Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, June 19, 2008

*Mind that is seperated

【分離する人格】

●トラウマが引き金となる、人格の分離

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激怒した瞬間、別人格になってしまう
子どもがいる。

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激怒した瞬間、別人格になってしまう子どもがいる。
あたかも人格が分離、もしくは遊離してしまうといった感じになる。

(平静時における子ども)と、(激怒したときの子ども)に、連続性がない。
たとえば激怒した瞬間、人格そのものが、変化してしまう。
見た感じは、まるで別人。
それまでの子どもとは、まったく別の価値観、人生観をもつ。
性格そのものまで、変化する。

多重人格障害と異なる点は、(記憶の連続性)はあるということ。
(平静時における子ども)は、(激怒したときの自分)を、よく覚えている。
(あまりそのことには触れたがらないが……。)
一方、(激怒したときの子ども)は、(平静時における自分)を、よく覚えている。

だからこんな会話をする。

私、激怒した状態の子どもに向かって、「君は、先ほど、
明日はみなといっしょに、図書館へ行くと言ったではないか」
子「行きたくない!」
私「本当に、行きたくないのか」
子「行きたくない」
私「昨日は、行きたいと言ったではないか」
子「本当は、行きたくない」と。

しかし再び平静時になると、「本当は、行きたい」などと言ったりする。

●Y君(小2男児)のケース

Y君は、ふだんは、おだやかで、多少の多弁性はあるものの、
冗談もよく通じ、明るく、さわやかな感じの子どもである。
さみしがり屋で、頭もよい。

この状態のY君を、Y君(A)とする。

そのY君は、ふとしたきっかけで、別人のように変身する。
気分をそこねるというか、自分の思い通りにならなかったその瞬間、
突発的に顔をゆがめ始める。
何を言っても、道理そのものが通じなくなる。

ささいなことで怒り、怒鳴り散らす。
恐ろしいほどの(心の冷たさ)を感ずることもある。
子どもどうしの喧嘩に発展することもあるが、相手に対して、手加減をしない。
スパッスパッと、まるでカミソリで切り込むような動きになる。
感情、動作ともに、抑制命令がきかなくなる。
年長の、体格のより大きな子どもに向かっても、攻撃をしかけていく。

この状態のY君を、Y君(B)とする。

(1)破滅的な言動

一度、Y君(B)になると、ものの考え方が、破滅的になる。
みなで決めたことや、先生と取り決めたことを、すべて破壊しようとする。
言動がはげしいため、それまでの人間関係が、破壊されてしまうこともある。
(実際には、相手の子どもが、Y君(B)を遠ざけるようになる。)

が、しばらくすると、(それもほんのささいなきっかけが原因となって)、
再び、もとのY君(A)にもどる。

そうしたY君を観察してみると、Y君の中に、あたかも2人のY君が
いるように感ずる。
ふつうの(激怒)とちがう点は、恐らく本人自身も、「怒っている」という
意識はなく、「どちらが本当の自分かわからない」といった状態になるということ。
ふつうの(怒り)には、段階的な連続性がある。
また感情的になっても、もとの自分をもち崩すということはない。

が、このタイプの子どもの(激怒)には、その段階的な連続性がない。
錯乱状態になることもある。
あるいは激怒することはないにしても、異常なまでにすねたり、ぐずったり、
いじけたりすることもある。

●原因

このタイプの子どもには、共通した経験(環境)がある。
様態はさまざまだが、家庭生活の中で、極度の恐怖体験を、一度、あるいは
習慣的にしている。

この恐怖が、脳の中に、別の記憶をつくるようになる。
これを心理学では「隔離」と呼んでいる。
その隔離が進むと、人格の分離が始まる。
防衛機制のひとつである。

数年前だが、M君(当時、小1男児)という子どもがいた。

彼の母親は、いつも口癖のようにこう言っていた。
「『内弁慶、外幽霊』いう言葉がありますが、うちのM男は、逆です。
うちのM男は、『内幽霊、外弁慶』です」と。

つまり家の中では、別人のように、静かでおとなしく、やさしい、と。
理由をたずねると、父親が、「めちゃめちゃ怖い人」(母親の弁)ということで、
M君が何か口答えしただけで、パシッと、顔や頭をたたかれたという。

