Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, January 29, 2008

*Depression of a family

●新聞の投書から……

I read an article on a newspaper in which her families were suddenly dropped into a sorrow, since their eldest daughter announced that she would get married soon. But why? In this case of the announcement, families would be glad and receive the news with a joy. But in this column her father was deeply depressed with the news.

 少し前、M新聞の朝刊にこんな投書が載っていた。今では、新聞記事でも、そのまま転載することはできない。著作権の問題がからむ。で、少し内容を変えて、ここに紹介する。

 「私にとって、記憶に残る大切な日。それは、姉と結婚したいと言って、一人の男性が、私の家にたずねてきた日。だれも姉の結婚に反対したわけではないが、父は、そのあと一日中、押し黙ったまま、背中を丸めて、テレビを見ていた。母も、台所で洗いものをしながら、ハンカチで顔を押さえて泣いていた。それから一週間ほど、私の家は、重苦しい雰囲気に包まれた。冷ややかなムードになり、母はふて寝を繰りかえし、口数も少なくなった。私も怒ったり、泣いたりした。姉がいなくなるという、さみしさに、家族それぞれが、それぞれの方法で耐えていた」と。

 長女の結婚について、家族の狼狽(ろうばい)ぶりが、よくわかる。しかし私は、この投書を読んだとき、「どうして?」という気持ちが、先にきてしまった。「どうして、家族は、長女の結婚を、そのようにとらえたのか?」と。

 結婚の申しこみが、あまりにも急なことだったので、心の準備ができていなかったのか。長女が、まだ若くて、結婚を考える年齢ではなかったのか。長女が、一家の中では、大切な存在だったので、それがつらかったのか。いろいろ考えられる。その家族には、その家族しかわからない、心の事情というものがある。

が、私が「どうして?」と思ったのは、そのとき、家族のだれか一人でも、結婚の申しこみを、喜ぶことはできなかったのかということ。投書を出した二女まで、「おとなげない態度を、姉にしてしまった」と書いている。どうして? まさか長女にとって、不本意な結婚というわけでもなかったと思う。投書の終わりは、こうなっている。「今では元気な三児の母。これからも幸せを願わずにはいられない」と。

 まず考えられるのは、日本人は昔から、娘の結婚を、「取られる」ととらえること。今でも、「娘を、嫁にくくれてやる」とか、「嫁をもらう」とか言う人がいる。いわゆる娘に対して、モノ意識をもっているとも考えられる。

しかし、どうもそれだけではないようだ。私はこの投書を読んだとき、たがいの間に流れる、ベタベタの人間関係を感じた。子離れできない親、兄弟離れできない妹、そしてそれをつなぐ、相互の依存関係。それが悪いと言っているのではない。(悪いと言っているようなものだが……。)それが日本の家族であり、その家族には、外国にはない、温もりがある。

 たとえば、私の母は、いくら「いらない」と言っても、朝ごはんを用意してくれる。「急いで帰るから、朝食は食べない」と言っても、だ。実家の土間で靴をはきかけていると、母はこう言う。「いいから、食べていけ」と。

 一方、アメリカでは、こうはいかない。「~~してくれ」「~~してほしい」と、いちいち言わなければ、何もしてくれない。へたに、「朝食はいい」などと言おうものなら、本当に、何もしてくれない。日本人の私からみると、アッケラカンとしすぎていて、どこかもの足りない。

 こうした違いが積もりに積もって、たがいの国民性をつくる。そしてそれが家族のあり方、さらに家族の関係にまで影響をおよぼす。

 もしこの段階で、つまり「一人の男性が、私の家にたずねてきた日」に、もう少し、親は親で自立していたら、親の見方は変わったのではないだろうか。二女は二女で自立していたら、二女の見方は変わったのではないだろうか。

全体として、もう少し、長女の結婚を前向きに喜び、前向きに祝うことができたのではないだろうか。「おめでとう! よかったね! 幸せになってね!」と。私には、「そうあるべきだ」とまで書く勇気はないが、しかし私がもっている感覚とは、ずいぶんと違うように思う。もっとも、私には娘がいない。だから娘をもった親の気持ちはわからない。だから軽率なことは書けないが、どう頭の中でシミュレーションしてみても、そのときのその父親のような心境にはならない……と思う。

 さて、みなさんは、どうだろうか。親の立場というよりも、自分自身を娘の立場に置いて、考えてみてほしい。あなたに恋人がいた。結婚を考えるようになった。そこで相手の男が、自分の両親に会いにきた。そして承諾を求めた。とたん、一転して家庭の中が暗くなってしまった! 険悪なムードが流れ、たがいにピリピリし始めた。しかしだれも結婚に反対しているわけではない。が、そういうムードになってしまった!

 この先は、その投書の人に失礼になるので、書けない。しかしこれだけは言える。日本には日本の、これから克服していかねばならない問題は、山のようにある。この投書の中には、それを考えさせる、ひとつのヒントが隠されている。もう一度、みなさんも、この投書を、じっくりと読んでみてほしい。

女……それは男の活動にとっては、大きな(つまづき)の石となる。女を恋しながら、何かをすることは、むずかしい。しかし、ここに恋が妨げにならない唯一の方法がある。それは恋する女と結婚することである。(トルストイ「アンナ・カレーニア」)