*Spoiled Children
【自分を見失う子どもたち】(Spoiled Children)
Where should I go? What should I do? What do I want to do? These children don’t know even what they really are.
●ドラ息子、ドラ娘
ドラ息子症候群というのがある。自分勝手でわがまま、ものの考え方が、享楽的で(=その場だけの快楽を求める)、ぜいたく。自己中心性が強く、対人、対物許容範囲が狭い。好き嫌いを平気で口にし、相手やものの「非」をとらえて、不平、不満を並べる。
このタイプの子どもについては、たびたび書いてきたので、ここでは、その先を考える。ずいぶんと前だが、こんな子ども(中学生、女子)がいた。……といっても、架空の中学生と考えてほしい。いくつかの事例を、ひとつにまとめてみる。名前を、Yさんとしておく。
ある日のこと、Yさんが、突然、こう言った。「帰ります」「タクシーを呼んでください」と。あまりにも突然のことなので、驚いた。が、私はその場の雰囲気に負けて、タクシーを呼んだ。
あとで理由を母親に聞くと、母親は、こう言った。「あの子は、よそのトイレが使えないのです」と。つまり「よその家では、大便ができない」と。
こういうケースは珍しくない。わがままというより、ぜいたくざんまいに育てると、子どもは、そうなる。いやなことはしない。きたない仕事はしない。つらい経験はしない。世界が自分を中心に回っているかのように錯覚する。また世界の中心にいないと、気がすまない。
そのYさんは、よくこう言った。「先生は、教室の消毒をしていますか?」と。「どうして?」と聞くと、「机の上に、ホコリがたまっています」「壁にゴキブリのウンチのシミがついています」と。こまかいことを、そのつど指摘しては、おおげさに騒いだ。
で、このタイプの子どもは、学習面でも伸び悩む。「学習」には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える「力」がない。
これについても、すでにたびたび書いてきたので、ここではさらにその先を書く。
●自己同一性の危機
このタイプの子どもは、やがて、自分を見失う。発達心理学の世界には、「自己の同一性」という言葉がある。その「同一性」が、バラバラになってしまう。
自分で何を、どうしたらよいかも、わからなくなってしまう。自分が何をしたいかも、わからなくなってしまう。自己中心性が強いから、他人から、どのように見られているかも、わからなくなってしまう。
たとえて言うなら、糸の切れた凧のような状態になる。フラフラと風任せ。あるいはそのままドスンと下に落ちてくる。つまり非行の道へと、まっしぐら。
Yさんは、教室へ入るやいなや、よくこう言った。
「あんた(=私のこと)も、おかしな顔をしているね」
「奥さんがかわいそう」
「こんな暑苦しい部屋じゃ、勉強なんかできない」と。
もちろん勉強など、しない。能力的には、かなり恵まれた子どもだった。頭もよかった。しかしそれだけに、扱い方がむずかしかった。自分の非を棚にあげて、「ああでもない」「こうでもない」と、他人を批判した。
Yさん自身も、「私はできるはず」という部分で、葛藤していたと思う。(プライド)と(現実)のギャップの中で、もがいていた。
一度、こう言ったことがある。「そんなにここへ来るのがいやだったら、お母さんに、そう話してあげようか」と。
しかしそれについては、Yさんは、がんこに拒否した。心の中では、不満と不平が、ウズを巻いていた。それから生まれる怒りを、私にぶつけていた。私を口汚くののしることで、欲求不満を解消させようとしていた。私にも、それがよくわかっていた。
●非行
で、このタイプの子どもは、一度、非行の道に入ると、そのまま、まっしぐらにその道へと入ってしまう。(だからといって、非行が悪いというのではない。またそれでもって、子育てに失敗したというわけでもない。誤解のないよう。)
Yさんは、中学2年になるころには、性的経験をもつようになった。私には、雰囲気から、それがよくわかった。ある日、筆入れの中に、子どもがもつようなものでない装飾品が入っていた。それを私が指でつまんで、「これは何?」と聞くと、Yさんは、艶(なまめ)かしい声で、こう言った。「ウフン……。いいじゃん……」と。
私は親に話すべきかどうかで、迷った。しかし言わなかった。言えば、私と子どもとの間の信頼関係は消える。信頼関係が切れた状態で、子どもの指導はできない。親の側から相談でもあれば話は別だが、こういうケースのばあい、知って知らぬフリをする。性的経験にしても、「疑わしい」というだけで、確証があるわけではない。
では、どうするか?
