Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, December 17, 2007

*Giving up the Pride to live

● プライドの放棄(Giving up your Pride)

When we live in this real world, very often we are forced to cast away or give up our pride in ourselves, especially when we get old. A master of a kindergarten of my friend said to me one day like this, “nowadays there are few mothers who ask us if her child can enter the kindergarten or not. They think that we have no choice but let them enter our kindergarten. So some mothers with her kids come and see everything in the kindergarten and at the end of the tour, they say, ‘What is your main policy of your kindergarten to teach?’”.As to the master, he said, “In most cases we shall not let this type of mothers enter our kindergarten. We are not working only for money.” But this is not my case. As for me I have to cast away or give up my own pride for money, otherwise it is rather impossible to live on. I need money to live on. Therefore I here say, when we get old, we have to cast away the pride of the past. In this world where old men live, our pride means nothing in most cases.

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「誇り」、つまり「生きるプライド」をもつことは、大切なことである。
それはわかる。
しかし同時に、そのプライドにこだわっていたのでは、生きていかれない。
とくに、老後を迎えてからは、そうである。

こんな話を聞いた。

ちょうど1年ほど前、一人の母親が子ども(3歳児)を連れて、ある幼稚園へ見学に来た。
朝から昼過ぎまで、一通りの授業がすんだあと、その母親は、こう言ったという。「お宅の幼稚園の教育方針は何ですか」「何か文書にしたものがあれば、それをください」と。

こういう母親のばあい、「入れていただけますか?」と、幼稚園側の意向を聞いてくるケースは、まずないそうだ。

「入園できるのは、当然」という考え方をする。
そういう前提で、話をしてくる。
少子化が進んで、どこの幼稚園も経営がきびしい。
それはそうだが、そのため、この世界も、完全に買い手市場化している。

別の、ある幼稚園(私立幼稚園)の園長も、こう言っていた。
「3回も、4回も見学に来て、給食まで試食したにもかかわらず、そのまま何も連絡もしてこない親がふえています」と。

こういうとき幼稚園側は、大きな選択に迫られる。
「それでも入園させるべきか、それとも、入園を断るべきか」と。

その園長は、そういう母親の子どもの入園は断ることにしているという。そのあと電話などで入園の申し込みがあっても、「定員になりました」と言うようにしているのだそうだ。
言い忘れたが、その園長も、今年60歳になった。

「この歳になると、お金だけで、生きたくない」と。

しかし私の仕事のようなばあいは、そうはいかない。

その園長は、10億円以上の金融資産を蓄えた。
少子化の時代といいながら、毎年、断らねばならないほど、園児が集まる。
が、私のばあいは、ちがう。
死ぬまで生活費を稼がねばならない。
身分がちがう。

プライドをズタズタにされても、頭をさげる。
さげなければ、仕事そのものができない。

・・・ということで、またまた団塊ブルース。

退職したといっても、その道を懸命に歩いてきた。
知恵も経験もある。
ないのは体力と気力だけ。

そういう人たちが、自分をぐいと殺して、頭をさげる。
それにともなう屈辱(くつじょく)感には、相当なものがある。
内心で、「バカにするな!」といくら叫んでも、それを口に出すことは許されない。

そこで冒頭の話にもどる。
プライドにこだわっていたのでは、生きていかれない。
「自分はバカだ」「用なしだ」と、自分に言って聞かせる。
さらには、「お金をもらえるだけでも、ありがたいこと」、またさらには、「生きていかれるだけも、ありがたいこと」と、思いなおす。

言いかえると、老後に入ったら、プライドは捨てる。
過去の肩書きもあるだろう。
地位もあるだろう。
しかし、それでも捨てる。
捨てた上で、そこから生きる。

それができなければ、反対に、社会そのものから、はじき飛ばされてしまう。
つまりこれは老後を生き抜くための、前提条件と考えてよい。

さあ、今日も私は、プライドを捨てた。
昨日も捨てた。
明日も、捨てる。

あとは、家に帰って、ワイフと慰めあうだけ。
抱きあって、眠るだけ。