Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, September 17, 2008

*49days after my Brother's Death

●兄の49日

++++++++++++++++++H.Hayashi

兄の49日の法要のために、実家へ行ってきた。
僧侶と、私たち家族、計4人だけの、
静かな法要だった。

その「49日」については、こんな由来がある。

漢字の「七」は、もともとは、腹を横、縦に切って、内臓が
飛び出している様子を表したものだという(「本当は怖ろしい漢字」・
小林朝夫・彩図社)。
どこかこじつけ的な感じがしないでもないが、「七」という数字が、
中国ではあまり好まれていないのは、事実。

「十字切りの腹切りは、腹を横に一度切ってから、腹に刺さったその刃物をいったん
引き抜き、もう一度自分の腹の上部に差し込んで、今度は縦に引き下ろすというもの
だ。
その際に『十』の形に切った切り口の下のほうから、血まみれの腸が外へ飛び出して
しまう。
『十』という字に、飛び出た血だらけの腸の形を付け足したのが、『七』なのである」
(同書)と。

「七」という漢字は、怖ろしい漢字ということになる。

そこで中国では、「天に昇った死霊を弔う行事である七夕。亡くなった者を供養する
最初の日は、初七日。喪に服すのは七日の二乗である四十九日。
このように『七』には、常に『死』がつきまとう。
『七福神』というめでたいイメージもあるが、これは『七』がもつ不吉さを払いのける
ための存在なのだ」(同書)と。

英語では「ラッキー・セブン」と言って、「7」を、めでる傾向がある(同書)。
しかし中国では、その逆。
「七」は、不吉な数字だったらしい。

ということで、初七日が生まれ、49日の法要が生まれた。

……ところで、一週間は、7日。
兄のばあいは、7日ごと、ちょうど1週間ごとに、法要を繰り返した。
そして7回目の今日、49日の法要があった。

住職による読経のあと、墓まで行き、納骨をすませた。
静かな、静かな、どこまでも静かな法要だった。

ついでに申し添えるなら、初7日の法要にせよ、49日の法要にせよ、もともとは釈迦仏教とは、縁もゆかりもない法要ということが、これでわかる。
「7」にこだわったのは、釈迦ではなく、中国人だった(?)。
あるいはインド(ネパール)では、どうだったのか。
一度、インドの友人(マヘシュワリ君)に聞いてみよう。


●葬儀

要するに、葬儀の仕方は、国、民族、宗教、さらにその宗派によって、みな異なる。
異なるということは、「形」はないということ。
言い換えると、それがどんな方法であれ、死者を悼む目的でなされるものであれば、
それでよいということ。

「形」にこだわるほうが、おかしい。

同じく「本当は怖ろしい漢字」の中に、昔の中国の葬儀の仕方が書いてある。
それをそのまま紹介させてもらう。

「中国古代の葬儀法を記したものに、周公旦(しゅうこうたん)の表した『儀礼』が
ある。
この書には、葬儀は死んだ瞬間から始まると記されている。
身内が死んだら、死体をすぐ裸にして湿らせた布で拭き清め、死後硬直によって膝が
曲がらないように両足を固定する。
つぎに遺族の1人が、死者の衣を肩に掛けて屋根にあがり、北の方角を向いて服を
振りながら故人の名前を叫び、一度家に帰る。
つづいて皆で、故人に別れを告げ、魂をあの世に送る。
無事に送るには全員が泣き叫びつつ、その場で足踏みをつづけなければならない。
さらに折を見て、死者に散髪を施し、体を井戸水で洗い、黒色の装束をまとわせる。
埋葬する前に死者の口の中を米と貝で満たし、そこにさじを挿す。
あの世に行き着くまでの長旅に備えるのである。
埋葬する土地と日時は、あらかじめ占い師によって決められている。
その場所と日時を守らなければ、死者はあの世へ行くことはできないのだ。
一連の儀式が終わると、遺族の顔には笑顔が戻る。
大切な者を手厚くあの世へ送る『葬』を成し遂げた、安堵の表情であるといえよう」
(同書、P71)と。

しかし……?

昔、長谷川一夫という、日本を代表する名優がいた。
彼は妻が死ぬと、その日から、妻の仏壇の前だけで、毎日をすごすようになったそうだ。
そして妻が死んでからちょうど1か月目に、自らも衰弱し、
そのまま死んでしまったという。
何かの本で読んだ話なので、細部については不正確かもしれない。
しかし長谷川一夫のこの話には、愛する人を亡くした人の、悲しみや苦しみが、
集約されている。

もし儀式があるとするなら、それは飾りのようなもの。
あるいは飾りにもならないかもしれない。

身近にいる愛する人が亡くなったら、どんな儀式をしたところで、その悲しみは
癒されない。

「形」ばかりにこだわる和式仏教を批判してみたくて、ここで葬儀について書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++はやし浩司

●山荘にて

今夜は、夜遅く、山荘に来てみた。
着いたとたん、ガチャ、ガチャなく、くつわ虫の大合唱。
「うるさいわね」とワイフはこぼしたが、つづいて、「寒いくらいね」と。
森の湿った冷気が、気持ちよい。

