*Japan vs USA in coping with children *Reading Books
●日本の子育て(Our way of raising children)
My son with his wife and two sons came to my house and went back home yesterday. I have learnt a lot from them, especially about the difference between American way of raising children and Japanese one.
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二男夫婦が、嵐のようにやってきて、
嵐のように去っていった。
「嵐」というのも、大げさだが、私には、
そんな感じがする。
それまで無風地帯だった我が家が、
嵐のように騒々しくなった。
だからやはり「嵐」と思う。
その二男から学んだものは、多い。
二男が残していったものも、多い。
それを今のうちに、忘れず、ここに
書きとめる。
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●アメリカ流、合理主義
二男が日本を去ったのは、二男が、高校を卒業したとき。
現在、満29歳だから、アメリカで生活するようになって、11年ということになる。
「たった11年」と思う人もいるかもしれないが、青年期の11年は、長い。重い。
二男は、日本人というより、すっかりアメリカ人になった。……なってしまった。
もし今、二男に、日本の生活をしろと言っても、二男には、できないだろう。
理由がある。
「アメリカ的である」ということは、「アメリカ的なスタンダードを身につけてしまった」ということ。
日本を見る目そのものが、アメリカ的である。
つまり、ものごとをアメリカを基準にして見ている。
……といっても、二男が、直接、そう言ったわけではない。
この10日間、いっしょに生活してみて、私がそう感じた。
「アメリカはこうだから、日本も、こうあるべきだ」というようなことを、ときどき、口にした。
あるいは「アメリカ人はこうしているから、日本人も、こうすべきだ」と。
そんなアメリカ人をとらえながら、よくオーストラリアの友人は、こう言う。
「アメリカ人は、傲慢だ(arrogant)」と。
私も、二男の中に、それを感じた。
●複雑な感情
二男にとってのアメリカというのは、そういうものかもしれない。
しかし私にとってのアメリカは、やや意味がちがう。
古くは学生時代から……。
私は大学生のとき、ガイドのアルバイトをしていた。
金沢の駅前にある「Mホテル」の専属のガイドである。
相手は、もっぱら、アメリカ人。
当時のアメリカ人は、超の上に、超がつく、金持ち、だった。
それもそのはず。
当時の日本の大卒の初任給が、3~4万円。
羽田~ニューヨーク間の、片道航空運賃が、17万円。
往復、34万円。
私は、この値段をよく覚えている。
私は、その17万円をためて、アメリカへ渡るつもりだった。
つまり日本人が、1年間働いて、やっとアメリカまでの航空運賃を手にすることができた。
一方、当時、アメリカでは、大卒の初任給が、17~8万円だった。
私はこれらの数字を見比べながら、こう驚いた。
「アメリカ人というのは、初任給だけで、日本へ来ることができる!」と。
そのアメリカ人は、例外なく、みな、私を、奴隷のように扱った。
女性観光客の靴を、はかせられたこともある。
地面にはいつくばって、地図の説明をさせられたこともある。
私にとってのアメリカというのは、そういう国だった。
アメリカ人というのは、そういう人たちだった。
●時代が変わった?
二男は、すっかりアメリカ人になったつもりでいる。
時代も変わった。
アメリカ人も、変わった。
アジア人だからといって、小さくなっている時代は、終わった。
そのことは、オーストラリアを見ても、わかる。
私が学生時代のころは、オーストラリアは、「白豪主義(White Australian Polocy)」の国と呼ばれていた。
しかし今では、大都市部では、そのうちの3~4割がアジア系人種で占められるようになった。
どこへ行っても、アジア人が、大きな顔をして歩いている。
それはわかるが、「心」というのは、そんなに簡単には、変えられるものではない。
「時代が変わりました。だからあなたがもっているアメリカ人像は、まちがっています」と言われても、困る。
私にとってのアメリカ人像は、あのころのアメリカ人像が基本になっている。
つまり学生時代のアメリカ人像である。
もう少し年配の人たちにとっては、ひょっとしたら、戦時中のアメリカ人かもしれない。
私の父は、台湾でアメリカ兵と交戦し、2発の貫通銃創を受けている。
少なくとも、現在の二男がもっているアメリカ人像とは、ちがう。
●ひもじさとの戦い
二男は、日本が豊かになりきったあと、アメリカに渡った。
つまりそれまでの日本、つまり1950~80年にかけての日本を知らない。
さらに言えば、戦後の日本を知らない。
戦後の日本が、どういう国だったかも、知らない。
あのころの私たちは、懸命に生きた。
生きてきた。
これは二男にかぎらないが、最近の若い人たちは、「お金(マネー)は、天から降ってくるもの」と思っている?
