*A part of him or her is all of him or her
●梅雨
++++++++++++++++
このところずっと、はっきりしない天気が
つづいている。
おかげで、運動不足。
体が、なまってしかたない。
「なまる」というのは、学生時代に覚えた
言葉。
「すっきりしない」という意味が含まれる。
「体がシャキシャキと動かない」という
意味も含まれる。
ついでに、頭の活動も鈍くなる。
(6月23日記、08)
++++++++++++++++
【一事が万事論】
+++++++++++++++++
人間の脳みそは、それほど器用には
できていない。
ある一面で、だらしない人は、
別の面でもだらしない。
子育てについても、また、同じ。
こんな調査結果が、公表された。
(毎日新聞、08年6月20日)
+++++++++++++++++
●ゴミ屋敷が、育児放棄に関連している!
+++++++++++以下、毎日新聞の記事より抜粋++++++++++++++
福岡県内の18歳未満の子供がいる家庭で、家の敷地内や室内にゴミをため込み生活に支障をきたす「ゴミ屋敷」が、30世帯に上ることが西南学院大の安部計彦(かずひこ)准教授(児童福祉)らの調査で分かった。
このうち6世帯で子供が学校に行っておらず、9世帯で予防接種などを受けさせていなかった。安部准教授はゴミ屋敷がネグレクト(育児放棄)に密接に関連していると指摘している。【高橋咲子】
安部准教授のゼミが07年7~8月、県内の全78市区町村の児童福祉担当者を対象に無記名で実施したところ、35市区町村から実態を踏まえた回答があった。30世帯(15カ所)のうち、親が昼間不在▽ゴミを片付ける意思がない▽家庭への介入を拒否する--の3項目に該当する24世帯について分析した。
ゴミ屋敷では、就労率が7割(17世帯)にもかかわらず、公共料金を滞納している家庭が8割(19世帯)に上った。子供との関係では、25%(6世帯)が学校に行っておらず、3~6年間も登校していない子供が2人いた。
また、予防接種など保健上のケアを受けさせてない9世帯のうち、公共料金滞納が8世帯に上るなど、さまざまな形で世間とのかかわりを避ける傾向が浮かび上がった。
親が社会ルールを無視することが、子供の成育にも影響を与えている。ゴミ屋敷があると回答した15カ所中、衣服や体が不潔だったり、基本的な生活習慣の遅れがある事例がそれぞれ9カ所であり、低体重・低身長の事例も2カ所であった。
(中略)
福岡県久留米市では07年度の虐待相談が120件あり、うちネグレクトに関する相談が半数近くの50件。同市家庭子ども相談課の浦部伸子技術主査は「身体的・性的虐待などと異なり、ネグレクトの親は程度の差こそあれ、『ゴミ屋敷』状態に陥っていることが多い」と指摘する。
こうした家庭の多くは、予防接種や、4カ月から3歳まで4回ある定期健診も子供に受けさせていないという。理由を尋ねると、母親の多くは「バスを使ってまで、なかなか行けない」「他の兄弟を連れてはいけない」と釈明するという。
浦部さんは「子供が食事を十分にとっていなかったり、言葉の遅れがある場合が多い。民生委員や児童委員、学校とともに、『ゴミ屋敷=ネグレクト』という共通認識をもって対応にあたるようにしている」と話している。
+++++++++++++++以上、毎日新聞より抜粋++++++++++++++
西南学院大の安部計彦(かずひこ)准教授(児童福祉)らの調査によれば、「(30世帯のうち)、6世帯で子供が学校に行っておらず、9世帯で予防接種などを受けさせていなかった」という。
それぞれの家庭にはそれぞれの事情というものがあり、「だからゴミ屋敷は悪」と決めてかかってはいけない。
それはそれとして、この記事を読んで、私は私の書いた原稿の、『一事は万事論』を、思い出した。
+++++++++++++++
【一事は万事】
●子どもの指導
子どもを指導するときは、当然のことながら、子どもの心理を知らなければならない。そこで家庭でも応用できる心理操作法をいくつか、思いつくまま、あげてみる。
●服従心理
子どもには、元来、服従心理がある。「だれかに従って、その命令どおり動いてみたい」という心理である。
が、これには、コツがある。
相手を服従させるためには、「納得」が必要である。
たとえば学校の先生が、子どもに一冊の本を渡して、「これを読んでごらん」と言ったとする。そのとき、その子どもは、その場の雰囲気を感じながら、「はい」と言って、それに従う。