あとはいつもの決まった作業。
雨戸をあけ、風を通し、食物を卓に並べる。
私はパソコンを広げ、ワイフは本を開く。

あとはただひたすら、雑談、また雑談。
こうして静かに夜がふける。

ところで今使っているパソコンは、HP社の2133。
バッテリーのもちが、格段によい。
省エネモードで使っているためか、まだ2時間近くももつ。
(全体では、7時間ほど。)
一方、ACERのASPIRE-1-は、画面が明るい分だけ、バッテリーの消耗が、
早い。
ASPIRE-1-のほうが、私には使いやすいのだが……。

ところで山荘に来る途中、パソコンショップに寄り、2GBメモリーを2枚、買ってきた。
計4GB!
特価品で、2枚で、8900円。
今使っているVISTAパソコンに付け替えてみるつもり。
店員は、「性能がアップしますよ」と言ってくれた。
楽しみだ。


●熟睡剤

睡眠薬には、いろいろある。
その中のひとつに、「熟睡剤」というのがある。
朝方早く、目がさめるのを防ぐための薬ということらしい。
私もいつも、バッグの中に、それをもっている。
「My Sxxxx」という名前の、実にそれらしい薬である。

が、これを1錠ものむと、効きすぎてしまう。
へたをすれば、10時間以上、眠ってしまう。
しかも眠っている間中、幻覚につづく幻覚。
現実と夢と、区別のつかない夢を見る。

そこで私は必要なときは、この薬を、6分の1から8分の1に
割ってのむ。
「今日は、これくらいでいいかな?」と。

そのとき、のみ方にコツがある。
胃袋のほうへすぐ入れてしまわないで、舌の下で溶かしながらのむ。
こうすると、脳みそに直接、薬が効く。
(これはあくまでも、私の素人判断だが・・・。)
しばらくすると、心地よい眠気が襲ってくる。

睡眠コントロール・・・若いときとちがって、歳をとればとるほど、
睡眠コントロールが、むずかしくなるという。
トイレが近くなる人も多い。
私もそろそろその年齢に近づいてきた。

そこで今、ひとつ心がけていることがある。
(1) 就寝時刻は、きちんと守る。
(2) 昼寝時間は、たとえ15~30分でもよいから、きちんととる。

あとは自然体。
睡眠というのは、あまり神経質になりすぎてもよくない。
眠くなければ、起きていればよい。
眠くなったら、そのまま体を横にすればよい。

実は、昨日は兄の49日の法要とかで、かなり神経をつかった。
床につく前になっても、心のザワザワ感が消えなかった。
それでその薬をのんだ。
ワイフにも少し与えた。
それで今日は、たっぷり9時間も眠った。
(少し頭がボーッとしているので、量が少し多すぎたかな?)

ところで一言。
睡眠薬にかぎらず、脳みそに直接影響を与える薬を服用するときは、
脳の様子を静かに観察しながら、服用するのがよい。
こうした薬ほど、効き目に個人差があるものはない。
最初は、ほんの少しだけのんでみる。
それで効果がなければ、つぎに少しだけ量をふやしてみる。
やがて自分にとっての適量というものが、わかってくる。

・・・という話を、かかりつけのドクターに相談すると、そのドクターは
こう言った。

「そういう勝手な判断をしてもらっては困ります」と。

だから私のアドバイスは、みなさん、自己責任で応用してみてほしい。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●知性と理性

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電車に乗ったときのこと。
相向かい席に、40歳くらいの女性が座った。
かなりの体重のある人だった。
その女性が座ったため、その席は、その1人で満席(?)。
おかげで私は、その少しあいたところに、自分の
荷物を置くことができた。

++++++++++++

日ごろ、いくらふざけた生活をしていても、そういう場で、そういう話が
きちんとできれば、それでよし。
このことは、幼児の世界でも、同じ。

子どもらしいあどけなさがあっても、たとえば先生が「名前は何というの
かな?」と聞いたようなとき、しっかりと受け答えができれば、それでよし。
しかしそういうことができない子どもがいる。
できないおとながいる。
状況判断が的確にできない。
ヘラヘラとわらっている。

私の前に座った女性が、そういう女性だった。
携帯電話を手の中でいじっていたが、そこへ電話がかかってきた。
とたん、あたりかまわず、大声で話し始めた。

「あのさア、今、電車の中なんだわさア、あと30分もするとさア、
そちらへ着くからさア、待っててやア」と。

こんな感じで、10分近くも話していた。
私とワイフは、あきれてその姿を見ていた。

が、私の忍耐も、そこまで。
私はおだやかに、心静かに、笑みをつくりながら、こう言った。
「あのね、奥さん、電車の中では、携帯電話での通話はいけないことになって
いますよ」と。

するとその女性は、体をななめにしたまま、そしてふてくされた様子で、
「いいじゃんかア、電話くらい。ウッセーなア。まわりのほうが、
ヨッポド、ウルセーやないかア」と。