もう1人、印象に残っている子どもに、Nさん(当時、小5女児)という子どももいた。

Nさんも似たような症状を示していたが、原因は、母親との相談で、わかった。

Nさんの父親は、アルコール依存症で、酒が入ると、別人のようになって
家の中で暴れるという。
そのたびにNさんは、家の中で父親を避けて、逃げ回っていた。

原因は、極度の恐怖体験と考えてよい。
その恐怖体験が、「トラウマ(心的外傷)」となって、その子どもの中に、別人格をつくる。
人格の遊離を誘発する。

そしてそのトラウマが、何らかのきっかけで、その子どもを別人にしたてる。

●特徴

思いつくまま、いくつかの特徴をあげてみる。

(1) 人格の連続性がない。……たがいに、たがいの人格を否定する。そのため、本人自身は、「どちらが本当の自分なのか、わからない」といったようなことを口にする。

(2) 人格の基盤そのものが、変化する。……たとえば平静時には、「ママ……」と甘ったるい言い方をしていたのが、別人格になったとたん、「ママなんか、嫌い」と言ったりする。ただ口先でそう言うだけではなく、心底、憎しみをこめた言い方で、そう言う。

(3) 記憶の連続性はある。……どちらの状態であるにせよ、別人格になったときのことを、よく記憶している。ただそのことに触れるのをいやがり、そのことを追及したりすると、とたんに、別人格になることがある。

(4) 別人格になる前後、頭痛、吐き気、気分の悪さを訴えることがある。……R君(当時、小学生男児)の母親は、こう言っていた。「風邪ぽくなったとき、とくに気分を損ねやすくなりました」と。体調の変化が、引き金になることもあるらしい。

(5) 別人格になる期間(時間)は、それほど長くなく、たいてい1~2日、あるいは半日前後で、またもとの人格に戻る。……もとの人格にもどるのも、ふとしたきっかけでそうなることが多い。

(6) 別人格になったとき、もう1人の自分を自覚している。……こんな例がある。S君(当時、小5男児)という子どもがいた。で、あるとき、いつもは仲がよかったJ君がもってきたコミック雑誌を破って、ゴミ箱に捨ててしまった。理由はともかくも、あとになって私にこう言った。「そのとき、そんなことをしてはだめだと、自分にもわかっていた……」と。別人格になったとき、子どもの内部に、2人の子どもがいたことがわかる。その2人の自分が、たがいに内部で葛藤する。

(7) 一線を越えない。別人格になっても、いつも一線を心得ている。……たいていは暴力的な言動をともなうが、その暴力にしても、「それ以上のことをしたら、取り返しがつかなくなる」と思われる、その一歩手前で、やめる。この点、家庭内暴力を起こす子どもと似ている。家庭内暴力を起こす子どもも、家庭の中で暴れながらも、一線を越えることはない。

(8) ふだんはやさしく、気が小さい。……先にも書いたが、ふだんの(平静時における子ども)は、やさしく、気が小さい。他人を思いやる気持ちも、強い。が、別人格になったとたん、表情がこわばり、目つきが鋭くなる。言動も大胆になり、妄想的な被害者意識も強くなる。「こんなオレにしたのは、お前だ」式の攻撃を、親に向かってしかけるときもある。そのため、親のみならず、家族、近隣の人たちも、「わけのわからない子ども(人)」と評価されることが多い。

