDAやSUZUKI、それにYAMAHAなどの本社工場などが、ズラリとある。ROLANDや、ホトニクスなどの先端企業も多い。今は、あまり元気がないが、YAMAHAやKAWAIを中心とする、楽器産業も盛んである。
このところ、講演などで、あちこちへ行くが、どこへ行っても、その元気のなさに驚かされる。それに、沈んでいる。私の生まれ故郷の、G県のG市などは、浜松市から見ると、まるでゴーストタウン(失礼!)。「これが、同じ、日本なのか!」とさえ、思ってしまう。
が、そのG市でも、まだよいほうだ。関西方面へ行くと、もっと悪い。九州へ行くと、さらに悪い。九州のS県では、これは冗談だろうが、「まだ生きていますか?」が、あいさつ言葉になっているという。
しかし平成になってからの、この一五年間で、日本が、失ったものは、大きい。本当に、大きい。株価をみるまでもなく、それまで日本が、二〇年間かけてつくりあげてきたものを、すべて失ってしまった。
今は、個人も、企業も、公共団体も、そして国も、貯金を取り崩しながら、その日、その日を、何とか生き延びている。が、それも、ここへきて、急に、息切れし始めている。このままでは、二〇一五年を待たずして、二〇一〇年ごろには、アジアにおいて、日本と中国の立場は、逆転するだろう。
問題は、そのあとだが、日本を再生させるためには、私は、教育を自由化する以外に、道はないと思う。国というのは、民がつくる。そして国の未来は、今の子どもたちがつくる。その子どもたちのもつエネルギーを最大限、利用するためにも、教育を自由化する。日本が再生する道は、それしかない。
その方法については、また別のところで書いてみるが、ともかくも、今のままでは、この日本は、窒息してしまう。私は、それを心配する。
さて、この浜松市だが、このところ、やや明るさがもどってきた感じがする。静岡県の中でも、この浜松市だけでも。そして日本の中でも、この静岡県だけでも、元気が出てくれば、日本も少しは、明るくなると思う。
私一人が意気ごんだところで、どうにもなるわけではないが、ここは、ふんばって、がんばるしかない。さあ、浜松のみなさん、浜松人の心意気を、全国の人たちに見せてやろうではないか!
(031208)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●読者の方に、おわび
このところ、毎日のように、いろいろな方から、相談が届く。マガジン読者の方もいるが、ホームページからやってくる人、あるいはだれかの紹介で、やってくる人など。
一方、私は、ごくふつうの市民としての、ふつうの仕事や生活をしなければならない。小さいが、市内に、教室もある。また現在、ほぼ二日おきに、マガジンを発行している。一応、毎回、A四サイズ(1500字)程度で、二〇枚を目標にしている。
自分でもたいへんな量だと思う。「はたして読んでもらっているだろうか」という迷いは、毎回ある。直接知っている人でさえ、「読んでくれていますか?」と声をかけると、「先生のマガジンは、量が多いですから……(読んでいません)」と。
しかしこうしてマガジンを発行するのは、自分への挑戦のためでもある。たとえていうなら、毎日のジョギングのようなもので、それをするから、私は私の頭を、「ある状態」に保つことができる。
●ある状態
実は、これは深刻な問題である。
仕事や同窓会などで、同じような年齢に人に会うと、その人の頭は、いったい、どうなってしまったのだろうと、感ずることがある。印象に残っている人を例にあげる。
A氏(五六歳)……話し方そのものが、かったるい。「エー」とか、「ソノー」という言葉が多い。昔から、たいへんなヘビースモーカーで、今でも、一日一・五箱から二箱も、タバコを吸っている。
B氏(五〇歳)……いつも頭の回転が、ワンテンポ遅いという感じ。「ウン、マア」とかいう言い方が多い。彼もまた、ヘビースモーカーだが、加えて毎晩、ビールを、一~二本飲んでいるとか。
C氏(六〇歳)……デリケートな会話ができなくなってしまった。ズケズケとものを言う。秘密を平気でバラす。とくに知的な会話ができなくなってしまった。単語の数が、極端に少なくなってしまったよう。彼は、たいへんな酒豪で、宴会の席などでは、日本酒を、一人で一本、飲んでしまうこともあるという。
こうしてざっとみると、酒やタバコは、脳の働きを、硬化させるとみてよい。もちろんそのほか、脳梗塞(こうそく)の問題もある。年をとると、脳の中の微細な欠陥がつまり、そのため、脳神経がダメージを受けることもあるという。さらに、アルツハイマー型痴呆症の問題もある。
加えて私のばあい、低血圧症である。少しダイエットしたりすると、上が、一〇〇に届かないことがある。そういう人は、毎日運動をきちんとしないと、血流が末端まで、行きわたらないため、頭がボケるそうだ。
つまり、そのために、私は毎日、こうして原稿を書く。そうでもしないと、私は、私の脳ミソを、「ある状態」に保つことができない。
●時間がない
相談してくる人の気持は、よくわかる。そこでズルい考えかもしれないが、相談に答えながら、マガジンの原稿を書くという手法を、よくとる。
実際のところ、一つの相談に回答を書いていると、最低でも、一時間はかかる。ばあいによっては、二時間以上、かかる。
また、もらったメールを、そのまま転載するわけにはいかない。相手の方の了解を求めなければならない。しかしこの段階で、了解してくれる方は、約半数。残りの方は、「転載しないでくれ」と言ってくる。
そこでまた原稿の書きなおし……。
そんなわけで、どうしても、時間が足りなくなる。「足りない」というより、「ない」。一応、今のところ、いただいたメールには、すべて目をとおしている。できるだけ返事を書くようにしている。が、忙しいときもある。簡単な返事すら書けないときもある。
だからどうしても、回答を書きながら、同時に、マガジンの原稿を書くということになってしまう。
しかしこれは、相談してきた人には、不愉快なことにちがいない。その人が相談してきたことを、テーマとして取りあげただけで、「私の悩みをダシにした」と怒ってきた人さえいる。(だからといって、その人を責めているのではない。念のため。)
この種の相談は、それだけ、デリケートだということ。それがわかるから、私としてじは、そういった苦情には、あやまるしかない。
● 相談は、どうか掲示板のほうで……
私は、マガジン読者の方の力になりたいと思っている。今、私はマガジンの発行を、生活の中心にすえている。生きがいになっている。そういう生きがいを私にくれる、読者の方を、大切にしたい。これは当然のことではないか。
