Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Friday, August 08, 2008

*Funeral Party

●平均葬儀費用、313万円!

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平均葬儀費用は、313万円だそうだ。
「フ~ン」と思ってみたり、「そんなものかな?」と
思ってみたり……。

死ぬのもたいへん。結構、お金がかかる?

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 平均葬儀費用は、313万円。財団法人の日本消費者協会が、関東地方で調べたところ、そういう数字が出てきたそうだ(2003年)。

 しかしこれはあくまでも平均的な額。葬儀には、ご存知のように、ピンからキリまである。その気にさえなれば、葬儀も、最低は、10万円から、できるそうである(「世の中の裏事情」PHP)。もちろん上限はない。仏式で葬儀をするばあい、戒名に必要な(お布施)にしても、これまたピンからキリまである。戒名が3文字ふえただけで、ふつう、30~50万円が上乗せされる。

 たとえば戒名は、ふつうは、6文字か9文字。6文字だと、10万円前後。しかし9文字になると、50万円前後。

 さらに「院」とか、「大」の文字がつけてもらうと、戒名も12文字になって、(お布施)だけ、軽く、100万円を超える。

 火葬にしても、公共施設ですれば安くすませることができる。無料のところも多い。が、私営の火葬場だと、そうはいかない。いくつかのクラスに分かれているところが多い。これにも、また、上限がない。

 しかし、問題は、なぜ、人は、こうまで「葬儀」にこだわるのかということ。本人自身がこだわることも多い。いつも口ぐせのように、「私が死んだら、葬式にだけには来てくださいよ」と、会う人ごとに、頼んでいた知人(当時、80歳くらい)もいた。

 一方、通俗的な世間体にしばられて、(世間体ほど通俗的なものはないが……)、派手な葬儀をする人もいる。傍(はた)からみていると、「何もそこまでしなくても……」と思うのだが、その人には、その人の事情というものがある。とくこの葬儀には、その人の死生観、人生観、哲学、さらには、人格そのものが、からんでいる。

 簡単に割り切ることができない。

 そこで私たち……というより、私は、どうあるべきかということを考える。実は、昨夜も、夕食のあと、ワイフとそれについて、話した。私が、「葬式は、どうする?」と聞くと、ワイフは、「そんなものは、しないわ」と。

私「しかしお前の兄弟たちが、許さないかもね」
ワ「いいじゃない、私が、それでいいと言っているのだから……」
私「だけど、ぼくが冷たい目で見られる」
ワ「遺書にはっきりと、そう書いておくからいいわよ」

私「ぼくも、葬式は、いらない」
ワ「だったら、あなたも、遺書にはっきりと、そう書いておいてよ。私も、あなたの親戚に、冷たい目で見られるのは、いやだから」
私「ぼくたちだって、結構、世間体を気にしているのだね」
ワ「世間体じゃあなくて、私は、うるさいことを言われたくないのよ。わずらわしいでしょ」と。

 それなりの死生観、人生観、哲学のある人から、文句を言われるのは、しかたない。しかし、そうでない人に、あれこれ言われるのは、不愉快。バカげている。この日本、「私は私」と思って生きるのは、結構、たいへん。それを貫くのは、もっとたいへん。

 で、私が死んだあと、(順番でいけば、私のほうが先)、家の中で、ひっそりと葬式をしたら、みんな何と言うだろうか。どう思うだろうか。まあ、どう言われようが、どう思われようが、私の知ったことではないが……。

 もちろん、僧侶も呼ばないし、墓もつくらない。遺灰のあつかい方については、息子たちに任す。いつか、海にまいてくれてもいいし、一部は、山荘の周辺とオーストラリアのアルバート・パークにまいてくれてもいい。決して「葬儀代を、安くあげよう」と考えているわけではない。

 私は、裸で生まれ、裸で生きてきた。だから死ぬときも、裸で死にたい。これが私の生き方だといえるような、そんな生き方を最後まで貫きたい。だから葬式にしても、本当に悲しんでくれる人だけに集まってもらい、その人たちが静かに慰めあうようなものにしてほしい。

 墓については、私の書いた文章が、墓だと思ってほしい。私は、いつも、そういう思いをこめて、自分の文章を書いている。だから、もし私のことを思い出してくれる人がいたら、いつでも気が向いたとき、どのページでもよいから、私の書いた文章を読んでほしい。

 簡単にすませば、10万円ですますことができる葬儀。そんな葬儀に、313万円もかけることはない。もしそんなお金があるなら、今、生きている人たちが、有効に使えばよい。できれば、食料もなく、飢えて苦しんでいる人に、あげればよい。

 ……とまあ、話がどんどんと脱線してしまったが、だからこそ、「今」というこのときを、一日、一日、大切にして生きる。そして毎晩、床に入って目を閉じるときが、私の葬式。そのまま眠りにつくのも、そのまま死ぬのも、原理的には、同じ。翌朝、生きていたら、生きているということになる。翌朝、死んでいたら、死んでいるということになる。

本当に死んだときだけ、313万円もかけて、なぜ、大騒ぎしなければならないのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 葬儀 葬儀代 密葬 家族葬)

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2年(06)前の6月に書いた
原稿を添付します。

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【過去、現在、未来】

●輪廻(りんね)思想

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過去、現在、未来を、どうとらえるか?

あるいは、あなたは、過去、現在、未来を、
どのように考えているか?

