Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Friday, October 24, 2008

*How do children re-act?

●子どもの心理

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『子どもの先生は、子ども』というのは、私が
考えた格言である。

子どもは、子供どうし、たがいに大きく影響を
受けあいながら、成長する。

最近、こんな経験をしたので、ここに記録して
おく。

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●R君(小2)のケース

R君は、幼稚園の年中児のときから、私の教室(BWこどもクラブ)に
通ってくれた。
聡明で、性格も落ち着いていて、ほかにこれといった問題はなかった。
が、いつも遠慮がち。
皆がワイワイ騒いでいるときも、ひとりだけ、みなのうしろで、静かに
それを楽しむといったふうだった。

そのR君は、小学校へ入ってからも、私の教室(算数クラブ)へ通ってくれた。
様子は、そのままだった。
目立たず、おっとりしたままだった。

で、私は、1~2年おきに、「言葉クラブ」という教室を開く。
以前は毎年開いていたが、このところ体力の限界を感ずることが多くなった。
だから、1、2年おきに、ということになった。

その言葉クラブ(英語と作文を交互に教える)には、K君(小3)という、
きわめて活発な子どもがいる。
好奇心がきわめて旺盛で、行動派。
何か新しいテーマを出すと、「やりたい!」「やりたい!」と、即座にくいついて
くる。
もちろん頭もキレる。
鋭い。

その言葉クラブに、R君も入ることになった。
最初、(これは母親からあとで聞いたことだが)、R君は、それにたいへん抵抗したという。
が、入ったとたん、水を得た魚のように、楽しみ始めた。
と、言っても、その言葉クラブのほうでは、相変わらず遠慮がちだったが、先の
算数クラブのほうで、大きな変化が現れてきた。

こういうことは、珍しくない。
(1+1=2)ではなく、(1+1=3)となる。
私は「1+1=3効果」と、勝手に呼んでいる。
クラスを2つにふやすと、その効果が、2倍以上になる。

それまで遠慮がちに行動していたR君が、見違えるほど積極的になってきたのだ。
これには驚いた。
(1+1=4とか、5)の変化といってもよい。

1~2か月もすると、算数クラブのほうでのR君は、むしろリーダー核的な存在になった。
みなと騒ぐようなときでも、先頭に立って騒ぐようになった。
(騒ぐことがよいわけではないが、どこか萎縮している子どもは、騒がせることによって、
エネルギーを外に発散させる。)

学校での様子も変わってきたという。
学校の先生が、K君の母親にそう言ったという。

もう一度、今までのことを整理しておく。

(1) R君(小2男児)は、年中児のときから、私の教室へ来ていた。
(2) 小1のときから、算数クラブに入った。
(3) R君は、おとなしく、目立たない子どもであった。
(4) 小2になるとき、R君は、言葉クラブにも、入った。
(5) そこで小3のK君に出会った。
(6) 国語クラブでのR君は、以前のままだった。
(7) しかし算数クラブでのR君は、まるで別人のように変化した。

R君(小2)が、K君(小3)の影響を受けたことは、すぐわかった。
動作(たとえば、手を小ぶりに振ったあと、相手を指差すなどのしぐさ)や、
友だちに話しかける言い方(「おいやあ」と言って、相手の肩を叩く)など、
K君そっくりの動作をし始めたからである。

もちろんK君のもっていた積極性も、そのまま受け継いでしまった。
「まるで別人」というのは、そういう意味である。

そのことを参観していたR君の母親に話すと、母親は、うれしそうに笑っていた。
私が「子どもの先生は、子どもですよ」と言うと、「そうですね」と。

もちろんどの子どもも、そうなるわけではない。
それまでの下地もある。
素養もある。
それらが積み重なって、そういう現象が現れる。
しかしこうした現象は、子どもの世界では、先ほども書いたように、よくある。
珍しくない。

子どもというのは、しばらくの間、観察学習を通して、周囲の情報を蓄積する。
そしてそれが満を期したとき、まるで爆発するかのように、飛躍的に成長する。
よい例が「言葉」である。

