Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Friday, August 08, 2008

*Funeral Party

● 8月9日(土曜日)

【家族葬】

葬式……かくも偽善と欺瞞に満ちた儀式が、ほかにあるだろうか。
心の中では、「バンザ~イ」と叫びながら、みなの前では大泣きしてみせる。
悲しみにくれた遺族を演じてみせる。
しかし涙は、出ない。
出るはずもない。
葬儀そのものが、エセ。
インチキ。
ウソ。

夫を殺害しておきながら、葬儀の場では、おいおいと泣いて見せた女性がいた。
自分の実の娘を殺しておきながら、「娘を返して」と泣き叫んだ女性もいた。
これらは極端な例かもしれないが、似たような話は、どこにでもある。

ある女性(嫁、50歳くらい)は、裏では義父を虐待しながら、表では、献身的な嫁を演じていた。
心理学の世界にも、「代理ミュンヒハウゼン症候群※」というのがある。
言うなれば、「逆・代理ミュンヒハウゼン症候群」と言うべきか。
見舞いの訪問客が来たりすると、義父の背中を、ことさらていねいに、さすって見せたりしていたという。

一方、こんな思いで、死者を送る人もいる。
私の友人は、昨年、妻を亡くした。
それについて私が、「悲しかったか?」と聞くと、その友人は、こう言った。
「うれしかった」と。
驚いた表情をしてみせると、その友人は、こう言った。
「2年間も、痛みで苦しんだ。それから妻が解放された。だからうれしかった」と。

で、今年、その友人が娘に連れられて日本へやってきた。
そんなある日、その友人に「学生のときのように、歌をいっしょに歌おう」と言うと、
その友人は、こう言った。
「ヒロシ、ぼくはもう5年以上、歌など歌ったことがない」と。

妻ががんを宣告されて以来、歌を歌ったことがない、と。

愛する人を失うということは、そういうことをいう。
儀式ではない。
形ではない。
心だ。

私も、ワイフが死んでも、葬式などしない。
僧侶の読経も、断わる。
そんなもので、自分の心をごまかしたくない。
ごまかされたくもない。
私は、一晩でも二晩でも、事情が許すかぎり、ワイフのそばで寝る。
遺骨になったら、私が死ぬまで、私の手元で、私が預かる。
だれにも渡さない。
寺にも渡さない。

ただ、私が死んだあとのことは、知らない。
息子たちに、処分を任す。
海へ捨てたければ、捨てればよい。
だからといって、私はだれも、うらまない。
それによって息子たちに、バチが当たるとか、成仏できないとか、
そういうアホなことを言う人がいたら、私があの世で笑ってやる。
息子たちよ、堂々と、遺骨は、海へ捨てなさい。
だれにも遠慮する必要はない。
私はお前たちの手によって、海へ捨ててもらうことを、誇りに思う。
またそれによって私が成仏できないというのなら、私はあの世へ行ったら、
まっさきに、釈迦だろうが、閻魔大王だろうが、彼らに抗議する。

何なら、みなで力を合わせて、『家族葬の会』というのを、つくってもよい。

形式はない。
その人の愛情の度合いに応じて、それぞれの人が、それぞれの葬儀の仕方を考えればよい。
私がここに書いたような送り方でもよいだろうし、直葬でもよい。
僧侶も戒名も、不要。
みなで心を開いて、それぞれの思いをこめて、死者に別れの言葉を告げればよい。

「バカ野郎!」と叫びたかったら、そう叫べばよい。
さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
詩を朗読したかったら、詩を朗読すればよい。
もちろん従来どおりの葬儀がよいというのなら、それはそれでよい。
お別れ会をして、翌日あたり、火葬すればよい。
あとはみなで、おいしいものでも食べて、おしまい。

で、そのあと火葬ということになるのだろうが、遺骨の保管の仕方は、それぞれの遺族が
考えればよい。
墓に入れるのもよし、寺に預けるのもよし。
家に仏壇を置いて、その中に安置するのもよし。
小さな容器に入れて、保管するのもよし。
さらに散骨もよし。

そのためには、それぞれの人が、自分の意思を、遺書という形で、しっかりと残しておく必要がある。

この世界には、かならず、あれこれと文句を言う人がいる。
過去をそのまま踏襲しながら、それが正しいことと信じて疑わない人たちがいる。
彼らの化石のように、こりかたまった思考回路を変えるのは不可能と考えてよい。
だからこそ、故人のかたい意思が大切ということになる。

【私の遺書】

(1) 葬儀という形だけの儀式は、いっさい、するな。
(2) お別れ会をして、みな、一言ずつ、言葉で自分の気持ちを語ってくれればよい。
(3) 僧侶の読経は、不要。かわりに音楽をかけてほしい。
(4) 戒名も、不要。私は「はやし浩司」のまま死ぬ。
(5) 遺骨は、私が先に死んだら、始末はワイフに任す。
(6) ワイフが死んだら、私とワイフの遺骨は、息子たちに任す。
(7) 墓は不要。思い出の地に、散骨してほしい。
(8) 遺骨の一部は、メルボルンのアルバート公園の一角に。
残りは、中田島の砂丘から海にまいてほしい。

(補)ワイフが先に死んだら、私が死ぬまで、遺骨は、私のそばに置く。
   毎日、さみしくなったら、その遺骨に向かって、話しかける。

【息子たちへ】

以上のような葬儀の仕方(?)をして、それについて、「おかしい」とか、何とか
言う連中がいても、相手にするな。
そのときは、この私の遺書を、前にかかげよ。
私の葬儀にも、ワイフの葬儀にも、いっさい、無駄なお金を使うな。
集まってくれた人から、霊前とか仏前とか、そういうわけのわからない金を受け取るな。
花輪も不要。
いっさい断われ。

以上が、私が説く、家族葬ということになる。

● 成仏

日々に精進に精進を重ね、法を悟った人を「仏」という。
その「仏」が、「島」となって、さらに法を広める。
それが釈迦の教えということになる。

一方、この日本では、「死ねば、みな、仏」と教える。
結構な教えだが、この安易な「仏思想」が、日本の仏教を堕落させた。

で、私は一度、ある寺の住職に、こう聞いたことがある。
「戒名はどうして必要なのですか?」と。
するとその住職は、こう答えた。

「俗名にまつわるしがらみを捨て、清廉潔白な身分で、浄土へ行くためです」と。

この考え方によれば、この人間社会そのものが、汚れた世界ということになる。
もし汚れた世界というのなら、仏教は、生きることそのものを否定しているという
ことになる。
が、そんなことはありえない。

私たちは懸命に生きてきた。
今も懸命に生きている。
これからも懸命に生きていく。