*May 2nd, 2008
●愛国心(Exaggerated Nationalism)
●今朝・あれこれ(5月2日)
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朝、起きる。
パソコンの電源を入れる。
Eメールをのぞいたあと、
いくつかのニュース・サイトをのぞく。
5月1日から、またまたガソリンの
暫定税率が復活した。
「暫定」というのは、「一時的」という意味。
これから先、政府(=官僚)が、「暫定」という
言葉を使っても、私はもう信用しないぞ。
そのこともあって、福田内閣の支持率は、
急落。
日経世論調査によれば、「21%」にまで、
さがったという(5月2日)。
問題は、利権にからんで、官僚の手先と
なって動く、族議員たち。
ああいう連中が、金(マネー)の力に
もの言わせて、日本の進むべき道を
狂わせてしまう。
この無力感。
この脱力感。
また、中国では、反フランス運動が、
燃えさかっているという。
ああいうのを日本から見ていると、
愛国心とは何か、改めて考えさせられる。
アインシュタインは、「誇張された民族主義
(exaggerated nationalism)こそ、危険」と
書いている(TK先生への私信)。
狂ったように騒ぐだけで、そこにある事実を
見ようともしない。
チベットは中国の領土だと叫び、ついで、
その中国を批判するフランスに抗議を
繰りかえす。
みなでワーワーと叫んで、自分たちの
都合のよいように、事実をゆがめてしまう。
これをファシズムと呼ばずして、何という?
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●糖尿病
現在、糖尿病患者、もしくはその予備軍の人が、1000万人
近くもいるという。
私の年代、つまり60歳以上になると、約30%の人が、
糖尿病患者、もしくはその予備軍だそうだ(5月1日、昼のニュース番組より)。
(ここにあげた数字は、聞き覚えなので、正確ではない。)
たいへん静かな病気で、それ故に、軽くみられがちだが、
糖尿病は、けっして、軽い病気ではない。
徐々に、体がむしばまれていく。
足の先が壊死したり、失明したりすることもあるそうだ。
私は、そのニュースを見たとき、ゾーッとした。
壊死した人の足の写真が、脳裏にペタリと張りついてしまった。
で、そのあと、そのままサイクリングに出かけた。
気分を変えるには、サイクリングがいちばんよい。
おかげで今は、気分爽快。
少し眠気が残っているが、それもどこか、心地よい。
……ということで、今日は、何かと忙しかった。
明日、二男夫婦が、アメリカから帰ってくる。
その準備に追われた。
ほっと一息ついたのが、昼ごろ。
それから仕事の準備。
プリントを印刷して、教材の整理。
で、今は、こうして教室のパソコンの前で、この原稿を書いている。
あと10~20分もすれば、子どもたちの声が聞こえるはず。
今日も、がんばろう!
●66歳の死
近所の、N氏(男性)という方が、数日前に亡くなった。
66歳だった。
「つい先日まで元気だったのに……」と、ワイフは言った。
「66歳じゃあ、若すぎるよ」と私。
そう、若すぎる。
若い人たちは、「50歳」と聞くと、
ジジイと思うかもしれない。
「60歳」と聞いたら、なおさらだ。
しかし自分が、その60歳になってみると、
ジジイという感覚は、ない。
まったく、ない。
バリバリの現役というわけでもないが、
現役は、現役。
以前、Nペイントという会社で、会計監査役をしていた
T氏という人が、こう言った。
「私がいちばん仕事ができたのは、60代の
ときでした」「林さん、あなたは、まだ若い」「これからですよ」と。
そのときT氏は、75歳くらい、私は、55歳くらいだった。
だから「若すぎる」と、私は思う。
が、N氏との思い出は、あまりない。
しかしワイフは、N氏のことをよく覚えている。
ワイフは、町内の仕事を、いっしょにしたことがある。
だから余計にショックだったのだろう。
通夜にいったときも、今日、出棺で見送ったあとも、
ずっとN氏の話ばかりをしていた。
つぎは私かも……と考えて、この話はおしまい。
死んだ人の話は、いつも気が滅入る。
●「K」という宗教団体
街の中心部に、8階建てのビルがある。
その7階に、「K」という宗教団体の、浜松支部が、入居している。
知らなかった。
で、先日、その「K」という宗教団体の部屋へ、迷い込んでしまった。
同じフロアで、事務所を構えている友人に会うつもりだった。
一見して、「K」とわかった。
(あの人)の肖像画が、中央に、大きく飾られていた。
が、入ってみて、驚いた。
実に、みな、なごやかで、楽しそうだった。
7~8人の男女が、輪をつくって、何やら袋づめの作業をしていた。
その向こうでは、別の数人が、印刷物の整理をしていた。
「あのうXという事務所をさがしているのですが……」と声をかけると、
即座に数人がたちあがり、「こっちです」「こっちです」と。
言い忘れたが、その部屋の表札には、どこにも「K」という名前はなかった。
「~~ビジネス・グル~プ」(仮称)とかいうような表札がかかっていた。
それでまちがえた。
で、私が、「ここは、あのK、ですか……?」と声をかけると、
何ら躊躇(ちゅうちょ)する様子もなく、みなが「そうです」と言って、笑った。
明るい声だった。
プラス、私のような珍客(?)が、よほどうれしかったのだろう。
部屋を出ようとしたところで、ひとりが、こう言った。
「よかったら、お茶でもどうですか? これも縁ですから」と。
私は断ったが、しかし、彼らがもつ温もりというか、なごやかさに、
たまらないほどの(なつかしさ)を感じた。
(温もり)というか、(やさしさ)を感じた。
一時は、その「K」も強引な勧誘方法が問題になったことがある。
しかし私が見たところでは、そういう様子は、まったくなかった。
で、こうした宗教団体の魅力はといえば、その(親近感)にある。
入信したとたん、信者どうしが、家族以上の家族になる。
孤独感が、そのままどこかへ消えてしまう。
それがこうした宗教団体のもつ、魅力ということになる。
が、だからといって、「K」が、すばらしい団体と言っているのではない。
私が言いたいのは、どんな宗教団体にせよ、それを求める
信者がいるから、そこに存在するということ。
宗教団体があるから、信者がいるのではない。
信者が求めるから、そこに宗教団体が存在する。
だから宗教団体を、たとえばその反社会的行為を理由に、
叩いても意味はない。
よい例が、あの「O真理教」である。
仮に解散させたところで、信者たちは、また別の教団を求めて、
さまよい歩くだけ。
もっと言えば、ハシゴをはずすことくらいなら、だれにだってできる。
ハシゴをはずしたら、それに代わるものを用意してやらなければならない。
それをしないで、ハシゴだけをはずせば、困るのは信者、ということになる。
たまたま今日、再びそのビルに足を踏み入れた。
1階にあるレストランに行ったついでに、友人の事務所を訪ねてみた。
で、「K」という宗教団体のことを思い出した。
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