●対処のし方

一度、傷ついた心は、生涯にわたって修復不可能と考える。
その子ども(人)自身が、何らかの形で自分を知り、自分の傷に気がつくしかない。
が、そういう立場(教育者、心理学者、精神医学者)にないと、それもむずかしい。
たいていは、そういう自分であることにさえ気がつかず、同じ失敗を繰りかえす。
結婚したあと、夫婦の関係で、再現されることが多い。

自分で、そうであると気がついたからといって、即、問題が解決するというわけではない。
ないが、自分で自分をコントロールすることはできるようになる。

で、相手が子どもであれば、叱れば叱るほど、逆効果。
叱っても意味はないし、叱ってなおるような問題ではない。
そのことを親自身が自覚し、根気よく、かつ忍耐強く対処するしかない。
そのときどんなばあいも、愛情の絆(きずな)を切ることがないよう、注意する。
脅し(「もうあなたなんか、家から追い出す」と言う)、脅迫的行為(ゲームを
壊すなど)、あるいは暴力は、タブーと心得ること。

対処のし方をまちがえると、人格の分離はますます進み、その傷は、さらに深くなり、
障害となって、生涯にわたって、その子ども(人)の心を、
裏から操るようになることもある。

(後記)

親というのは身勝手なもので(失礼!)、子どもに問題を作っておきながら、
その問題が表に出てくると、「子どもをなおそう」とする。
しかしなおすべきは、親自身の育児姿勢であり、家庭環境である。
子どもはあくまでも、その(代表)にすぎない。

そうした視点から、まず、自分自身を、そして家庭教育のあり方を猛省する。

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今までに書いた原稿をいくつか
紹介します。

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【フォールス・メモリー】

●悲しきウソ

 父親に虐待さてた子ども(小四男児)がいた。その子どもをは、いつも体中、アザだらけだった。で、その子どもを担当した、小学校の校長が、私にこう話してくれた。

「子どもというのは悲しいですね。そういうアザでも、決して父親にそうされたと言わないのですね。自分でころんでそうなったとか、自分が悪いから、そうなったとか言うのですね」と。

 心理学的には、これはウソではない。子ども自身が、本気でそう思い込んでいる。つまり子どもは、自分にとって不愉快な記憶を消すために、「偽の記憶」(フォールスメモリー)を別につくり、その中に自分を追いこむ。これを心理学では、防衛機制という。

 子どもの立場で考えてみると、それがわかる。

 子どもにとっていくら虐待する父親であっても、その父親しかいない。父親に嫌われたら、自分の居場所すらない。そこで子どもとしては、自分の父親を悪く言うことはできない。だから自分の記憶の中に、別の記憶をつくり、その中に自分を追いこむ。この追いこむことを、心理学では「隔離」という。

 しかし問題は、ここで終わるわけではない。隔離がひどくなると、そこで人格の分離が始まる。心理学でも、やはり「人格の分離」という。もっとわかりやすく言えば、二重人格性、さらには多重人格性をもつようになる。同じ一人の人間の中に、もう一人別の人格をもった自分をつくる。

 ふつうこういう別の人格は、本来の人格とは、別の人格をもつことが多い。性格そのものが違う。ある男性(五〇歳)はこう言った。「別人格になったとき、どちらの自分が、本当の自分かわからなくなります」と。その男性のばあい、何かのことでカッと頭に血がのぼると、別人格になるという。「ふだんの私はさみしがり屋ですが、怒ったとたん、自信家に変身します」と。

 冒頭にあげた小学生も、このままでは人格の分離が始まる可能性が、きわめて高い。そして生涯にわたって、その後遺症に苦しむ可能性が、きわめて高い。つまり「ウソ」と片づけてよいほど、決して簡単な問題ではない。子どもの虐待の問題には、こうした問題も隠されている。
(030525)※(2003年作品)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人格の隔離 偽の記憶 防衛機制 フォールスメモリー フォールス・メモリー)