ときどき、そんな雰囲気も感じた。
一方、私たちの世代は、子どものころから、(ひもじさ)との戦いだった。
しかし二男にかぎらず、今の若い人たちは、(ひもじい)という言葉の意味さえ知らない。
へたにそれを口にすると、「そんなのは、パパたちの責任」と言われそう。
つまり「親が苦労したとしても、ぼくたちには関係ない」と。
わかりやすく言えば、「親が学費を出すのは当然」という前提で、ものを考える。
その学費を稼ぐために、親である私たちがいかに苦労したかなどという話は、今の若い人たちには、通じない。
しても、ムダ。
しかしこれも、考えてみれば、私たちの責任かもしれない。
●独立精神
悪い面ばかりではない。
アメリカ流子育てを見ていて、いくつか気がついたことがある。
孫の誠司を連れて、いくつかの観光地へ行ってきたが、どこへ行っても、孫の誠司は、何もほしがらない。
みやげもの屋の中を歩いても、ただ手に取って見るだけ。
「ほしい」とか、「買って」とか、言わない。
「日本の子どもとはちがうなア」と思った。
あるいは育て方の基本が、ちがう?
孫の誠司にしても、YES・NOを、明確に表現する。
まだ6歳になっていないのに、自分の意思をしっかりと表現する。
だからそのつど、私の方が、孫の誠司に意思を確かめなければならない。
「~~へ行くが、いっしょに行くか?」
「~~を食べるが、食べたいか?」と。
日本では、こういうとき、あらかじめ親の方針を立てて、子どもに押しつける。
子どもの意思をいちいち確かめていたら、行動そのものが、できなくなってしまう。
……という考え方を、二男夫婦は、しない。
二男夫婦は、孫たちに、そのつど意思を確かめながら行動していた。
そういう姿を見て、私は、「親も、たいへんだなア」と思った。
「そこまで気をつかうのか?」と。
あるいは「そこまで気をつかう必要があるのか」とも思った。
あああ、やはり、私は日本人だア!
●嵐が去った
これは私の職業のせいかもしれない。
別れ強いというか、(別れ)に対して、かなりの免疫力がある。
ふつうなら、(多分?)、孫たちと別れるジイ様、バア様は、涙をこぼして……となる。
しかし私には、それがない。
昨日、二男夫婦は、孫たちを連れてアメリカへ帰っていった。
それを見送ったあと、午後から、年長児の指導をした。
今の私は、自分の息子たちに対してよりも、自分の生徒たちのほうに、強い愛情を感ずる。
居心地がよい。
孫についても、同じ。
ちょうど同じ年齢の子どもたちを指導しながら、心のどこかでふと、こう思った。
「この子たちにも、祖父母がいるんだな」と。
だから昨日は、私のほうがハイになり、乗りにのりまくって、楽しいレッスンを展開した。
子どもたちも、笑いっぱなしだった。
楽しかった。
おもしろかった。
……ということで、「嵐」は、去っていった。
と、同時に、「親子って、いったい、何なのか?」とも、考えた。
親は、自分の子どもを、いつまでも、「私の子」と思うかもしれない。
しかし子どものほうは、「親の子」とは思わない。
いや、これとて、実に日本的な発想かもしれない。
アメリカでは、親は、自分の子どもでも、「私の子」とは思わない。
いわんや子どものほうも、「親の子」などとは、ぜったいに思わない。
いつだったか、だれかが、「アメリカでは、自分の子でも、(神の子)と考えるようだ」と話してくれたことがある。
それについては、まだよくわからない。
が、しかし、日本の親子と、アメリカの親子は、絆(きずな)の質、意味、内容そのものがちがう。
それは確かなようだ。
今回、それを強く感じた。
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●5月13日(火曜日)
●読書(Reading Books)
I have purchased several books in this week and now I have been reading a book, the title of which is “The Universe in a Nutshell” written by Stephen Hawking.
この1週間、ヒマさえあれば、本ばかり読んでいた。
買ってきた本は、4冊。プラス、雑誌、2冊。
今は、(昨夜から)、「ホーキング・未来を語る」(ソフトバンク社刊)を読んでいる。
3分の1ほどを読み終えたところ。
今日は、これを読破したい。
……ということで、この数日、原稿はほとんど書いていない。
BLOGの更新もしていない。
プラス、現在、おかしな(?)ニヒリズムが、心の中を充満している。
こんなことがあった。
私は、相談があったばあい、ほぼ100%、返事を書いている。
しかし中には、そんな私を、どこかの公的機関の職員のように考えている人もいるようだ。
返事が遅れたり、あるいは、少し説教がましいことを書いたりすると、抗議のメールが届く。
返事を書いても、礼のメールが届くのは、3回のうち、1回程度。
また私のほうとしては、「転載、引用は不許可」という相談は、どうしても、後回しになる。
返事を書くとしても、1~2時間は、かかる。
そんなとき、「コンビニのアルバイトにしても、時給、1000円なのに……」と思う。
……そんなわけで、現在、「こんなことしていて、何になるのか?」と考えている。
自分のしていることが、バカ臭く思えてくる。
ときどき、こういう精神状態になる。
いや、これはニヒリズムというより、グチなのか?
で、こういうときは、本を買いこんできて、読書にふける。
ただし読書といっても、育児書だけは、ぜったいに買わない。
その著者の影響を受けるのもいやだが、半年ほど前には、明らかに私の原稿をパクって書いたような本を見つけた。
あのときは、数日間、怒りで体がほてった。
そういう自分になるのがいやだ。
だから他人の書いた育児書は、買わない。
読まない。
参考にしない。
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