*Today is the begining of my Life
●私の健康法
今日、1単位の運動をした。
だから明日は、だいじょうぶだろう。
今週、5単位の運動をした。
だから来週は、だいじょうぶだろう。
今月は、(歩け運動)に、1回、参加した。
だから来月は、だいじょうぶだろう。
しかしそのあとのことはわからない。
モヤモヤとした闇に包まれている。
来年のこととなると、さらにわからない。
ただ確実に言えることは、来年は、
今年より、よいということはないということ。
では、どうするか?
運動量を、1日、1単位から2単位へとふやす。
1週間で、5単位から10単位にふやす。
(歩け運動)については、1回から、月2回にふやす。
それが無理だというのなら、・・・やがて
運動量をふやすといっても、限界に達するだろうが、
そうなったときには、不健康であることを嘆かない。
それがそのまま「命」の限界ということなる。
それに、この世界には、『自業自得』という、恐ろしい
言葉がある。
どんな結果であるにせよ、それは(今)が決める。
若いときはそれほど気にしなかったが、
このところ、その言葉が、ズシリと、胸に響く
ようになった。
運動をサボるだけサボりながら、「健康でいたい」は、
ない。
そういう意味では、健康というのは、作るものではない。
守るものでもない。
維持するもの。
今、ここにある健康を、何とか,明日に、来週に、
来月に、そして来年につなげる。
つなげ、つなげしながら、何とか、生き延びていく・・・。
頭の体操も、しかり。
今夜は、これからワイフと深夜劇場に行く。
何を見るかは、ワイフに任せてある。
「楽しむ」というよりは、そこには、ある種の
悲壮感が漂うになった。
(もちろん、楽しみたいが・・・。)
「行かなければならない」という思いで、
深夜劇場に行く。
映画というのは、脳みそに刺激には、たいへんよい。
家でビデオを見るという方法もあるが、迫力がちがう。
その迫力が、脳みそを刺激する。
が、これも回数をふやすしかない。
今のところ、週1回と決めているが、そのうち、
週2回にするかもしれない。
あるいは、ほかの方法があれば、それも試してみたい。
それが今の私の健康法ということになる。
Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司
● ある塾長の死
K県内で、30教室あまりの進学塾を
経営していた、1人の塾長が、去る5月に死んだ。
(私たちは、昔から「塾長」と、その塾長が
引退してからも、一目置いて、そう呼んでいた。)
享年、75歳。
がんから、肺炎を併発し、あっけない死だった。
一線を退いてから、10年以上になる。
同じ私塾連盟に属していたが、その人だけは、
別格だった。
若いときから、派手な生活を楽しんでいた。
10年ほど前に会ったときにも、1000万円超もする、
ベンツを乗り回していた。
その葬儀に出た、別の友人が、こう言った。
「なあ、林君、さみしい葬式だったよ。親族のほうは、
家族と、その孫たちだけだった」と。
私「教え子たちは来なかったか」
友「来るわけないだろう。こういう仕事だからなア」
私「そうかア……。じゃあ、教師たちはどうだった?」
友「すでに一線を退いていたからなア……。受付には、
(塾関係者)というコーナーもあったが、記帳したのは、
ぼくと、ほかに数名だけだった」
私「彼の下で働いていた教師たちは、来なかったのか」
友「来なかったと思うよ。来れば、わかったはずだから……」と。
その塾長で覚えているのは、いつだったか、
こんな話をしてくれたこと。
塾長……彼の名前を、M氏としておく。
M氏には、ほかに4人の兄弟がいた。
生まれはみな、東北のI県だったという。
が、みな、M氏を頼って、M氏の周辺に
集まってきた。
その兄弟たちの面倒を、M氏は、よくみた。