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もう2作、同時期に書いた原稿を
添付します。

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●基本的信頼関係

 親子といえども、その信頼関係は、たがいの(さらけ出し)と、(全幅の受け入れ)が基本にあって、はじめてその上で結ばれます。つまり(さらけ出し)と、(全幅の受け入れ)は、信頼関係の、必要絶対条件というわけです。そのうちのどちらかでも欠けると、信頼関係が結ばれないばかりか、反対に不信関係となって、そのあと、ずっと(恐らく一生)、尾を引くことになります。

 しかし親側に、たとえばここでいう権威主義(親風を吹かす)があると、子どもの側が、心を開けなくなります。そしてほとんどのケースでは、子どもが親に迎合する形で、親の前では仮面をかぶるようになります。つまりいい子ぶるわけです。

 OTさんのケースでも、OTさんは、「これらの習い事は、親が『やる?』と聞くので、気を引きたい私は、『うん。』と答えます。この一言で決定です。あとは、どんなことがあっても引きずられて、連れて行かれました」と書いておられます。これが、ここでいう仮面です。あなたは仮面をかぶることで、親の期待にこたえようとしたわけです。もっと言えば、いい子ぶることにより、親の関心をひき、自分にとって居心地のよい世界を作ろうとしたわけです。

 仮面のこわいところは、信頼関係をそこなうばかりか、それが原因となって、心が遊離したり、分離したりするようになることです。さらに二重人格性をもったり、何かのショックが原因で、二重人格や、多重人格へと進むこともあります。私がよく、『親の権威は、百害あって一利なし』という理由は、ここにあります。

 さらに大きな悲劇は、実は、親側にあります。子どもが仮面をかぶっていることにも気づかず、「自分はできた親だ」「すばらしい親だ」と思う一方、仮面をかぶる子どもを見ながら、「よくできた子だ」「子どものことは私が一番、よく知っている」と錯覚します。親子関係が、完全に破壊されているにも、かかわらずです。

 まだ、あります。こうした権威主義的な親をもったばあい、子どもの選択は、つぎの二つに大きく分けることができます。

 一つは、こうした親に反発するケース。もう一つは、その権威主義を受け入れ、自分も、その権威を振りかざすようになるケース。ある教育評論家は、自分の父親を振りかえりながら、こう書いています。「私の父には、ゼウスのような威厳があった。私が父のひざの上で、風邪をひいて嘔吐したとき、『無礼者!』と私を叱った。今の父親に求められるのは、そういう親としての威厳である」(雑誌「F」)と。

 どちらにせよ、これからはもう、そういう権威や、権力で相手をしばって動かす時代ではありませんね。また、そうであってはいけないということです。それはともかくも、OTさん、あなたのばあいは、この二つのハザマで、ゆれ動いているのがわかります。(親の権威に反発するあなた)と、(親の権威に恋慕するあなた)です。

 その根底にあるのが、依存性の問題です。

●依存性の問題

 もともと権威主義の親というのは、権威をふりかざすことによって、子どもに依存しようとします。人間関係をうまく結べない人は、その孤独と戦うため、(1)攻撃型になる、(2)依存型になる、(3)同情型になる、(4)服従的になるなどが、よく知られています。これを防衛機制といいますが、権威主義というのは、このうちの依存型に分類できます。

 つまりさみしいから、親の権威で子どもをしばり、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとするわけです。それがときどき、ここでいう攻撃型になることもあります。日ごろはやさしい親が、(これは子どもに対する仮面)、何かのことでその権威にキズがつけられると、突然、「親に向かって、何だ、その態度は!」と叫ぶのが、それです。

 親が子どもに依存的になることについて、「おやっ!」と思われるかもしれませんが、このタイプの親ほど、子どもに向かって、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せます。あなたの父親がそうですね。「オレが小遣い減らしてまでやらせてやってるのに、何だ!」というのが、その言葉です。