しかし見知らぬ大学生が、子どもに一冊の本を渡して、「これを読んでごらん」と言っても、その子どもは、それには従わない。
そこで子どもに何かをさせるときは、それなりのお膳立てをしなければならない。そのお膳立てが、そのときの雰囲気ということになる。
子どもを納得させるものとして、ここでいう(1)雰囲のほか、(2)権威づけ(先生の命令なら聞くが、そうでない人の命令には、従わない)、(3)理由づけ(合理的な理由や、自分にとって必要なことなら従う)、(4)同調性(その人の意見に、同調するときは従う)などがある。子どもの側からみて、納得できる状態ということになる。
こうしたお膳立てをうまくしながら、子どもを指導する。
しかし、すでに親の言うことを聞かないというのであれば、親自身がもつ権威は、すでに失墜しているとみる。(権威で子どもをしばるのは、もちろんよくないが……。)
まずい例としては、(1)親が寝そべってテレビを見ながら、「夕刊を取ってきて!」と言う。(2)夫婦げんかばかりしている親が、子どもに向かって、「友だちと仲よくしなさい」と言う。(3)交通ルールなど、自分では社会的ルールを平気で破っておきながら、子どもに向かっては、「約束を守りなさい」などと言うなど。
親の身勝手は、親の権威を破壊する。
ただしこうした服従心理は、年齢によって、かなり異なるし、個人差もある。ふつう自我の発達とともに、自己意識が育ってくる。そうなると、子どもは、自分自身の中の服従心理と戦うようになる。服従的な態度がよいというわけではない。あくまでも、子どもを見ながら、判断する。
●動機づけ
子どもの指導は、動機づけのよしあしで、そのあとのほとんどが決まると言ってもよい。動機づけがうまくいくと、そのあとの、学習などが、うまくいく。しかし失敗すると、親も子どもも、その何倍もの苦労をすることになる。
とくに乳幼児期の動機づけは、慎重にする。この時期、一度動機づけで失敗すると、(逃げる)→(やらない)→(ますます嫌いになる)の悪循環を繰りかえすようになる。
たとえば本読み。
まず、親が何度も子どもをひざに抱き、子どもに本を読んで聞かせる。そういう(温もり)が、子どもを、本好きにする。「本は楽しい」「本はおもしろい」という思いが、子どもを前向きに引っ張っていく。
まずいのは、いきなり本を与えて、「読みなさい!」と命令するような行為。「まだ読めないの!」「ここまで読まなければ、夕食はなし!」などという、無理、強制、条件。一時的な効果はあっても、あくまでも一時的。
ついでに、読書はあらゆる学習の基礎となる。「本が嫌い」というのは、あらゆる分野に悪い影響を与える。たとえば理科、社会という科目にしても、小中学生のころは、理科的なことが書いてある国語、社会科的なことが書いてある国語と理解すると、わかりやすい。
乳幼児期は、本読みの動機づけを、とくに大切にする。
●手本
自分では本を読んだこともない親が、子どもに向かって、「本を読みなさい」は、ない。こうした身勝手は、子育てにはつきもの。
たとえば何か大きな事件が、近くで起きたとする。どこかの子ども自身が、事件を起こすこともある。そういうとき、たいていの親は、「うちの子はだいじょうぶかしら?」と心配する。事件にもいろいろあるが、この日本では、基本的にはルールさえしっかりと守っていれば、事件に巻きこまれることは、まず、ない。
そのルールだが、親が、子どもの目の前で、破るだけ破っておいて、子どもには、「守りなさい」は、ない。
こんな例がある。
ある中学生が、友だちから、CDを借りた。が、しばらく、それを返さなかった。で、それを学校の先生から連絡を受けた父親は、その中学生を、スリッパの裏で、はり倒した。
その中学生の顔には、ちょうどスリッパの形のアザができた。
それを見て、私がその父親に、「何もそこまでしなくても……!」と言うと、その父親は、こう言った。「オレは、まちがったことが大嫌いだ。人からものを借りて返さないなどということは、許さない。そういうまちがった根性は、今のうちにたたきのめしてやる!」と。
では、その父親が、そこまで自分にきびしい人だったかというと、それは疑わしい。国産車だが、最高級の車に乗っていた。しかしタバコの灰や、吸殻は、すべて窓の外に捨てていた。本業は、土建業だが、業者の中では、「スルイ男」と呼ばれていた。「小ずるい男」という意味で、そう呼ばれていた。
最近、私は、ときどき、こんなふうに思う。
よく赤信号になってから、交差点を猛スピードで走りぬけていく車がある。その中には、ときどき、母親が運転し、横に子どもを乗せているケースもある。そういうのを見ると、「いいのかなあ?」と。