どのようなつながりがあると、考えているか?

その考え方によって、人生に対する
ものの見方、そのものが変わってくる。

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 時の流れを、連続した一枚の蒔絵(まきえ)のように考えている人は、多い。学校の社会科の勉強で使ったような歴史の年表のようなものでもよい。過去から、現在、そして未来へと、ちょうど、蒔絵のように、それがつながっている。それが一般的な考え方である。

 あるいは、紙芝居のように、無数の紙が、そのつど積み重なっていく様(さま)を想像する人もいるかもしれない。過去の上に、つぎつぎと現在という紙が、積み重なっていく。あるいは上書きされていく。

 しかし本来、(現在)というのは、ないと考えるのが正しい。瞬間の、そのまた瞬間に、未来はそのまま過去となっていく。そこでその瞬間を、さらに瞬間に分割する。この作業を、何千回も繰りかえす。が、それでも、未来は、瞬時、瞬時に、そのまま過去となっていく。

 そこで私は、この見えているもの、聞こえているもの、すべてが、(虚構)と考えている。

 見えているものにしても、脳の中にある(視覚野)という画面(=モニター)に映し出された映像にすぎない。音にしても、そうだ。

 さらに(時の流れ)となると、それが「ある」と思うのは、観念の世界で、「ある」と思うだけの話。本当は、どこにもない。つまり私にとって、時の流れというのは、どこまでいっても、研(と)ぎすまされた、(現実)でしかない。

 その(時の流れ)について、ほかにもいろいろな考え方があるだろうが、古代、インドでは、それがクルクルと回転していくというように考えていたようだ。つまり未来は、やがて過去とつながり、その過去は、また未来へとつながっていく、と。ちょうど、車輪の輪のように、である。

 そのことを理解するためには、自分自身を、古代インドに置いてみなければならない。現代に視点をおくと、理解できない。たとえば古代インドでは、現代社会のように、(変化)というものが、ほとんどなかった。「10年一律のごとし」という言葉があるが、そこでは、100年一律のごとく、時が過ぎていた。

 人は生まれ、そして死ぬ。死んだあと、その人によく似た子孫がまた生まれ、死んだ人と同じような生活を始める。同じ場所で、同じ家で、そして同じ仕事をする。人の動きもない。話す言葉も、習慣も、同じ。

 そうした流れというか変化を、一歩退いたところで見ていると、時の流れが、あたかもグルグルと回転しているかのように見えるはず。死んだ人がいたとしても、しばらくしてその家に行ってみると、死んだ人が、そのまま若返ったような状態で、つまりその子孫たちが、以前と同じような生活をしている。

 死んでその人はいないはずなのに、その家では、以前と同じように、何も変わらず、みなが、生活している。それはちょうど、庭にはう、アリのようなもの。いつ見てもアリはいる。しかしそのアリたちも、実は、その内部では、数か月単位で、生死を繰りかえしている。

 こうして、多分、これはあくまでも私の憶測によるものだが、「輪廻(りんね)」という概念が生まれた。輪廻というのは、ズバリ、くるくると回るという意味である。それが輪廻思想へと、発展した。

 もちろん、その輪廻思想を、現代社会に当てはめて考えることはできない。現代社会では、古代のインドとは比較にならないほど、変化のスピードが速い。10年一律どころか、数年単位で、すべてが変わっていく。数か月単位で、すべてが変わっていく。

 住んでいる人も、同じではない。している仕事もちがう。こうした社会では、時の流れが、グルグルと回っていると感ずることはない。ものごとは、すべて、そのつど変化していく。流れていく。

 つまり時の流れが、ちょうど蒔絵のように流れていく。もっとわかりやすく言えば、冒頭に書いたように、社会科で使う、年表のように、流れていく。長い帯のようになった年表である。しかしここで重要なことは、こうした年表のような感じで、過去を考え、現在をとらえ、そして未来を考えていくというのは、ひょっとしたら、それは正しくないということ。

 つまりそういう(常識?)に毒されるあまり、私あたちは、過去、現在、未来のとらえかたを、見誤ってしまう危険性すら、ある。

 よい例が、前世、来世という考え方である。それが発展して、前世思想、来世思想となった。

 前世思想や、来世思想というのは、仏教の常識と考えている人は多い。しかし釈迦自身は、一言も、そんなことは言っていない。ウソだと思うなら、自分で、『ダンマパダ(法句)』(釈迦生誕地の残る原始仏教典)を読んでみることだ。

 ついでに言っておくと、輪廻思想というのは、もともとはヒンズー教の教えで、釈迦自身は、それについても一言も、口にしていない。

 言うまでもなく、現在、日本にある仏教経典のほとんどは、釈迦滅後、4~500年を経てから、「我こそ、悟りを開いた仏」であるという、自称(仏の生まれ変わりたち)によって、書かれた経典である。その中に、ヒンズー教の思想が、混入した。

 (それについて書いた原稿は、このあとに添付しておく。)
 
 過去、現在、未来……。何気なく使っている言葉だが、この3つの言葉の中には、底知れぬ真理が隠されている。

 この3つを攻めていくと、ひょっとしたら、そこに生きることにまつわる真理を、発見することができるかもしれない。

 そこでその第一歩。あなたは、その3つが、どのような関連性をもっていると考えているか。

 一度、頭の中の常識をどこかへやって、自分の頭で、それを考えてみてほしい。