*A Man from La Mancha
●2月29日号(Magazine for Feb. 29th edition)
I will issue nr. 1011st magazine on Feb. 29th, which is this. I issued nr. 1000th on the last Feb. 4th but it is funny that I don’t feel anything special in my mind that I have done something. Why not? I am stepping forward again to another goal of nr. 2000th, but I shall follow my nose. I just keep writing, which is everything for me.
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この原稿は、2月29日号ということ
になる。
去る2月4日(月)に、電子マガジンは、
1000号になった。
だからこの2月29日号は、1011号という
ことになる。
つぎの1000号をめざして、また、
長い戦いが始まった。
しかし2000号は、目ざさない。
成り行きに任せる。
あとは行けるとこまで行く。
ただとても残念なことに、1000号
を超えたというのに、「何かをなし遂げた」という
実感は、ほとんど、ない。
どうしてだろう?
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●雑感・あれこれ
今日は、1月30日。
このところ、何かにつけて、忙しい。
たとえば、こうだ。
私のしたいことと、ワイフのしたいことが
同時にあったとする。
そういうときは、両方とも、する。
あるいは、1時間でもヒマができたら、
その1時間で、したいことをする。
けっして、あと回しにしない。
もちろん私の仕事もある。
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●まじめに生きる
ときどき、まじめに生きるのが、バカらしくなる。
ほんとうは、そうであってはいけない。
それはわかっている。
しかしそのバカらしさと戦うのも、たいへん。
言うなれば、これは(内なる敵)との戦いということか。
ワイフも、ときどき、こう言う。
「あなたは、ラマンチャの男(=ドンキホーテ)みたい」と。
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原稿をさがしてみた。
何と、6年前にも同じことを考えていた。
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●私はドンキホーテ
セルバンテス(ミゲル・デーサーアベドラ・セルバンテス・1547~1616・スペインの小説家)の書いた本に、『ドンキホーテ』がある。『ラマンチャの男』とも呼ばれている。夢想家というか、妄想家というか、ドンキホーテという男が、自らを騎士と思いこみ、数々の冒険をするという物語である。
この物語のおもしろいところは、ひとえにドンキホーテのおめでたさにある。自らを騎士と思いこみ、自分ひとりだけが正義の使者であり、それこそ世界をしょって立っていると思いこんでしまう。そして少し頭のにぶい、農夫のサンチョを従者にし、老いぼれたロバのロシナンテに乗って、旅に出る……。
こうした「おめでたさ」は、ひょっとしたら、だれにでもある。実のところ、この私にもある。よくワイフは私にこう言う。「あんたは、日本の教育を、すべてひとりで背負っているみたいなことを言うね」と。最近では、「あなたは日本の外務大臣みたい」とも。私があれこれ国際情勢を心配するからだ。
が、考えてみれば、私一人くらいが、教育論を説いたところで、また国際問題を心配したところで、日本や世界は、ビクともしない。もともと、だれも私など、相手にしていない。それはいやというほどわかっているが、しかし、私はそうではない。「そうではない」というのは、相手にされていると誤解しているというのではない。私は、だれにも相手にされなくても、自分の心にブレーキをかけることができない。そういう意味で、ドンキホーテと私は、どこも違わない。あるいはどこがどう違うのか。
よく、私塾を経営している人たちと、教育論を戦わすことがある。私塾の経営者といっても、経営だけを考えている経営者もいるが、中には、高邁(こうまい)な思想をもっている経営者も、少ないが、いる。私が議論を交わすのは、後者のタイプの経営者だが、ときどき、そういう経営者と議論しながら、ふと、こう思う。「こんな議論をしたところで、何になるのか?」と。
私たちはよく、「日本の教育は……」と話し始める。しかし、いくら議論しても、まったく無意味。それはちょうど、街中の店のオヤジが、「日本の経済は……」と論じるのに、よく似ている。あるいはそれ以下かもしれない。論じたところで、マスターベーションにもならない。
しかしそれでも、私たちは議論をつづける。まあ、そうなると、趣味のようなものかもしれない。あるいは頭の体操? 自己満足? いや、やはりマスターベーションだ。だれにも相手にされず、ただひたすら、自分で自分をなぐさめる……。
その姿が、いつか、私は、ドンキホーテに似ていることを知った。ジプシーたちの芝居を、現実の世界と思い込んで大暴れするドンキホーテ。風車を怪物と思い込み、ヤリで突っ込んでいくドンキホーテ。それはまさに、「小さな教室」を、「教育」と思い込んでいる私たちの姿、そのものと言ってもよい。
さて私は、今、こうしてパソコンに向かい、教育論や子育て論を書いている。「役にたっている」と言ってくれる人もいるが、しかし本当のところは、わからない。読んでもらっているかどうかさえ、わからない。しかしそれでも、私は書いている。考えてみれば小さな世界だが、しかし私の頭の中にある相手は、日本であり、世界だ。心意気だけは、日本の総理大臣より高い? 国連の事務総長より高い? ……勝手にそう思い込んでいるだけだが、それゆえに、私はこう思う。「私は、まさに、おめでたいドンキホーテ」と。
これからも私というドンキホーテは、ものを書きつづける。だれにも相手にされなくても、書きつづける。おめでたい男は、いつまでもおめでたい。しかしこのおめでたさこそが、まさに私なのだ。だから書きつづける。
(02-12-21)
●毎日ものを書いていると、こんなことに気づく。それは頭の回転というのは、そのときのコンディションによって違うということ。毎日、微妙に変化する。で、調子のよいときは、それでよいのだが、悪いときは、「ああ、私はこのままダメになってしまうのでは……」という恐怖心にかられる。そういう意味では、毎日、こうして書いていないと、回転を維持できない。こわいのは、アルツハイマーなどの脳の病気だが、こうして毎日、ものを書いていれば、それを予防できるのでは……という期待もある。
●ただ脳の老化は、脳のCPU(中央演算装置)そのものの老化を意味するから、仮に老化したとしても、自分でそれに気づくことはないと思う。「自分ではふつうだ」と思い込んでいる間に、どんどんとボケていく……。そういう変化がわかるのは、私の文を連続して読んでくれる読者しかいないのでは。あるいはすでに、それに気づいている読者もいるかもしれない。「林の書いている文は、このところ駄作ばかり」と。……実は、私自身もこのところそう思うようになってきた。ああ、どうしよう!!
●太陽が照っている間に、干草をつくれ。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●命のあるかぎり、希望はある。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●自由のためなら、名誉のためと同じように、生命を賭けることもできるし、また賭けねばならない。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●パンさえあれば、たいていの悲しみは堪えられる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●裸で私はこの世にきた。だから私は裸でこの世から出て行かねばならない。(セルバンテス「ドン・キホーテ」
●真の勇気とは、極端な臆病と、向こう見ずの中間にいる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
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