だから、もし相談をいただけるようなら、掲示板の方に書きこみをしてほしい。そうすれば、転載の許可を求める手間もはぶけるし、こちらで、メールの内容を、書き改めなくてもよい。そのまま直接返事を書きながら、マガジンの原稿とすることもできる。
相談が無理なら、テーマでもよい。「神経症について書いてほしい」「嫁、姑問題について考えてほしい」とか、など。そういうテーマをもらうと、私としては、俄然(がぜん)と、やる気が出てくる。とくに新しい分野について考えるのが、私は、大好き。調べている途中で、スリリングな(?)、興奮を覚えることがある。
以上、私から、読者のみなさんへの、お願いということになる。
【追記】
これからもよろしくお願いします。とにかく、第1000号まで、がんばってみます。そのあとのことは、考えていません。
(031209)
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■雑感特集(1)
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03-12-18号(334)
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto797
●あるがままを受け入れる
親子にかぎらず、人間関係というのは、相互的なもの。よく「子どもは、あるがままを受け入れろ」という。それはそうだが、それは口で言うほど、簡単なことではない。簡単なことでないことは、親ならだれしも知っている。
で、こう考えたらどうだろうか。「あるがままを受け入れる」ということは、まず自分も、「あるがままをさらけ出す」ということ。子どもについていうなら、子どもにはまず、あるがままの自分をさらけ出す。心を許すということは、そういうことをいう。しかしそうでない親もいる。
Tさん(五五歳)は、息子(四〇歳)に、「子ども(Tさんの孫)の運動会を見にきてほしい」と頼まれたとき、「足が痛いから行けない」と言った。しかしそれはウソだった。Tさんは、何か別の理由があったので、運動会へは行きたくなかった……らしい。それで「足が痛い」と。
この話の中で大切なポイントは、本当のこと(本音)を言えないTさんの心の状態にある。親でありながら、子どもに心を許していない。行きたくなかったら、「行きたくない」と言えばよい。
しかしTさんは、自分という親をよく見せるために、ウソをついた。つまりその時点で、親子でありながら心を開いていないことになる。しかしこういう関係では、子どものほうも心を開くことができない。子どもの側からして、親のあるがままを受け入れることができなくなってしまう。
そういう状態を一方でつくっておきながら、「うちの子どもは心を開かない」はないし、そうなればなったで、今度は「どうしても子どものあるがままを受け入れることができない」は、ない。
少しこみいった話になってしまったが、親子も、互いに自分をさらけだすことが、互いのきずなを深めるコツということ。そのために親は親で、子どもは子どもで、自分をさらけだす。美しいものも、きたないものも、みんな見せあう。また少なくとも、親子はそういう関係でなければならない。が、もしそれができないというのであれば、もうすでにその段階で、親子の断絶は始まっているということになる。
ただここで注意しなければならないのは、あなたが子どもに自分をさらけ出したからといって、子どももそれに応ずるとはかぎらないということ。ばあいによっては、子どもはあなたに幻滅し、さらには軽蔑するようになるかもしれない。
しかしそうなったとしても、それはしかたないこと。親子関係もつきつめれば、人間関係。つまりさらに言いかえると、親になるということは、それだけきびしいことだということ。
よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」という人がいる。それはそうだが、しかしそれをしなければ、結局は子どもにあきられる。よい親子関係をつくりたかったら、さらけ出しても恥ずかしくないほどに、親自身も一方で自分をみがかねばならない。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●依存性の二つの側面
依存性には、二つの側面がある。(1)相互依存性と、(2)依存性の伝播(連鎖)である。
相互依存性というのは、子どもに依存心をもたせることに無頓着な親というのは、自分自身もまただれかに依存したいという、潜在的な願望をもっているということ。その潜在的な願望があるために、子どもが依存心をもつことにどうしても甘くなる。
つぎに依存性の伝播(連鎖)というのは、こうした依存性は、親から子どもへと伝播しやすいということ。たとえば親に服従的であった子どもは、自分が親になったとき、こんどはそのまた子どもに服従を求めるようになりやすいということ。こうして依存性は、親から子へと代々と受け継がれていく。これを依存性の伝播(連鎖)という。
何ともわかりにくい話になったので、わかりやすい例をあげて考えてみる。
たとえば依存心の強い子どもは、おなかがすいて何かを食べたいときでも、「○○を食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア~(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。こうした言い方というのは、子どもだけの問題ではない。その子どもの親自身も、同じような言い方をする。
ある女性(六〇歳)は、いつも自分の息子(三五歳)にこう言っている。「私も歳をとったからねエ~」と。つまり「歳をとったから、何とかせよ」と。
……こう書くと、「それは日本語の特徴だ」と説明する人もいる。日本人はそもそもはっきりと言うのを避ける民族だと。
しかしこのことを別の角度からみると、日本人には、それほどまでに依存性が、骨のズイまでしみこんでいるということにもなる。つまり自分たちの依存性が、それが依存性であることがわからないまで、なれてしまっている、と。
で、ここにも書いたように、こうした依存性は、代々と、親から子どもへと伝えられやすい。一人の人が、親には服従しながら、自分の子どもには服従を求めていくという二面性は、日常生活の中でもよく観察される。
このタイプの親は、自分の価値観で子どもを判断するため、自分に対して服従的な子どもを、「できのいい子」と判断する。たとえば親にベタベタと甘え、親の言いなりになる子どもイコール、かわいい子イコール、「いい子」と、である。
こうして考えてみると、日本では親のことを「保護者」と呼ぶが、この保護者という言葉は、子育てにおいてはあまりふさわしくない言葉ということにもなる。言うまでもなく、保護と依存はちょうどペアの関係にある。親の保護意識が強ければ強いほど、それは同時に子どもに依存性に無頓着になる。