親は、多分、「これくらいのことならいいだろう」と思って、そうしているのだろう。しかし一事は万事。そういう母親というのは、生活のあらゆる面で、そういう小ズルイことをしているにちがいない。で、母親は、それでいいとしても、そういう母親の姿を、日常的に見て育った子どもは、どうなるのか? 実のところそれを考えると、ぞっとする。
子どもに向かって、「宿題をしなさい」「勉強をしなさい」と言うくらいなら、まず、親がそれをしてみせる。それは子育ての基本といってもよい。子どもに向かって、「人に迷惑をかけてはいけない」「悪いことをしてはいけない」と言うくらいなら、まず、親が、ルールを守ってみる。
……と、きびしいことを書いてしまったが、よい手本を見せるのが、子育ての基本ということになる。
……ここまで書いたとき、もう一つ、こんな話を思い出した。
学生時代、B君というオーストラリアの友人と、ドライブをしていたときのこと。乗っていた車が、州境(ざかい)までやってきた。
そのとき私は、パンか何かを食べていた。それをB君が見て、「ヒロシ、パンを捨てろ」と。
当時、オーストラリアでは、州を越えるときは、すべての食べものを、そこで捨てることになっていた。病害虫の移動を、させないためだった。そのための、巨大なゴミ箱が、そこに置いてあった。
私は、「いいじゃないか、パンぐらい……」というようなことを言ったと思う。しかしB君は、一歩もゆずらなかった。「南オーストラリア州で買った食べものは、ビクトリア州へは、持ちこめないことになっている。ここで捨てろ!」と。
かなりの間、押し問答がつづいた。「捨てろ!」「いいじゃないか!」と。
私は、B君の杓子定規(しゃくしじょうぎ)なものの考え方に、あきれた。州境といっても、大平原のど真中。人が立って見ているわけではない。途中で、検査されるわけでもない。しかしB君は、「捨てろ!」と。
しかしそれから35年。今、B君は、私のもっとも信頼のおける友人になっている。と、同時に、私は、B君に対しては、とくにきちんと、どんな約束でも、それを守るようにしている。人間関係というのは、そういうもの。
親子関係といっても、つきつめれば、そこは純然たる人間関係。長い時間をかけて、親子というワクを超えた関係になる。そういうことも考えながら、今のあなたのあり方を、少しだけ反省してみるとよい。10年や20年ではない。30年、40年先には、どうなるか、と。
ついでながら、欧米では、子育ての基本は、「心を開いて、誠実に」(Open your heart and be honest.)だそうだ。何かのビデオ映画の中で、だれかがそう言っていた。子どもには、心を開いて、誠実に接する。それがあなたの子どもを、よい子にする、と。
何か大きな事件が起きるたびに、「心配だ」と思うなら、一度、あなた自身の子育てのあり方を反省してみるとよい。ふつう「心配だ」と思うということは、すでに、あなたの子育ては、危険な状態に入っているとみてよい。
+++++++++++++++++++
同じく30年ほど前。結婚していたにもかかわらず、女遊びばかりしている男がいた。私を「友だち」と呼んでいたが、そのあと、私は、何度も裏切られた。お金を貸したこともあるが、一円も返してくれなかった。
で、そういう男を信じた、私が愚かだった。妻でさえ裏切るような男である。私のような友人(?)を裏切ることなど、何でもない。朝飯前。
そんな男が、今から10年ほど前、また私に接近してきた。何かビジネスをいっしょにしよう。ついては、私にも、出資をしないかというような話だった。しかし私には、なつかしさは、まったく起きなかった。もちろんそのビジネスは、断わった。
オーストラリア人のB君とくらべると、その男は、私にとっては、正反対の位置にいた。いくら誠実そうなことを言っても、私は、まったく信用しなかった。もちろん、その男との関係は、そのときだけ。それで、おしまい。以後、私のほうからは、その男とは、連絡をとっていない。
親子関係も、同じように考えてよいのではないだろうか。
【追記】
ウソはつかない。約束は守る。たったそれだけのこと。簡単なことである。そういう日々の積み重ねが、月となり、年となり、やがてその人の人格になる。
●同調作用
人間は、太古の昔、群れをなして共同生活をしていた? この傾向が、今でも、人間の中に残っている。それが同調作用と呼ばれる現象である。
たとえばAさんが、「あの店の料理はおいしい」と言ったとする。それに合わせて、Bさんも、「そうよ」と言ったとする。するとその場にいたCさんまでもが、実際には、その店に行ったことがないにもかかわらず、「そうみたいねえ」と、相づちを打つ。
