*Each Family has his own problems
●問題のない家族(Each Home has got each own problems)
例外なく、問題の家族は、いない。金持ちも、貧乏人もない。地位や肩書きの、あるなしも、関係ない。どんな家族も、それこそすべて、何らかの問題をかかえている。それも、それぞれの家族にとっては、深刻な問題ばかり。
一見、他人の家族には問題がないように見える。しかしそれは、そう見えるだけ。だれも、自分の家族の問題を話さない。話す必要もない。意図的に隠すことも多い。だから、外からはわからない。見えない。
ほとんどの人は、自分の家族の中で問題が起きたりすると、「どうして私だけが……」と思う。自分の運命や境遇を、のろったり、うらんだりする。
ある母親の子どもは、20歳を過ぎてから、うつ病を発症し、そのまま家の中に引きこもってしまった。
その子どものことで、病院へ行き、その待合室で待っていたとき、その母親は、こう思ったという。「どうして、うちの子だけが……」と。
そう思うのは、ごく自然なこと。そこでそういうときは、まず、二つのことを頭に置く。
一つは、問題があるという前提で、生きるということ。生きることには、問題はつきもの。もし今、あなたが「うちには問題がない」とい思っているなら、それこそつかの間の休息。ゆっくりと、それを楽しめばよい。
もう一つは、仮にその問題で悩んでいるとしても、それが最悪ではないということ。さらにその下には、二番底、三番底がある。そしてあなたが上から落ちてくるのを、「おいで、おいで」と言いながら、待っている。
そういう意味で、人生というのは、薄い氷の上を、恐る恐る、歩くのに似ている。ちょっと油断すると、すぐ氷は割れて、私たちはその下へと落ちていく……。
子どもの問題とて、例外ではない。子どものできがよければよいで、悪ければ悪いで、親はそのつど、悩んだり、苦しんだりする。これは子育てのまつわる宿命のようなもの。子育てをする以上、親は、その宿命から逃れることはできない。
では、どうするか?
【人生は、下から見る。子どもは、下から見る】
「下を見ろ」というのではない。下から、見る。もっと言えば、「生きている」という原点に視点を置いてみる。「ああ、生きているではないか」と。
その視点から見ると、ほとんどの問題は、そのまま解決する。
【すべてを、あきらめ、あとは許して、忘れる】
「そんなはずはない」「まだ何とかなる」と思っている間は、安穏たる日々はやってこない。子どもも、伸びない。しかし反対に、「まあ、うちの子は、こんなもの」と思ったとたん、気が楽になる。子どもの表情も、明るくなる。
そしてここが子どもの不思議なところだが、親が、そうあきらめたとたん、子どもというのは、伸び始める。
【他人の子どもに、やさしく】
自分の子どものことで悩むというのには、実は二面性がある。一つは、自分の子どもに問題があることを悩む。それはそのとおり。
が、もう一つの面がある。それは「問題のある子どもを認めない」という自分自身の中に潜む、邪悪な一面である。
わかりやすい例で考えてみよう。
ことさら子どもの学歴にこだわる親がいる。だから子どもの成績(でき、ふでき)に、異常なまでに神経質になる。
では、なぜそうなるかといえば、そういう親にかぎって、日ごろから、他人を学歴で判断していると思ってよい。あるいは学歴のない人を、下に見ていると思ってよい。
人というのは、自分がもつコンプレックス(劣等感)を、裏がえす形で、それに気づかないまま、その問題に振りまわされやすい。私がここでいう、(もう一つの面)というのは、それをいう。
だから、自分の子どものことで悩むのはしかたないとしても、本当にそれと戦うためには、もう一つの面とも、戦わねばならない。「どうしてうちの子は勉強ができないのか」「こんなことでは、いい中学へ入れなくなってしまう」と悩んだら、同時に、自分の中に潜む、邪悪な面とも戦う。
が、これがむずかしい。自分の中に、そういう邪悪な一面があることに気づくだけもむずかしい。
で、どうするかといえば、日ごろから、他人や他人の子どもに、暖かくするということ。やさしくするということ。問題のある人や子どもを理解し、そういった人たちを、自分の中に受け入れていくということ。
その結果として、その邪悪な一面を、自分の中から消すことができる。そしてそれがあなたのかかえる問題を、根本から、解決する。
【補足】
ここに書いた話は、わかりにくい話なので、もう少し補足しておく。
親がかかえる問題には、(表の問題)と、(裏の問題)がある。私は、このことを、ある老人の話を聞いたときに知った。
その老人(女性、82歳)は、そのとき体も弱くなり、介護なしでは、トイレにも行けないような状態になっていた。
そこでその娘が、その老人を、自分の家に引き取ろうとした。が、その老人は、がんとしてそれを拒否した。
「私は、どんなことがあっても、この家を出ない!」と。
みなは、住み慣れた家だから、その老人はそう言うのだと思っていた。私も、そう思っていた。が、その娘にあたる女性は、私にこう話してくれた。
「母が、今の家を出たがらない本当の理由が、別にあるのです。実は、母は、若いときから、その町から出て行く人を、心底、軽蔑し、いつもあざ笑っていました。それで自分が、今度は反対に、そうなるのを、いやがっているのです」「本当のところは、だれも、笑ってはいないのです。つまり母は、自分がつくった妄想に、とりつかれているだけです」と。
こうした例は、子育ての場でも、よく経験する。それが先に書いた、学歴の話である。
ある母親は、いつも他人を、その出身高校で判断していた。(このH市では、学歴で人を判断する傾向が強い。)「あの人は、C高校なんですってね」「あの人は、A高校を出たのに、あの程度の人なんですね」と。
自分自身は、市内でもナンバー2と言われているB高校を卒業していた。
で、自分の娘がいよいよ高校受験となったときのこと。が、娘には、その力がなかった。だから毎晩のように、「勉強しなさい!」「ウルサイ!」の大乱闘を繰りかえしていた。
子どものことで何か問題を感じたら、その問題もさることながら、私がここでいう(もう一つの面)についても、考えてみるとよい。「なぜ、その問題で悩むのか」と。
先にも書いたように、(もう一つの面)というのは、なかなか姿を現さない。しかし一度、その正体を知れば、あとは時間が解決してくれる。
そういう冷めた見方も、ときには、必要ということである。
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