電話の内容からして、高校生の息子もいるらしい。
つまり母親。
そういう母親が、そう言う。

やがてその女性は、電車からおりて行ったが、私とワイフは顔を見合わせて、
笑った。

「一片の知性も理性もない女性というのは、ああいう女性をいうね」と。
ワイフも、すなおに同意してくれた。
「まるで人種がちがうみたい」と。

私「そう、まるで動物園のサルみたい。きちんとした会話すらできない」
ワ「そんな感じね・・・。ケータイをもったサル?」
私「高校生の息子がいるらしいよ」
ワ「どんな子どもなのかしら?」
私「親を反面教師にすれば、いい子かもしれない。しかし同じような
タイプの子だろうね」と。

で、こうした方向性は、すでに幼児期に決まる。
幼児期の子どもをていねいに見れば、その子どもがその先、どういう
子どもになっていくかが、わかる。
言い換えると、それまでの教育が重要。
しかし子どもを教えるというよりは、これは環境の問題。

親自身が、知性と理性で子どもをくるんでやる。
その結果として、子どももまた知性と理性を身につける。
その価値を知る。

親が、とくに母親が、寝そべってせんべいをかじりながら、「おい、おめえ、
勉強しろや」は、ない。
それこそ親の身勝手というもの。
その女性を見ていて、そんなことを感じた。

(補記)
教育について、否定的な考え方をする人も多いですが、ああいう女性を
見ると、教育の重要さが、よくわかりますね。

でも、考えてみれば、そういう女性でも、子どものころ、きちんとした
教育を受けたはず。
そこで考えられるのは、

(1) 家庭教育が不十分であった。
(2) 学校教育そのものを、その女性が否定してしまっていた。つまり
つっぱってしまっていた、ということです。

しかし私は、やはり家庭教育に問題があったと思います。
というのも、今度はその母親の子どもですが、私の想像では、その子どもも
また母親と同じような子どもになっていくだろうと思います。

あとは類は友を呼ぶというか、そういう人たちはそういう人たちどうしで、
集まっていく。
つまりそういう人たちから見れば、きちんとした会話のできる人たちとは、
交際できないということになります。
そういう世界へ入っただけで、ストレスがたまってしまう。
あとは(逃げる)→(ますます知性や理性から遠ざかっていく)の悪循環。
その結果が、先の電車の中で、私が見た女性ということになります。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●父親似、母親似

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遺伝子学的に、そういうことが
実証されているのかどうかは
知らない。
が、こういうことは言える。

息子は、母親の遺伝子を強く受け継ぐ。
娘は、父親の遺伝子を強く受け継ぐ。

私の孫たちを見ていると、そう思う。

私の息子は日本人。
その嫁はアメリカ人。
孫が、男の子と女の子。

孫の男の子は、アメリカ人の母親似。
孫の女の子は、日本人の父親似。

つまり遺伝子というのは、父親→娘、母親→息子と、
クロスするものらしい。
男から女へ、女から男へとクロスするから、
私は勝手に、「クロス遺伝」と呼んでいる。
(もし同じような言葉がすでにあったら、ごめん!)

こういう例は多い。
たとえば肥満についても、それが言える。

++++++++++++++

肥満といってもいろいろなタイプがある。
その中でも、本態的な肥満というものもある。
食べ過ぎたから太ったとか、そういう肥満ではない。
生まれながらにして肥満というか、ある年齢以後、
肥満から解放されることがないというタイプの肥満である。

私の知っている人に、こんな例がある。

父親は、その本態的肥満タイプ。
母親は、子どものころから現在にいたるまで、やせ型タイプ。

で、その息子たちはみな、やせ型。
娘たちはみな、肥満型。
ふつうの太り方ではない。
どっさと、鏡餅を置いたような太り方をしている。

で、今度はその孫たちだが、ここでともに、妻や夫たちの
遺伝子が混在してくるので、一概には言えないが、こと肥満遺伝子に
ついては、たしかに孫たちに伝わっている。

やせ型の息子たちの娘たち(孫)は、やせ型。
肥満型の娘たちの息子たちは、肥満型。

簡単に言えば、息子は母親似になるということ。
娘は父親似になるということ。
しかしすべての遺伝子がそうというわけではないらしい。
ないらしいが、一方、きわめて濃厚に遺伝していく部分もある。

私の印象では、
(1) 顔の容貌
(2) 肥満、やせ型
(3) 性格、体格などは、先に書いた「クロス遺伝」をしやすいのでは
と思っている。

(4) 知的能力については、もう少し複雑な遺伝方法で遺伝する(?)。
たとえば、隔世遺伝とか、いろいろ。
(5) 皮膚の色とか肌の色については、つねに優勢的な遺伝子が、遺伝して
いく(?)。

詳しくはまた自分で調べてみたい。
多分、この分野での研究は、かなり進んでいると思う。

で、あなた自身はどうか。
あなたの周囲の人たちはどうか。
一度、そういう目で、遺伝というものを考えてみたらよい。