 が、問題は、実は、親というより、あなた自身にあります。親が依存性のあるケースでは、(それが権威主義であれ、何であれ)、子どもにも、それが伝播(でんぱ)しやすいということです。子育てというのは、そういう意味で、世代連鎖をします。親から、子へと、です。つまりあなた自身が、今度は、親に対して依存性をもつのみならず、自分の子どもに対しても、(それは薄められた形かもしれませんが)、権威主義的であったり、依存的であったりするようになります。

 あなたがメールの中で、最後のところで、「両親の所に行かないときは本当に楽しく過ごせます。でも、何故か、足が向いてしまうんです」と書いているのは、そのためです。あなたの心が、(反発)と(依存)の間で、揺れ動いているのが、あなたにはわかるでしょうか?

 では、どうするか?

 もうお気づきかと思いますが、これはあなたの親の問題ではありません。あなた自身の問題です。つまりあなたは自分の中に潜む、権威主義と無意識のうちに戦っている。そしてそういう自分の権威主義を、あなたの父親に投影させている。その結果として、あなたは今、自分で、自ら混乱している。

 ここで「投影」という言葉を使いましたが、たとえばケチな人が、他人のケチが気になり、「あの人はケチだ」と批判するようなことを言います。つまり自分の姿を、他人に投影しながら、自分の姿を見るようなことを言います。よく知られたケースとしては、『泥棒の家ほど、戸締まりが厳重』とか、『女遊びばかりしている父親ほど、娘にきびしい』というのがあります。これらも、結局は、投影のなせるわざということになります。

 幸いにも、あなたは自分の二人の子ども(娘さんたち)について、よき友でいようと心がけています。それはすばらしいことです。方法としては、この部分をふくらませ、そしてあなたが両親から受けついだ負の親像を、子どもには伝えないことです。権威主義など、「クソ食らえ!」(尾崎豊)です。

 もう一つは、あなた自身の中に潜む、「依存性」を断ち切ることです。そのためには、遠慮しなくてもよいですから、あなたの親を、とことんうらみ、嫌い、そして批判しなさい。遠慮せずに、します。そしてその結果として、あなたは、親に対する依存性を断ち切ることができます。あなたが「親を批判するなんて……」と思っている間は、あなたはそれを断ち切ることができません。

 しかし断ち切ってみると、あなたは親よりも、一歩も、二歩も、先へ抜き出ることができます。そういう視点に立つと、今の状況が一変するはずです。それまで憎んでいた親が、あわれで小さな人間に見えてきます。そうなれば、今の問題は、自然に解消します。約束します。

 そう、憎しみを、あわれみに変えたとき、あなたは、その人間を超えられるのです。そしてそこを原点として、新しい人間関係が始めることができます。つまりは、新しい親子関係になるのです。そしてあなた自身も、あなたの子どもに対して、すばらしい親になることができます。そういうあなたをめざしてください。

 ただ一つだけ気になるのは、最後の、この部分です。「こんな話し、誰にも相談できませんよね。主人にもです」というところです。

 今のあなた自身が、ひょっとしたら、あなたの夫に対して、全幅に心を開いていない心配があります。もしそうなら、これはたいへんまずいことです。夫にすら心を開けないあなたが、どうして子どもに心を開けますか。もしそうなら、あなたの夫のみならず、あなたの子どもは、あなたに対して、たいへんさみしい思いをしているはずです。私はそれを心配します。

 ですから、「主人にもです」などと言っていないで、思い切って、あなたの夫にすべてを話しなさい。それがまず第一歩です。信頼関係は、やってくるものではなく、長い苦しみと、失敗を繰りかえしながら、おたがいに作りあげるものです。一つの方法として、この私の手紙を、あなたの夫に見せてみてはどうでしょうか。

 長い返事になってしまいましたが、あなたがかかえている問題は、子育ての根幹にかかわる問題であると同時に、今の日本の社会が構造的にかかえる問題でもあります。それをわかってほしかったです。

 では、これで失礼します。講演会においでくださったことに感謝します。ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
(030724)