こうした同調作用は、子どもの世界にもある。
以前、ポケモンが全盛期のころ、子どもたちはみな、狂ったようにポケモンの歌を歌い、ポケモングッズを、ほしがった。私がピカチューの絵をまねて描いてみせただけで、教室全体が異様な興奮状態になってしまったこともある。
こうした同調作用は、まさに両刃の剣。うまく使えば、子どもを望ましい方向に導くことができる。そうでなければ、そうでない。
そこで大切なのは、そのバランスということになる。同調作用が強過ぎてもいけないし、しかしまったくないというのも、困る。
そこで一つのポイントは、服従性。服従的な同調性が見られたら、家庭教育のあり方を、かなり深刻に反省する。
一般論から言えば、自我の発達の遅れた子どもほど、自尊心が弱く、自己主張も弱い。親の過干渉で、内閉したり、萎縮した子どももそうである。このタイプの子どもは、いわゆる人の顔色を見て行動するようになる。さらにひどくなると、だれかの指示や命令がないと、行動しなくなる。
が、そうでなければ、同調作用は同調作用として、適当に理解する。「みんなとうまくやろうね」程度のアドバイスは、悪くない。大切なことは、譲るべきところは、譲る。しかし重要なことについては、その信念を貫くということ。
そういうメリハリのきいた子どもにすることである。
【追記】
その同調作用について、S県のSY子さん(母親)から、今朝(5・28)、こんな相談のメールをもらった。
「息子(5歳児)のことだが、私は私という子育てをしている。しかし隣人の女の子の家に行くと、目移りがするほど、おもちゃがいっぱいある。
そういうのを見て、うちの息子も、ほしいと言う。このままでは、仲間はずれにされてしまうかもしれない。どの程度まで。親は許すべきか」と。
こうした相談は、少なくない。「テレビゲームには、反対。しかしそのため、うちの子は、友だちから、のけ者にされている」「うちの子どもだけ、テレビゲームをもっていない。そのため、いつも友だちの家に、入りびたりになっている」と。
親として、どこまでほかの子どもたちに同調(迎合?)させたらよいかという問題である。
しかしここで注意しなければならないことは、(同調)と、(迎合)は、もともと異質のものであるということ。
もう少し具体的に考えてみよう。
私はもともとかなりいいかげんな人間だから、適当にその場をごまかしながら生きるのが、うまい。しかしだからとって、信念(あまりそういうものは、ないかもしれないが……)をまげてまで、相手に合わせるようなことはしない。
この(適当につきあう部分)が、同調ということになる。しかし(自分の信念までまげてつきあう部分)が、迎合ということになる。
子どもをみるばあいも、それが同調なのか、迎合なのかを見極める必要がある。
みなが祭に行くから行く……というのは、同調である。しかしみなが、酒を飲むから、飲むというのは、迎合である。「飲んではいけない」と思ったら、そこで自分にブレーキをかける。
このブレーキをかける部分が、自己規範ということになる。この自己規範を育てるのが、家庭教育ということになる。
そこでテレビゲーム。
以前、子どもにテレビゲームを与えるべきかどうかで、真剣に悩んでいた祖母がいた。さらにどんなゲームソフトを与えるべきかでも、悩んでいた。「今のままでは、うちの孫は、のけ者になってしまう」と。その祖母は、おかしいほど、真剣に心配していた。
しかしこうした問題は、適当に考えればよい。「これが家庭教育」と、構えるような問題ではない。その時期がきて、予算に余裕があれば、買ってあげればよい。ムダと思うなら、買わなければよい。
買ってあげたから、子どもの心がゆがむとかそういうことはない。買わなかったから、のけ者にされて、心がゆがむとか、そういうこともない。絶対にない。
大切なことは、その子どもが、(してはいけないことをしないかどうか)(すべきことはするかどうか)である。
えてして、多くの親たちは、表面的な、どうでもよい問題に振りまわされる。そして本来考えるべき、重要な問題を見落としてしまう。この子どももがもつ同調作用にも、似たような問題が含まれる。
【追記2】
日本人がもつ同調作用というのは、一種独特のものがある。「みんなと渡れば、こわくない」とか、「長いものには、巻かれろ」とか言う。「出るクギは、たたかれる」というのもある。
こうした同調作用は、若い母親には、とくに強い。子育てにまつわる不安や心配が、それに拍車をかける。
どうして、そうなのか?