「ぼくはね、甥っ子や姪っ子の学費まで、
全額出してやったんだよ」が、M氏の自慢話
だった。
「こういう仕事をしていると、進学の話になると、
断れないもんだよね」とも。
それだけではない。
兄弟たちには、進学塾での仕事も与え、生活の
面倒もみていた。
「一応、理事ということで給料は払っているけど、
仕事らしい仕事は、してくれない」と、M氏は、
ときどきこぼしていた。
……と、まあ、そういう話をしながら、今日、
ワイフが私にこう言った。
「みんな、冷たいのね。それだけ世話になって
おきながら、どうして葬式に来なかったのかしら?」と。
私「あのね、そういう見方は正しくないよ。
塾長にしてみれば、『助けた』と思っているかも
しれないけど、助けられたほうは、そうは思っていない」
ワ「あら、どうして?」
私「貧者には貧者の論理が働く。塾長の自宅は、F市に
あるけど、(住まい)というよりは、(豪邸)だよ。
庭の端には、総ひのき造りの離れまである。そういうのを
見せつけられると、『ありがたい』と思う前に、
その人をねたむようになる。この(ねたみ)がこわい」
ワ「そうね……」と。
別の進学塾の塾長も、こう言っていた。
「ぼくは、今まで、仲人はともかくも、教え子の
結婚式に招待されたことすらない」と。
「そういうものかあ」と返事をためらっていると、
その塾長は、こう言った。
「いいか、林君、しょせん、ぼくらのしている
仕事というのは、そういうものだよ。父母に
しても、息子や娘が進学塾に通っていたという
話は、隠したがる……」と。
「そうであってはいけない」と、私は思うが、
月謝という(マネー)がからむと、人間と人間と
つなぐ紐は、かわいた藁(わら)のようなもの。
あっという間にボロボロになって、切れる。
『金の切れ目が、縁の切れ目』と。
だからその友人は、こうも言った。
「だから、ぼくらの仕事には、幻想をもたないことだ。
いくらきれいごとを並べても、親たちが求めて
いるのは、別のものなんだ」と。
彼が言う(きれいごと)というのは、いっぱしの
「教育論」をいう。
私「考えれば考えるほど、さみしくなるね」
友「ハハハ、ぼくたちだけではないよ。開業医を
している高校時代の友だちも、同じようなことを
言っていたよ」と。
話をもとにもどすが、他人がもつ(ねたみ)には、
警戒したほうがよい。
原始的な感情であるがゆえに、扱い方をまちがえると、
かえって反感を買ってしまう。
えてして成功者は、それをことさら他人に
誇示したがる。
「私は、これこれしかじかの成功者である」と。
しかし中には、その日、その日の生活で、
精一杯という人もいる。
そういう人は、その人をうらやむ前に、
はげしい憎悪の念すらもつかもしれない。
と、同時に、自分が覚える(ねたみ)にも、警戒した
ほうがよい。
他人をねたむことによって、自分の心を貧しくする。
あるいは、ゆがめる。
先にも書いたように、原始的な感情であるがゆえに、
一度ゆがむと、それを元にもどすのは、たいへん。
ばあいによっては、それがその人のものの考え方の
基本になってしまう。
友人はこう言った。
「昔は、医は、仁術と言った。それだけ患者たちに
感謝され、尊敬された。が、今は、ちがう。医者たちが
特権階級になってしまった。中には、すばらしい医者も
いるかもしれないが、たいはんの医者たちは、庶民とは
かけ離れた生活をしている。それが他方で、ねたみの
原因となっている」と。
……ここまで書いて、私は昔見た、華僑の家を
思い出した。
マレーシアでも、インドネシアでも、華僑の家は
見た目には、ものすごくみすぼらしい。
鉄格子のような扉が、道路を隔てている。
その鉄格子をとおして見える、部屋も、これまた
みすぼらしい。
が、案内されて廊下を通り抜けると、様子が一変する。
壁も、そして部屋の床も、すべて本物の大理石!
家具も調度品も、それにふさわしいものばかり!