●二番底に注意
このタイプの子どもは、進むべき方向性をいっしょにさがしてやるのがよい。しかし先にも書いたように、自分でも、どうしたらよいか、それがわかっていない。「あなた何をしたいの?」と聞いても、「遊びたい」とか、「お金がほしい」とか、言う。そこでさらに、「どんなことをして遊びたいの?」「お金があったら、何を買うの?」と聞いても、その答がない。「わかんない……」とか言う。
別の方法としては、スポーツや運動で、自分を燃焼させるというのがある。しかしこの段階になると、それもしない。「いやだ」「できない」「したくない」の悪循環の中で、ますます遠ざかっていく。
……と書くと、「お先、真っ暗」ということになる。が、ここで待ってほしいのは、このタイプの子どもは、その状態が、最悪の状態ではないということ。その「最悪」の下には、さらにその最悪がある。これを私は「二番底」と呼んでいる。
(この「二番底」「三番底」論は、はやし浩司のオリジナルである。どうか、無断で流用しないでいただきたい。)
たとえば非行といっても、いろいろある。(門限破り)→(外泊)→(家出)と進む。さらに(長期家出)→(同棲)→(性病、妊娠)と進む。
わかりやすく言えば、「直そう」とは思わないこと。それ以上、状態を悪くしないことだけを考えて、対処する。あとは、時間を待つ。この段階で、あせって、何かをすればするほど、逆効果。私が言う、二番底、三番底へと落ちていく。
その期間は、驚くほど、短い。ほとんどの親は、こう言う。「あっという間でした」と。それこそ、1、2か月の間に、そうなる。それだけに、親が気づくということもない。「非行に走る」という言葉がある。まさに「走る」という状態になる。
で、子どもが非行に走ると、ほとんどの親は、「うちの子は誘われただけです」と言う。「友だちが悪い」と。しかしよく調べてみると、その子ども自身が中心核になっているというケースは多い。
●変化に注意
さらに問題がつづく。子どもというのは、ウソをつく。仮面をかぶる。一方、親のほうは、「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、子どもの変化を見逃してしまう。私の経験からして、こういうケースで、子どもの姿を正確にとらえている親は、まずいない。
Yさんにしても、父親の前では、借りてきた猫の子のように、おとなしかった。が、その一方で、母親は、Yさんを溺愛していた。一度、こんなことがあった。
私がYさんの希望進学校を聞いたときのこと。母親は、私にこう言った。「私からは聞けませんので、先生(=私)のほうから、聞いてください」と。私は、「ハア……」と言っただけで、何も言うことができなかった。
そのYさんについて言えば、極端にきびしい父親、極端に甘い母親の間で、(三角関係)ができていた。つまり家庭教育そのものが、崩壊していた。
結局、この問題は、行き着くところまで行く。行かなければ、親も気がつかない。この問題だけは、子どもの問題というよりは、親の問題。親問題というよりは、家庭の問題。子どもは、その(代表)にすぎない。
が、だからといって、それでその子どもが、ダメになるわけではない。先に、「非行が悪いわけではない」と書いたが、それは、そういう意味である。多かれ少なかれ、子どもというのは、同じような道をたどりながら、やがておとなになっていく。この時期の失敗(?)が、そのまま一生つづくということはない。
さらに言えば、ドラ息子、ドラ娘ということになれば、日本の子どもたちは、みな、ドラ息子、ドラ娘ということになる。世界的な水準からすれば、そうである。ある母親は、こう言った。
「先生は、ドラ息子の話をしますが、私の夫が、そのドラ息子です。どうしたらいいでしょうか?」と。
しかし……。
よいか悪いかということになれば、子どもは、ドラ息子、ドラ娘にしないほうがよい。苦しむのは、結局は、子ども自身ということになる。それこそおとなになる過程で、「長くて曲がりくねった道」(ビートルズ)を歩かなければならない。
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