基本的には、それだけ自分がないということになる。ないから、周囲に振りまわされる。
が、若い母親を責めても意味はない。ほとんどの親は、その準備もないまま、結婚し、親になる。あたふたとしているうちに、数年が過ぎ、子どもも、数歳になる。自分がないからといって、それは仕方のないことかもしれない。
実際、この日本では、「私は私」という生きザマを貫くのは、むずかしい。自由があるようで、ない。その自由は、まさに(しくまれた自由)(尾崎豊)でしかない。
「コースに乗っていれば安心」「コースからはずれたら、心配」と、だれしも考える。S県のSY子さんの悩みも、そのあたりから生まれている。
では、どうするか?
子育てをしながら、大切なことは、自分自身の生きザマを確立すること。「自分はどうあるべきなのか」「どう生きたらよいのか」、それを模索すること。
「テレビゲームを買ってあげるべきかどうか」と悩むことは、一見、子どもの問題に見えるかもしれないが、実は、それはその親自身の生きザマの問題でもある。
「テレビゲームは、子どもの脳に悪影響を与える」という情報を手に入れたら、買わないこと。心を鬼にして、買わないこと。しかし「のけ者にされそうだ」と感じたら、買ってやること。しかしそのときでも、テレビゲームをさせる時間と場所を、子どもとよく話しあうこと。……などなど。
こうして親は、試行錯誤を繰りかえしながら、自分の生きザマを確立していく。つまりこういう親の生きザマが、子どもの中に、「私は私」という自己意識を育てる。そしてそれが同調はしても、迎合はしないという子どもを育てる。
テレビゲームを買ってあげればよいかどうかというような、単純な問題では、決してない。
これから先、子どもは、(どんな子どもでも)、無数の問題をかかえるようになる。問題のない子どもなど、絶対にいない。問題のない子育てなど、絶対にない。
問題があることが、問題ではない。大切なことは、問題があるという前提で、子育てをすること。立ち向かうこと。そういう姿勢が、あなたを育て、同時に、あなたの子どもを育てる。
【追記3】
ここまで書いて、先ほど、ワイフとこんなことを話しあった。
近所に、定年退職をした老夫婦が住んでいる。近所づきあいは、まったくといってよいほど、ない。訪問客も、年に数人あるかないかということだそうだ(隣人談)。
その夫婦について、ワイフが、「あの人たちは、何のために生きているの?」と。
実は、ここではその老夫婦のことを論ずるのが目的ではない。私やあなたの生活にしても、その老夫婦とそれほど、ちがわないということ。基本的には、同じ。
ただ生きる目的はある。子育て真っ最中のあなたなら、子育てをすることが、その目的ということになる。私は、ワイフにこう言った。
「ぼくだって、家族がいると思うから、がんばる。もし家族がいなかったら、今ごろは、ホームレスになっているか、寝こんでいるかの、どちらかだ。
昨日も、歩くだけもでも、つらかった。体が重かった。しかし『ここで負けてはダメだ』 と歯をくいしばって、自転車に乗った。運動に出かけた。家族がいるということは、そういうことだ。
ただし、では家族がいて、子育てをすることが、生きる意義かというと、ぼくは、そうは思わない。目的と、意義は、ちがう。別のもの。
あの老夫婦には、生きる目的は、もうない。問題は、生きる意義だが、それも、ないように思う。ただ生きているだけというか、死に向って、まっしぐらに進んでいるだけ。そういう人生からは、何も生まれない。
同じように、ぼくたちも気をつけないと、あの老夫婦と同じことをしてしまう。目的と意義を混同してはいけない」と。
……といっても、生きる意義を見出すことは、簡単なことではない。「私たちは何のために生きているか?」という問題である。
もちろん子育てをすることが、生きる意義ではない。子育てをすることは、目的にはなるが、しかし意義ではない。また意義にしては、いけない。それはあなた自身のこととして考えてみれば、わかるはず。
あなたの親が、あなたに向って、こう言ったとしたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。
「私は、あなたを育てるために、自分の人生のすべてを賭(か)けました。私の生きる意義は、あなたを育てることでした」と。
多分そのとき、あなたは、きっとこう答えるにちがいない。「私のことはいいから、お父さん、お母さん、どうか、あなたの人生を生きてください」と。
親は子そだてをしながら、その一方で、自分の生きる意義を模索する。それも子育てに隠された目的の一つかもしれない。
(040528)
++++++++++++++++
では、どうするか?