あとで別の人に理由を聞くと、その人はこう話してくれた。
「現地の人にねたまれると、暴動が起きたような
とき、イの一番に、攻撃されるから」と。
人にねたまれるということは、そういうことをいう。
もっとも私のばあいは、相手が幼児だし、
進学を目的とした指導は、していない。
人間関係など、作りようがない。
が、立場は、冒頭に書いた塾長と同じ。
どこもちがわない。
派手な葬式など、望みようもない。
死ぬときは、かぎりなく孤独だろう。
長生きをすればするほど、そうで、ひょっと
したら、ワイフのほうが先に、あの世へ
行ってしまうかもしれない。
やはり大切なのは、「今」ということになる。
今というこの時を、どうやって心豊かに
生きていくか。
それだけを考えて生きていけばよい。
明日のことは、明日に任せればよい。
結果は、あくまでも結果。
そんな結果を気にしていたら、とても心豊かに
生きていくことはできない。
しかし……。あの塾長は、私にとってはよい人だった。
明るく快活で、いつも自信に満ち溢れていた。
一度、鉄板焼きをごちそうになったこともある。
ご冥福を、お祈り申し上げます。
~~~~~~~~~~~~~~H. Hayashi
●わけのわからないストライキ
現在、日本中の漁船が、操業を停止しているという(08年7月)。
理由は、燃料費の高騰。
漁民の人たちは、政府に対して、「燃料費の補填(ほてん)をしてほしい」と。
しかし考えれば、考えるほど、このストライキはおかしい。
理解できない。
たとえば航空輸送産業がある。
そこでも同じように、燃料の高騰に苦しんでいる。
事情は、日本各地の運送業も同じだろう。
が、どうして漁業だけが、「補填しろ」と言うのだろう。
……言えるのだろう。
私はこの言葉の裏に、「漁業をしてやっている」という、常識では考えられないような
高慢さを感じてしまった。
今さら説明するまでもなく、日本の農業と漁業、それに林業は、補助金漬けになっている。
このあたりの農家の人たちも、農業そのものの話ということよりも、集まれば、補助金の話ばかりしている。
今では補助金なくしては、農業そのものが成り立たないしくみが、できあがってしまっている。
おそらく、漁業もそうなのだろう。
(詳しくは、あとで自分なりに調べてみたい。)
で、現在、日本の漁業には、「形」しか残っていない。
日本の港へ入ってくる漁船のほとんどは、外国船籍の船ばかり。
また沖合いで、外国の漁船と取り引きして、そこで魚を売買するという方法も、恒例化している。
ふつうなら、燃料費が高騰すれば、その分だけ、魚の値段に上乗せすればよい。
現に航空輸送産業のほうでは、そうしている。
が、それをしないで、「補填しろ」と?
何かのカラクリが隠されている?
臭いぞ!
におうぞ!
漁民の人には失礼かと思うが、漁民の人たちも信用できないが、農林水産省は、もっと信用できない。
その結果が、今回のわけのわからないストライキとなった?
私の今の感覚にすれば、「なんて、甘ったれたことを言っているのだ!」ということになる。
しかし一方、補助金に慣れすぎてしまった漁民の人にしれば、「燃料費の高騰にともなう被害は、政府が補償すべき」となる。
このあたりの意識のズレは、いったいどこから生まれるのか。
どうしてこうなってしまったのか?
ちなみに、今日も近くの開店寿司を食べたが、値段は同じ。
ネタもいつものとおり。
(今朝の新聞によれば、魚の入荷が減り、魚市場での魚のセリは、いつもの半分の時間で終わったとある。)
日本の漁船が操業を停止しても、日本人の食卓から魚が消えることはないらしい。
つまりそれが現在の日本の漁業を象徴している。
もっと言えば、日本の漁業など、あってもなくても同じ?
(だからといって、なくてもいいと言っているのではない。誤解のないように!)
さらにわかりやすく言えば、とっくの昔に、日本の漁業は、全体として倒産状態にあった?
それを無理に無理を重ねて、日本政府は、生かしてきた。
(だからといって、それがまちがっていたと言っているのではない。誤解のないように!)
こうした過保護行政は、たとえばあの「捕鯨」にも、みられる。
ほんの一部の捕鯨業者と、高級化割烹でクジラを食べる金持ちを守るためだけに、いまだに、捕鯨をつづけている。
「調査捕鯨」などという、それこそわけのわからない理由をこじつけて……。
おまけに世界中の人たちから、袋叩きにあっている!