要は子育ての目標をどこに置くかという問題に行き着くが、子どもの自立ということを目標にするなら、依存心は、親にとっても、子どもにとっても好ましくないものであることは、言うまでもない。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
船頭は一人
●父親の悪口は言わない
そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。その中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。
ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。だからお母さんは、苦労しているのよ」と。あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」と。
母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。
この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。
たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、子どもの前ではしない。
父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」、
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。
こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子どものいないところで調整する。子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」と、まず子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、子どものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の大原則。
●夫婦は一枚岩
ある著名な教授がいる。数十万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こう書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。
しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。
子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。古いことを言うようだが、そういう「様」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子どもは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。
欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。その第一歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
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子どもの叱り方ほめ方
●叱り方・ほめ方は、家庭教育の要(かなめ)
子どもを叱るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているから、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果は、ない。叱るときは、次のことを守る。
(1) 人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)
(2) 大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。「子どもの脳は耳から遠い」と覚えておく。話した説教が、脳に届くには、時間がかかる。
(3) 相手が幼児のばあいは、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないため)。視線をはずさない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固定し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブー。体罰は与えるとしても、「お尻」と決めておく。(4)興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、(5)叱ったことについて、子どもが守れるようになったら、「ほら、できるわね」と、ほめてしあげる。
つぎに子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも、『忠告は秘かに、賞賛は公(おおやけ)に』と書いている。
子どもをほめるときは、人前で、大声で、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子どもの、やさしさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようになる。
実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。頭をほめすぎて、子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。
叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらにはがんばっている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子どもから、やる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の、脅しもタブー。結果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなときはなおさら、「あなたはよくがんばった」式の前向きの理解を示してあげる。
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