Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, January 29, 2008

*An agony of an old couple

【ある老人の苦悩】

An agony of an old couple who has still been looking after their son who is now45 years old. Their son does not work at all but he sometimes steals the couple’s money from the safe. Until when shoud parents have their responsibility to look after their sons and daughters?

●ドラ息子

 その老人(八二歳)には、二人の息子がいた。長男は、今、四五歳。二男は、今、四〇歳。長男は、市内で、小さなレストランを開いている。二男は、隣のM県の県立病院で、ドクターをしている。

 その老人は、長男と同居している。もともと何かと問題のある長男で、高校を卒業したあとは、仕事をするでもなし、しないでもなし、十年近く、ブラブラしていた。老人は、元国鉄職員。毎月の年金は、約三二万円。そこそこの生活をするのには、困らないはずだったが、長男は、その老人のスネをかじりつづけた。が、それだけではなかった。

 長男は、金庫から、老人の貯金通帳を盗み、そこから勝手にお金を引き出し、遊興費に使ったりしていた。車を買ったり、趣味のモデルガンを買ったりなど。が、やがて老人の妻が倒れ、死んだ。老人が、七五歳のときのことだった。

 が、相変わらず、長男は遊びつづけた。ときどきアルバイトらしいことはしていたが、生活費は、一円も入れなかった。まったくのドラ息子。とんでもないドラ息子。しかしそんな息子でも、他人には、やさしかった。おだやかな男だった。とくに女性には、親切だった。結婚こそしなかったが、そんなわけで、老人の家には、いつも若い女が出入りしていた。

 老人の財産は、自宅の土地(一〇〇坪)と家。それに遺産で相続した、畑が六〇〇坪あまりあった。長男は、この財産に目をつけた。ああでもないこうでもないと理由をつけては、その土地を担保に、借金を重ねた。そのとき老人は、どこか頭の働きが鈍くなり始めていて、こまかい計算ができなくなっていた。が、気がついたときには、その畑は、宅地に転用され、さらに人手に渡っていた。

 二男はドクターをしていたが、ほとんど実家には帰ってこなかった。長男が二男を避けた。何かにつけてできの悪い長男、何かにつけてできのよい二男。そういう関係で、良好な兄弟関係など、育つはずがない。そういう長男だったが、ある日、その老人は私にこう言った。「昔から、できの悪い子どもほど、かわいいと言いますね。そのとおりですよ。S(二男)は、どこへいっても、ひとりで、しっかりやっていく子どもです。心配していません。しかしY(長男)は、そうではありません。だからよけいにかわいいです」と。

 今でも長男は、その老人の目を盗んでは、サイフからお金を抜き取っているという。小さな金庫もあるが、長男は、合いかぎをもっているらしい。しかしそれを知りつつ、その老人は、「まあ、いいじゃないですか……」と。「どうせ、すべて長男のものになるのですから」と。

●リズムでできる人間関係

 親に依存する子ども。子どもに依存する親。こうした依存関係は、一度できると、一方的なものになる。……なりやすい。尽くす側と、尽くされる側の立場が、はっきりしてくる。

 ある女性(七六歳)は、生活費のすべてを、息子(四九歳)に依存していた。息子は見るにみかねて、そうしていたが、今では、それが当たり前になってしまっている。息子はこう言う。「母にお金を渡すと、決まってこう言います。『大切に、つかわさせてもらうからね』と。まるで私がお金を出すのが当然というような言い方をします」と。

 一方、ここに書いたようなドラ息子がいる。ただ親からむしりと取るというだけの子どもである。それなりに社会性もあり、責任感もある子どもなのだが、親に対してだけは、そうでない。「してもらうのが当然」と考える。このケースでは、親が子どもに尽くしていることになる。

 問題は、なぜ、そうした依存関係が、「尽くす側」と、「尽くされる側」に、分かれるかということ。そこで調べてみると、最初は、ごくささいなことで始まるのがわかる。たとえば、「教える世界」でも、こんなことがある。

 定規を忘れる子どもがいる。そこで私は、いくつか定規を買いそろえておく。忘れた子どもに、貸してやるためである。しかしそういうことをすると、とたんに、定規を忘れる子どもがふえる。一度、こういう関係ができると、それを改めるのは、容易ではない。ある日突然、「もう定規は貸してやらない」などと言おうものなら、大混騒動になってしまう。

 さらに定規を用意しておくと、そのままもって帰ってしまう子どもが出てくる。「盗む」という意識からではない。無意識のまま、自分のケースに入れて、もって帰る。そこで毎月のように新しい定規を買い足して、補充することになる。が、ここで終わるわけではない。子どもは定規を粗末に扱うようになる。あちこちで使うたびに、定規をなくすようになる。そしてそのたびに、私のところから定規をもって帰る……。

 こうして定規について、「尽くす側」と、「尽くされる側」の立場ができる。もっともこれは定規という、教育の中の、ほんの一部の「部分」にすぎない。しかしこうした関係が無数に積み重なって、やがてそれが人間関係をつくる。子育てのリズムというのはそういうもので、一事が万事。最初は小さな流れが、無数に集まって、やがて大きな流れになる。で、一度そうなると、その流れを変えるのは、もう、容易なことではない。

●小さな流れのときに……

 大切なことは、「尽くす側」にしても、「尽くされる側」にしても、そういう流れをつくらないこと。わかりやすく言えば、サービス過剰も、またサービス不足も、子育てでは、決して好ましいものではないということ。とくに親としては、サービス過剰に注意する。サービス過剰は、決して子どものためにならないばかりか、結局は、そのツケは、親に戻ってくる。苦労するのは、親自身ということ。

 家庭では、こんなことに注意するとよい。

(1)一〇%のニヒリズムを大切に……全幅に子どもを愛するということと、全幅に子どもに尽くすということは、まったくの別問題。いつも心のどこかで、「子どもは子どもで、勝手に生きればいい」と、冷たい心をもつ。割合としては、一〇%くらいか。これを「一〇%のニヒリズム」という。

(2)必要なことと、そうでないことを分ける……子どもに何かをしてあげるときは、「子どもにとって、それが必要なことか、そうでないか」を、まず頭の中で考えるようにする。これはちょっとしたコツで、それを覚えると、できるようになる。そして「不必要」と感じたら、ぐんと自分をおさえる。あるいはしない。

(3)自分自身の中の依存性を知る……依存性というのは、体にしみついたシミのようなものだから、それを正したり、消すのは容易ではない。しかしそれに気づくだけでも、方向を変えることはできる。もし今のあなたが、親になっても、あなたの両親に対して、どこかベタベタしているようなら、あなたは無意識のうちにも、同じように、子どもにベタベタの関係を求めていることが多い。そしてその分、子どもは子どもで、あなたに対して依存心をもちやすくなっていると思ってよい。

(4)「必要な訓練(トレーニング)はするが、その限度をわきまえている親のみが、真の家族の喜びを与えられる」(バートランド・ラッセル)の言葉を、かみしめる。子育ては、いつもこの「限度」との戦いである。溺愛も、過保護も、過干渉も、過関心も、その限度を忘れたときに、問題になる。

●イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二~一九七〇)は、こう書き残している。「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。