何かおかしい。
どう考えてもおかしい。
このつづきは、私なりにもう少し調べてみてから、書いてみたい。
その結果、「やはり政府は、補填すべき」と書くかもしれない。
反対に、「補填など、とんでもない話」と、書くかもしれない。
どうであるにせよ、何かおかしい?
今は、保留としておく。
~~~~~~~~~~~~~~H. Hayashi
● HP者の2133、ミニ・パソコン
最初は少しとまどったが、今は、2133が気に入っている。
使い勝手も悪くない。
が、ひとつ問題が発生。
ディスクドライブを内蔵していない。
そのため外付けのドライブを使用しているが、ソフトによって、インストールできるのと、できないのがある。
そこでインターネットを調べてみると、今、私がもっているドライブは、ビスタには対応していないのがあった。
しかたないので、さっそく、一台、購入。
チラシに出ていた、いちばん安いのを選んだ。
値段は、6800円。
で、この話とは別に、2133を使ってみて気づいたことがある。
2133は、ワープロとして使っている間は、まったく問題ない。
しかしインターネットにつないで、メールのやりたりをしたり、ウェブをのぞいてみたりすると、能力の差を、たいへん強く感ずる。
もっとも今、私がデスクで使っているパソコンは、2台とも、最先端のCPUと、グラフィック・ボードを搭載している。
メモリーも、4Gと3G。
ところが、大半の人は、この2133と同じレベルか、あるいはそれ以下のマシンを使っている。
とくに家庭の母親たちは、そうだろう。
私は、それがよかれと思って、ホームページなども最新の技術を使って更新したりしている。
しかし古いパソコンだと、画面を開くことさえできないかもしれない。
あるいはモタモタと時間ばかり、かかるかもしれない。
とたん、なんだか、申し訳なくなってきた。
つまり自分のしていることに自信がなくなってきた。
「私だけ、高性能のパソコンを使っていいものか?」と。
2133は、能力的には、お世辞にも、すぐれたパソコンとは、とても言いがたい。
最初の画面をたちあげるだけでも、2分40秒もかかる。
ワードを開こうとすると、さらに1分程度もかかる。
どこか、かったるい。
(一方、私が使っているデスクトップパソコンは、1分弱で、作業を始めることができる。)
しかし値段が値段だから、こんなものかとあきらめるしかない。
ぜいたくを言えば、キリがない。
とにかく今は、このパソコンを使い倒し、願わくは1年以内に故障させて、修理に出せるようにしたい。
保証期間は、1年。
少なくともパソコンというマシンは、使って使って、使いまくる。
みがいて床の間に、飾っておくようなものではない。
(と書きながらも、実際には、毎日ピカピカにみがいて、枕元に置いて眠っているが……。しかしこの考え方は、どこか、セコイね。)
Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司
● 『幻影師・アイゼンハイム』を見る
昨夜、深夜劇場で、『幻影師・アイゼンハイム』を見た。
星は、3つの★★★。プラス★。4つでもよい。
なかなか楽しかった。
おもしろかった。
結局、最初から最後まで、すべてがxxxxだった。
そういう映画だった。
(「xxxx」の部分は、映画を見てからのお楽しみ。)
で、アイゼンハイムが舞台で見せたのは、エジソンが
発明した活動写真のようなものではなかったか。
「そんなもので人をだませるか」と思う人もいるかも
しれないが、当時としては、そういうものだったに
ちがいない。
事実、はじめて活動写真なるものを見た人の中には、
あまりの衝撃で、気を失った人もいたという記録も
残っている。
テレビがはじめて現れたころもそうだった。
みな、テレビの前で正座して、それを見ていた。
アナウンサーが、「こんにちは」とあいさつ
したりすると、私の祖父などは、頭をしっかりと
さげて、「こんにちは」とあいさつをしていた。
祖父は真顔で、私にこう説明した。
「浩司、こちらから向こうが見えるということは、
向こうからも、こちらが見えるはず」と。
で、『幻影師・アイゼンハイム』は、最初から最後まで、謎、謎、謎……という映画だった。
