Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, June 07, 2011

●人生、へたに期待しないこと

●はやし浩司 2011-06-08

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今夜は、A氏が夕食に招待してくれるという。
カニ(ズワイガニ)食べ放題のバイキング料理。
ワイフと2人で行く。
楽しみ。

また、このところ、自分のYOUTUBEを見て、
癒されることが多くなった。
昨夜も遅くまで、ワイフとふとんの中でそれを
見ていた。
教室では聞き漏らした子どもたちの声が、
そのまま残っている。
それを聞くのが楽しい。
「ああ、あのとき、あの子は、こんなことを
言っていたんだア」と。

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●朝食のとき

 このところハチを多く見かけるようになった。
2~3匹、飛び交うのを見たら、近くにかなり大きな巣があるとみてよい。
これは私の経験。

「どこだろう?」
「どこかしら?」と。

 が、ハチというのは、(とくにスズメバチは)、自由気ままな虫。
すぐには巣に戻らない。
じっと見つめているが、そのうちフイとどこかへ行ってしまう。
見失ってしまう。
まるで忍者のよう。

 私は、しかしハチの巣を見つけたら、容赦しない。
何度か刺されて、私の体の中には抗体ができている。
刺されるたびに、体中が腫れる。
今度刺されたら、命があぶない。

 蜂の巣については、いろいろな退治の仕方がある。
しかしもっとも簡単な方法は、殺虫剤を使うこと。
ハチというのは、どういうわけか、あの殺虫剤に弱い。

夜中に、懐中電灯で照らしながら、巣の入り口に向けて、噴霧する。
たいてい入り口のところに、1~2匹、門番がいるので、まずそいつを殺す。
そのあとすかさず殺虫剤の口を、巣の入り口につけ、5分前後、噴霧しつづける。
やがて殺虫剤の液体が、巣の底を破り、ポタポタと落ちてくる。
そのころには、巣の中のハチは全滅。

 「殺す」というのも、残酷な話?
しかし「殺虫剤」という。
「退虫剤」とは言わない。
だからやはり「殺す」となる。

●「私の人生を、返して!」

 私の知人(男性)の妻が、夫にこう言ったという。
「私の人生を返して!」と。
知人は、そのとき60歳。
妻も、そのとき60歳。

 その話を聞いたときには、「そういうものかなア」と思った。
しかし今になって、その言葉が、ジンと胸にしみる。
言い忘れたが、その話を聞いたのは、4、5年前。
その知人は、現在、65歳。

 人生の(可能性)が小さくなり、(選択)の幅が狭くなる。
それまでは「何かあるかもしれない……」と、未来に希望を託すことができる。
が、60歳をすぎると、それができなくなる。
老後から「死」へ、一本道が、そこに現われてくる。
とたん、先細りの閉塞感。
が、振り返っても、そこには、何もない。
だから、こう言う。
「私の人生は、何だったのか」と。

●自分の人生を生きる

 この世の中で、自分の人生を生きている人は、いったい、どれほどいるだろうか。
みな、そのつど、何かの犠牲になりながら生きている。
仕事にしても、そうだ。
自分のしたい仕事をしている人は、ほとんどいない。
みな、何かにじっと耐えながら、その日の仕事をこなしている。
しかし何のために?

 ひとつには、家族がある。
妻や夫、子どもがいる。
しかしそれもやがて終わる。
「子はかすがい」と言う。
しかし一歩誤れば、「三界の足かせ」とも言う。

 憩いややすらぎを得るはずの家庭が、監獄へと一転する。
別の知人(男性)はこう言った。
「娘が2人いますが、2人とも片づいたら、今の妻とは別れます」と。
そういう夫婦もいる。

 ……となると、ここで最大の命題。
私たちは何のために生きているのか。

●不満

 そんな話をワイフとする。
もっとも私のワイフは、若いころから楽天的。
超がつくほど、楽天的。
うつ病とは、まるで無縁の世界で生きている。

私「お前は、そんなふうには、思わないのか」
ワ「私は、思わないワ……」
私「『私の人生を、返して!』って、思わないのか」
ワ「思わないはねエ」
私「どうして?」
ワ「思わないから、思わないだけよ」と。