0~2歳まで、ほとんど話さなかった子どもが、2歳前後から、急に言葉を話し
始める。
文字についても、そうだ。
それまでいくら教えても、グニャグニュの線しか書かなかった子どもが、満4・5
歳を境に、急に文字を書き始める。
心理学の世界では、そういう(時点)を、「臨界点」とか、「臨界期」とかいう。

R君も、K君に出会って、それまで蓄積していたものを、一気に爆発させた。
結果的にみれば、「影響を受けた」ということになるが、実際には、K君がR君を
爆発させるきっかけになった。

ただ興味深いことに、言葉クラブのほうでのR君は、どちらかというと、静かで
おだやかな子どものままということ。
が、そうでいながら、どこかでいつも、K君を観察しているのかもしれない。
(少しずつ、活発になりつつあるが……。)
つまりR君は、言葉クラブで見ているK君を、算数クラブのほうで、再現して
いる。
この現象を簡単に説明すれば、そういうことになる。

子どもの世界をあまり知らない人のために、ここに、R君のことを、
記録として残しておく。

(はやし浩司 子どもの成長 子供の成長 子供の先生は子供 子どもの先生は、子ども 子どもの先生は子ども)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司

●お金と健康

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お金にしても、健康にしても、それに能力にしても、
大切なことは、それをどう使うか、である。
「時間」も、それに含まれる。

使い方をまちがえると、無駄にするばかりか、
精神のものを、後退させてしまう。

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能力を例にあげて、考えてみよう。
たとえばコンピュータにウィルスをばらまいて楽しんでいる(多分?)人がいる。
たいした知識などなくても、ウィルスは簡単にできる。
しかしそれでも能力は、能力。

人は、他人に迷惑をかけた分だけ、自分の精神を後退させる。
一度後退した精神を取りもどすのは、容易なことではない。
その何倍もの努力をしなければならない。
あるいは、その前に、人生そのものが、終わってしまう。

お金にしても、そうだ。
健康にしても、そうだ。

知人に、今年、80歳になる女性がいる。
若いときから、小銭にうるさく、インチキばかりしていた。
父親は戦死していたので、その遺族年金が、ずっと入っていた。
夫は公務員だった。
その6年ほど前に他界していたが、転籍特権というのがあって、その年金も
ずっと入っていた。

お金には苦労をしなかったはず。
というより、そのとき、すでに数千万円(現金、貯金など)の財産をもっていた。
が、ただ「財産をもっていた」というだけ。
ふつうなら「何かに使う」ということを考えるが、その女性のばあい、ことあるごとに、
こう言っているという。
「そんなことをすれば、貯金が減ってしまう!」と。

同じよう話に、健康がある。
健康であることはすばらしいことである。
だれも、それを疑わない。
しかしいくら健康であるからといって、暴飲暴食を繰りかえしたり、
タバコを吸っていたのでは、意味がない。

冒頭に書いたように、「大切なのは、その使い方」ということになる。
つまりお金にしても、健康にしても、能力にしても、さらに時間にしても、
どう賢く使うかが、問題。
もっとも若いときは、どれも豊富にあり、無駄にしても、悔いは残らない。
お金にしても、「またつぎに稼げばいい」となる。

しかしそこに(先)が見えてくると、そうはいかない。
とくに(時間)は、砂時計から、金の砂がこぼれ落ちていくような状態になる。
能力にしても、健康にしても、不可逆的に退化する。
お金については、それがなければたしかに不幸にはなる。
しかしいくらあっても、お金で幸福は買えない。

「孤独」にしても、若いときは、それほどこわいものではない。
しかし50歳を過ぎると、孤独のもつおそろしさが、しみじみとわかるようになる。
さらに60歳を過ぎると、(今の私がそうだが)、孤独は恐怖以外の何ものでもない。
この先のことはわからないが、70歳になれば、さらにそうだろう。
80歳になれば、さらにさらにそうだろう。