が、最後の最後で、どんでん返し。
そのどんでん返しが、おもしろかった。
見て、損はない映画である。
とくにボケ防止には、よい。
Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司
●日々に精進
今日、こんなことがあった。
山荘へ向かう途中、一台の大型トラックターが、右前方を走っているのが見えた。
少し変わった形をしていた。
運転台が、4面大きなガラス窓になっていた。
まるで宇宙船のようだった。
で、そのトラックターに見とれていると、ちょうど交差点のところで、何かの上に乗り上げた。
ドスンと大きく揺れて、その瞬間、どこかにたまっていた畑土が、ドドッと道路にこぼれた。
私とワイフはそれを見ながら、その交差点を、左に曲がった。
私「あの運転手は、土が落ちたのを見ていたよ」
ワ「どうしてそれがわかるの?」
私「だって、バックミラーをしっかりとのぞきこんでいたもの」と。
それから私たちはいつものように山荘へ向かい、数時間を過ごした。
昨日と変わって、涼しい風が吹いていた。
ワイフは、昼寝。
私は、パソコン雑誌を読んだ。
で、いつものように、いつもの道を通って帰った。
そして途中、先ほどの交差点へやってきた。
見ると、畑土は、きれいに消えていた。
道路を、ほうきで掃いたような跡も残っていた。
私「あの運転手、ちゃんと片づけていったよ」
ワ「あら、いい人ね」
私「今どき、珍しい人だよ。ちゃんと責任を取っていった」
ワ「ああいう人は、きっとみんなに信頼されているはずよ」
私「そうだね。一事が万事だからね。きっと友だちも多いはず」
ワ「そういう人は、幸福になれるわね」と。
まさに瞬間、瞬間が日々の積み重ねになる。
その日々が積み重なって、週となり、その週が積み重なって月となる。
さらに月々が積み重なって年となり、やがてその人の人格となる。
私「誠実な人は、いつでも、どこでも誠実だよ」
ワ「だからみんなに信頼されるようになるのよ」
私「が、油断してはいけない。ときに『まあ、いいや』と思ってしまうと、そのとたん、それまでの自分が、総崩れになってしまう」
ワ「こわいわね」
私「だから日々に、精進あるのみ。その緊張感を忘れたら、おしまい」と。
人も50歳を過ぎると、それまでごまかしてきた持病が、どっと表に出てくるようになる。
人間性もそうで、それがそのまま表に出てくるようになる。
それまでは気力で、他人の目を欺くことができる。
その気力そのものが弱くなる。
さらにこわいことに、人も50歳をすぎると、健康はどんどんと下り坂に向かう。
同じようにそれ以後、その人の人間性が、向上するということは、ありえない。
よほどの努力をしないかぎり、そういうことは、ありえない。
加えて頭の活動も、鈍くなってくる。
醜い人は、醜い人のまま。
心の貧しい人は、貧しい人のまま。
よく「老人になればなるほど、人格に円熟味が生まれる」と説く人がいる。
しかしそれはまっかなウソ。
ウソということは、自分がその年齢になってみて、はじめてわかった。
もちろん老人の中には、高邁な人格を保った人もいる。
しかし、たいはんは、「?」。
中には、電車やバスの中で、ゲラゲラ、ギャハハハと騒いでいる老人さえいる。
悲しいかな、文化性はゼロ。
知性も、ゼロ。
人間というよりは、サルに近い。(ホント!)
ウソだと思うなら、ほんの数分でよいから、彼らの会話に耳を傾けてみることだ。
聞くに耐えないというか、よくもまあ、ああいう会話ができるものだというような会話をする。
つまり人は、ある日突然、ケア・センターにいるような老人になるのではない。
日々に少しずつ、ああなっていく。
では、どうしたらよいのか?
結局は、『日々に精進あるのみ』ということになる。
その努力を怠ったとたん、とても残念なことだが、人も、サルになる。
(もちろんだからといって、人間としての価値をなくすという意味ではない。誤解のないように!)
ある人は、『ケータイをもったサル』という本を書いた。
若い人たちを酷評した本だが、ベストセラーになった。
しかし今の私なら、こんな本を書く。
『ケータイをもたないサル』。
いつか思い切って、老人たち(=私たち自身)を酷評してみたい。
<< Home