 会話にならない。
つまりこれは生き様の問題というより、とらえ方の問題ということになる。
人生をどうとらえるか。
簡単に言えば、日常的に、不満があるかないかのちがい。
その不満が積もり積もって、「私の人生を、返して!」となる。
だったら、そのつど、不満を解消すればよい。

 その第一。
やりたいことをする。
言いたいことを言う。

 まずいのは(やるべきこと)もしないで、「何もできない」と愚痴をこぼすこと。
が、ワイフは、いつもこう言う。
「要するに、期待しないことよ」と。
「へたに期待するから、あとあと傷つくのよ。だったら、最初から期待しないことよ」と。

●期待しない人生

ワ「あなたの悪いところはね、いつも人に期待するところよ。これだけしてやったのだから、お返しがあるはずとね」
私「……」
ワ「人生についても、そうよ。これこれこれだけのことをしたのだから、お返しがあるはずとね。でもね、そんなものはないのよ。だって、あなたは自分のしたいことを、自分のためにしているだけでしょ」
私「まあ、そうかもしれないなア……」
ワ「そうでしょ。世の中の人たちはみな、自分のことで精一杯なのよ。いちいち他人のことに、構っておれないのよ。どうしてそれが、あなたには、わからないの」と。
 
 しばし、知人の妻が言った言葉を、頭の中で繰り返す。
庭先の畑の間では、相変わらずハチが飛び交っている。
まったく関係のない話だが、あのハチの寿命は、恐ろしく短いそうだ。
スズメバチについて言えば、女王蜂で1年程度。
(ハチの種類によっても、ちがう。)
しかし働き蜂は、30日程度。
たったの30日!

 そんな話をしながら、ワイフに、「たった30日じゃあ、何もできないね」と。

私「もっとも30年あっても、何もできないけどね」
ワ「ハチは子孫を残すことだけを考えているのよ」
私「そんなことも考えていないよ、きっと。プログラムされたとおりに行動し、そして死んでいく」
ワ「人間も似たようなものね。そう考えれば、気が楽になるでしょ」
私「そうだなア……」と。

●期待と犠牲心

 (期待)は、いつも(犠牲心)を引き連れてやってくる。
期待するから、犠牲心が生まれる。
その犠牲心が、心をゆがめる。

 子育てについても、同じ。
わかりやすく言えば、子どもには期待しないこと。
やるべきことを淡々とし、それで終わる。
へたに期待するから、あとになって、「裏切られた」と騒ぐ。

 もっともそのとき「先」があれば、まだ救われる。
その「先」がないから、「私の人生を、返して!」となる。

ワ「その点、あなたは幸せよ」
私「ぼくがア……?」
ワ「そうよ。あなたは毎日、自分のしたいことができるでしょ。今までだって、自分のしたいことをしてきたでしょ」
私「お前は、どうなんだ?」
ワ「私は満足しているわ」
私「そうかなあ……?」
ワ「そうよ」と。

●生きがい

 ……先ほど、ワイフはテニスクラブへ出かけていった。
私は書斎にひとり、残された。
朝食のせいか、眠気が襲ってきた。
たった今、椅子をうしろに大きく倒し、腕をあげ、あくびをしたところ。

 今日の予定は、会食以外に、とくになし。
「昼飯は抜きだな」と、今、思ったところ。
おいしいものを食べるのは楽しい。
しかしそのあと、体重計に乗って、いつも後悔する。
だから今は、こう考える。

「……だからそれがどうしたの?」と。

 つまり私たちはいつも、本能の奴隷になっている。
奴隷になりながら、奴隷になっているとも気づかない。
が、「……だからそれがどうしたの?」と自分に問いかけることで、奴隷になっていることに気づく。

おいしいものを食べた……だからそれがどうしたの?、と。

 言い換えると、私たちの人生は、どんなにがんばっても、99%は、意味のないことばかり。
それを繰り返している。
残りの1%だけでも、自分の人生を生きられれば、御の字。
それすらできない人も多い。
だから今は、こう思う。
もし私のワイフが、「私の人生は何だったの? 私の人生を、返して!」と言ったら、私はこう答えるだろう。

「それがあなたにふさわしい、あなたの人生」と。

 ……少し、きびしいかな?
今朝は眠いので、ここまで。
このあたりが思考の限界。
おはようございます。
6月8日朝、記。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司