常日ごろから、そこにだれかがいるとか
いないとかに関係なく、(一事)を
大切にしていく。
それがその人の(万事)になる。
少し脱線しますが、同じく、以前
書いた原稿を添付します。
+++++++++++++++++
●日々の積み重ねが人格
人も50歳を過ぎると、それまでごまかしてきた持病がどっと表に出てくる。60歳を過ぎると、その人の人格がどっと表に出てくる。
若いころは気力で、自分の人格をごまかすことができる。しかし歳をとると、その気力そのものが弱くなる。
私の知人にこんな女性(80歳)がいる。その女性は近所では「仏様」と呼ばれていた。温厚な顔立ちと、ていねいな人当たりで、そう呼ばれていた。が、このところ、どうも様子がおかしい。近所を散歩しながら、他人の植木バチを勝手に持ちかえってくる。あるいは近所の人の悪口を言いふらす。しかしその女性は昔から、そういう人だった。が、年齢とともに、そういう自分を隠すできなくなった。
で、その人格。むずかしいことではない。日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが年となり、その人の人格となる。ウソをつかない。ルールを守る。ものを捨てない。そんな簡単なことで、その人の人格は決まる。たとえば…。
信号待ちで車が止まったときのこと。突然その車の右ドアがあいた。何ごとかと思って見ていると、一人の男がごっそりとタバコの吸殻を道路へ捨てた。高級車だったが、顔を見ると、いかにもそういうことをしそうな人だった。
また別の日。近くの書店へ入ろうとしたら、入り口をふさぐ形で、4WD車が駐車してあった。横には駐車場があるにもかかわらず、だ。私はそういうことが平気でできる人が、どんな人か見たくなった。見たくなってしばらく待っていると、それは女性だった。
しかしその女性も、いかにもそういうことをしそうな人だった。こういう人たちは、自分の身勝手さと引き換えに、もっと大切なものをなくす。小さなわき道に入ることで、人生の真理から大きく遠ざかる。
さてこの私のこと。私は若いころ、結構小ズルイ男だった。空き缶を道路に平気で捨てるようなタイプの男だった。どこかの塀の上に、捨てたこともある。そういう自分に気がつくのが遅かった。だから今、歳をとるごとに、自分がこわくてならない。「今にボロが出る……」と。
ついでに……。こんな悲しい話もある。アルピニストの野口健氏がこう言った。
「登山家の中でも、アジア隊の評判は悪い。その中でも日本隊は最悪。ヒマラヤをゴミに山にしている。ヨーロッパの登山家は、タバコの吸殻さえもって帰るのに」(F誌〇〇年六月)と。
写真には酸素ボンベが写っていた。それには「二〇〇〇年H大学」とあった。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●しつけは普遍
日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むずかしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで決まる。
しかもそれはその人が、幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころには、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。
たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果しかない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりする。
さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がおかしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというのは、もっと常識的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわかる。
してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたときには、どこか心が不安定になる。不快感が心に充満する。そういう常識に従って生きることを教えればよい。そしてそれを教えるのが、「しつけ」ということになる。
そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは普遍」という。
(はやし浩司 しつけ 人格 人格論 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist しつけとは 子供のしつけ 子どものしつけ)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●子どもの補償作用
子どもは、(おとなもそうだが)、自分に何か欠点や、コンプレックスがあったりすると、それを解消するために、さまざまな行動を、代償的にとることが知られている。その一つが、「補償」という作用である。
たとえば容姿があまりよくない女の子が、ピアノの練習に没頭したり、あまり目だたない男の子が、暴力的な行動によって、目立ってみせるなど。
運動が苦手な子どもが、勉強でがんばるのも、そのひとつ。あるいは内気な子どもが、兵隊の服を着て、おもちゃの銃をもって遊ぶのも、その一つ。強くなったつもりで、自分の中の(弱さ)を、補償しようとする。
こうした補償作用は、意識的にすることもあるし、無意識的にすることもある(「心理学小事典・岩波」)。
つまり子どもは何らかの形で、他人の目の中で、自分を反映させようとする。自分の存在感をつくり、最終的には、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。
が、こんなケースもある。こうした補償が、子どもの中でうまく作用する子どもは、まだ幸せなほう。が、その補償が、ことごとく、裏目に出る子どもだ。子どもの心を考える、一つのヒントには、なると思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 補償 補償作用 補償心理)
<< Home