あのイエス・キリストですら、孤独に苦しんだという(マザーテレサ)。

孤独を前にしたら、巨億の富ですら、砂漠の砂のようになる。
死を前にしても、そうだ。
健康を害しただけでも、そうなる。

そこで(能力)ということになる。
能力が知恵を生み、その知恵が、私たちの生き様を決める。
私たちがもちえる、ゆいいつの武器といってもよい。

賢い人は、それを失う前にその価値に気づき、愚かな人は、
それを失ってから、その価値に気づく。
つまり使い方をまちがえると、それを失いながら、失っている
ことにすら、気づかなくなる。
だからこのタイプの人ほど、ワーワーと大騒ぎをする。
泣き叫んだり、わめいたりする。

まず、お金。

見得やメンツ、体裁のためにお金を使う人は、多い。
世間体を気にする人も、そうだ。

このタイプの人は、つねに他人の目を気にする。
他人の目の中で生きる。
だから自分がない。
「私は私」という生き様そのものが、ない。
だからつねにささいなことに振り回されて、ワーワーと騒ぐ。

実際、価値観の定まらない人と交際するのは、容易なことではない。
交際しても、どうしても上辺(うわべ)だけのつきあいになる。
が、それだけではない。
長くつきあっていると、何がなんだか、わけがわからなくなる。

健康については、いまさら説明すべくもない。
が、それにしてもわからないのが、喫煙。
お金を出して、病気を買うようなものだが、それについては最近の脳科学は、
ドーパミンの作用によるものだというところまで解明している。
脳の線条体というところに一度、受容体ができると、喫煙習慣をやめるのは
容易なことではないそうだ。

残りは、「時間」ということになる。

「時間」イコール、「命」、「命」イコール、「時間」。

たった今、居間のガラス窓に、ドバトが体を打ちつけて、そのまま死んでしまった。
まだ子どものようなハトだった。
ワイフがかけつけたときには、すでに息がなかった。

あっけない最期だった。

……庭の隅に穴を掘って埋葬した。
手を合わせて祈った……

あのハトは、どこから来て、どこへ去っていったのか。
そのハトにしても、この宇宙もろとも、この世から消えたことになる。
つまり、こうして生きていること自体に、価値がある。
意味がある。
人間もしかり。

身分や生まれは、関係ない。
金持ちも貧乏人も、関係ない。
まさに『死ねば、おしまい』。

その死ぬまでの時間を「命」とするなら、刻々と過ぎていく時間には、無限の
価値がある。
言いかえると、今、あなたがここにいて、ここに生きているなら、無駄にできる
時間など、一瞬一秒もないはず。

が、遊べ、楽しめ……ということではない。
(すべきこと)を見つけ、それをする。

こうしてそれぞれの人が、それぞれの生き様を見つけ、確立していく。
もちろん私の生き様は、私だけのものであって、人とはちがう。
この問題だけは、人それぞれ。
人、さまざま。

では、どうするか?

私のばあいは、50歳をすぎたころから、何をするにも、自分にこう問いかけてみた。
「だから、それがどうしたの?」と。

おいしいものを食べる……だから、それがどうしたの?
新しい車を買う……だから、それがどうしたの?
みんなと遊ぶ……だから、それがどうしたの?、と。

その結果、私は、意味のないものに、けっこうわずらわされたり、
まどわされたりしているのを知った。
価値のないものを、価値があるものと思いこんでいることも知った。

だからといって、それで生き様が確立したわけではない。
今の今も、その過程の中にある。

お金にしても、健康にしても、それに能力にしても、
大切なことは、それをどう使うか、である。
「時間」も、それに含まれる。

このところ、ますますそれが真剣勝負になってきた。

(追記)

私はもうすぐ満61歳になる。
ところが、つい先日書いた文章を読むと、「満62歳」となっている。
自分で自分の年齢をまちがえたことになる。

これはいったい、どういう現象なのか。

昨年、私は満60歳になった。
1947年の10月生まれだから、それはまちがいない。

が、「62歳」と書いた。
60歳から1年間生きて、その60歳から2年目に入ったから、
「62歳」と書いた。

年齢がわからなくなるというのは、ボケの始まりである。

クワバラ、クワバラ……。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司